第一部 薫る古都にて少年は言う(1-2)
まだ七つかそこらの幼い頃のことだ。訓練で下手をして門前に立たされているところに蝶乃が通りかかった。
颯の家は忍びの文化を守る家系である。まるで時代に取り残されたかのような家屋敷が建ち並ぶ『古都』には、武家を名乗って剣術に明け暮れる家もあれば、平安貴族の風流を生きる家もある。
伝統文化保護都市とは、その名の通りにこの国の古い伝統や文化を保護することを目的とした、国の特別指定保護区である。住民はみな、それら伝統文化の何かしらを受け継ぎ、守り、継承して暮らしている。
忍びの文化は隠密のための技術、主に心身の鍛錬がメインである。
颯も幼いうちから小刀を握り、庭に立てた藁の人型や竹を相手に、日夜訓練を続けていた。が、何しろ子供である。失敗などしょっちゅうで、父に叱られ門の前に立っておくよう命じられることは日常茶飯事であった。
そこへ、蝶乃が通りかかったのである。
彼は小さいなりにきちんと着物をまとって、からころと下駄を鳴らしながら歩いてきた。
前髪を眉の上で短く切りそろえ、ほかは肩の辺りで揺れている。伏し目がちに長い睫毛を伸ばし、紅を差したように鮮やかな唇に、微かに笑みを刻んでいた。風呂敷包みを抱えている。お使いの行きしなか帰りしなか、そんなところだろうと思われた。
楚々として愛らしい姿に、少女と見紛った颯は知らず目を奪われ、じっと見つめていたものらしい。
軽く会釈して、二、三歩通り過ぎた彼は、さらと髪を広げて振り返り、瞳をあわせて困ったように微笑んだ。
「そない見られたらなんや恥ずかしいわ。なんぞ顔についとりますか?」
小鳥のさえずりに似た高く澄んだ声で、聞きなれない話し方をした。
「いや、えと」
狼狽えた颯は言葉に詰まる。
「その、そう、髪! 髪が……、えっと、珍しかったから」
まごまごと苦しい言い訳をして、頬に朱を走らせた。
「ああこれな。かむろ髪言いますねん。男やのに恥ずかしいやろ」
目顔で指し示すように視線を斜めに流し、肩口の髪をしゃらと揺らして相手は応えた。
「お、おと……? え、ええっ」
なおのこと狼狽える颯に、少年はころころと鈴を転がすように笑った。
「なんや、女と思て見てましたんかいな。ませたお子やね。うちは付くもん付いた正真正銘男です。せやけど、こない女もんの着物着て髪伸ばしとったら、勘違いしてもしゃあないね」
抱えていた包みをそっと片手に持ち替え、口許に袖を当てて小首をかしげて彼は笑う。颯は反論しかけ、しかし口をつぐんでさらに赤面した。
確かに、萌黄の色も鮮やかに朱と白の小花の散った振袖も、高い位置で腰を締める薄桃色の太帯も、艶やかに伸びた黒髪も、少女としての要素を多く備えていた。だがそれ以上に、少年の面立ちと振る舞いの可憐さが、勘違いの原因のように思われる。
けれどそれを言うのは、なんだか恥ずかしいことのような気がした。
「うちは使いの帰りですねん。あんさんはこないなとこで何してはるのん?」
気を利かせて少年は話題を変えたが、それは颯を情けない顔にさせた。
「訓練で父上に叱られて、立たされてるんだ」
あらまあ、と彼は大きな猫目を一度見開き、それから細めて、ふふ、と笑った。
「そらお疲れさんやね。うちもよう怒られますんよ。足がどう手がどうて、手酷うぶたれますねん。やけど稼業やからしゃあないんよ」
「稼業?」
やけに難しい言葉を使う。オウム返しした颯に彼はこう続けた。
「そやで。うちら『古都』の人間は、芸を磨くことばかりで働きもせぇへんやろ。そやのにお国から立派なお屋敷用意してもろて、毎日おまんま頂いてる。やからね、これが家業で、稼業っちゅうわけ。家業っちゅうのはお家の役割で、稼業はおまんま食い上げへんための
どこか悪戯っぽい笑みを浮かべた少年の言葉に、颯は感心し、納得のいった面持ちになった。
その頃、颯は修行にさほど熱心ではなかった。忍びの技をいくら身に着けたところで、戦があるわけでなし、仕えるべき主君もない。『古都』で将軍を名乗る存在が本物の征夷大将軍ではないことくらい、幼い颯も知っている。鍛錬だの修行だのに明け暮れることは、意味がないように感じていた。
それが、少年の言葉で一変した。
少なくとも自分の身を立てるのに必要な仕事だとわかった。それならばもっと真剣にやってもいい。これまでの不出来を反省し、今後はきちんと取り組もうという気になった。
目からうろこが落ちて、世界が明るくなったような気分だ。
颯はそうさせた少年の言葉に感動を覚えた。同じ年頃に見えるが、彼は美しいだけでなく聡明でもあるらしい。
「おれは颯。忍びの家の者だ。おまえは」
急にしゃんとした颯にやや驚いた様子を見せながらも、少年はくすりと笑って返事した。
「うちは
蝶乃が軽く腰を折ると、しゃらと髪が頬を流れて隠し、顔を上げるとまたもとに納まった。ふわりと笑みを浮かべる。
長い袂を揺らして立ち去っていく背を見送りながら、颯は耳たぶまでもが熱く、胸がとくとくと不思議に跳ねるのを感じた。
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