十六

 あれから、彼が夢に出てくることはなかった。私はいくつもの寂しい夜を過ごした。いつもは閉め切るふすまを数センチ開けて、眠りについたこともあった。


 しかし、彼は現れなかった。


 私の夢の世界の時間は止まったが、現実の世界の時計の針は進み続けた。


 橋本様と式を挙げ、私は家を出た。


 隣の町の、私にとっては立派な家に住み始めた。


 しかし、空虚だった。私の勘は的中し、橋本様はお父さまのお金を遊びに使った。


 隣の奥さまが心配そうに、こっそり教えてくれたが、橋本様の芸者遊びがひどいそうだ。一夜で、大金がぱっと消えてしまうものだった。


 家にどんどんお金が無くなっていき、私は初めてお金の話をすることにした。橋本様は、真っ昼間に家に帰ってきた。さっそく、お金の話をしようとすると、勘付いたのか、ふっと笑って


「世間知らずの貴方が、一体何をおっしゃっているのでしょう」


と言った。私は数学の試験でも満点を取ったことがある。家計簿をつけていて、こんな大金がたった一ヶ月で無くなるのは、さすがにおかしい。


「私は女学校の試験で学年一位を取ったことがあります。私を騙そうとしても無駄です」


「うるさい!」


 大きな怒号とともに、左頬に強い痛みが走った。橋本様は私をぶったのだ。その痛みに耐えきれず、私はよろけてしまった。


「たとえ計算が出来ても、人生で大切なことを知らなければ、何の意味もないのです。貴方は女学校とやらの過去の栄光にすがっていますが、学校では人生で大切なことなんて、誰も教えてくれませんよ」


 すると、橋本様は私が書き留めていた家計簿を手に取り、びりびりと破った。


「こんなものは必要ありません。私は私を生きるのです。。この今!」


 橋本様の高い笑い声が家じゅうに響く。


 破り捨てた家計簿が、花吹雪のように宙を舞う。呆気に取られていると、橋本様は部屋を出て行き、玄関の閉まる音がした。


 ひりひりと痛む頬をなぞるように涙が零れていく。すると後ろのほうで、かたっと物音がした。


 ゆっくり後ろを振り返ると、眉を下げ、小さく震えていた女中がいた。この子は私よりも年下だ。まだ幼い顔が心配そうにこちらを見ている。


「恐ろしいものを見せてしまったね。少し暇を出すから、お家へお帰りなさい。申し訳ないと、貴方のお父さまに伝えておくれ」


 女中はこくり、と頷くと自分の部屋に戻っていった。がさごそと音がするので、帰る準備をしているだろう。


 居間にひとり、頬を伝った涙が畳に落ち、じわじわと、しみが出来ていく。


 私は、一体何のために生きていたのだろう。そう考えると余計悲しくなった。


 私はなんとか立ち上がり、玄関へ向かった。


「奥さま、どちらへ」


 可愛らしい声が聞こえたかと思えば、さっきの女中だった。


「少し、散歩にでも行ってくるよ」


 女中はまだ、あの時から表情は変わっておらず、眉を下げ、心配そうにこちらを見ていた。


 玄関を開けると、外にいた人たちに視線が一気に私に移った。きっと、聞かれていたのだろう。ひそひそ話をする人も、目に入った。 


 私はふらりふらりと歩いた。すると、少し遠くで路面電車の音がした。


 もう少しで路面電車がこちらへやってくる。それに乗って、どこか遠くにでも行こうか。でも、財布を持ってくるのを忘れた。


 住宅街を抜けると、大きな道路に出た。路面電車の走る音が段々と大きくなっていく。


 私は歩き続けた。タイミングが合えば、路面電車に轢き殺されてしまいたい。

 路面電車が見えてきた。もう、このまま死のう。


 どんどん、近づいてくる。汽笛を鳴らして、どんどん近づいてくる。


 このまま、私は死ねる。最期に思い出したのは、夢の殿方の微笑みだった。月夜に照らされ、微笑む、彼。


 永遠の眠りにつけば、あの世で彼に出会えるだろうか。


 路面電車がもうすぐそばまで来た時、


「危ない!」


 誰かが私の左腕を掴み駆けだした。でも、もう遅かった。


 私は転んで倒れ込み、両足の上を路面電車が走った。


 足に激痛が走り、少し遠くで悲鳴が聞こえた。


「大丈夫か、おい!」


 男性の声だった。声のする方へ顔を傾けるも、逆光でよく顔が見えない。

「おい、誰か医者を呼べ!」


 そう、その方は大声で叫んだ。私は、最期の力を振り絞って、その人の腕を掴んだ。


「いいんです。どうか、お静かに。騒ぎになりますから」


「そんなこと言ったって、君、たくさん血が出ているんだぞ!このままにしておくと、失血死してしまう。はやく医者に」


「いいんです。これは故意にやったものです」


 彼は黙った。


「死なせてください」


 すると、彼は私の肩をしっかりつかんだ。顔がぐっと近くに寄る。その時、はっとした。夢に出てきた、あの殿方にそっくりである。真っ黒で大きな瞳、高い鼻梁、薄ピンクの可愛らしい唇、はっきりした輪郭。彼だ。あの彼だ。しかし太陽の光で、目が霞む。


彼の腕を掴む力が抜けていく。


「貴方は…、」


 貴方は、私の夢の、そして私の一部で…。


 眩しくて少し俯くと、彼の胸が膨らんだのが見えた。


「だめだ!君は君を、生きなければならないだろう!」


 彼は叫んだ。耳が痛むほど、鮮明に。


意識がぼんやりとして、彼の輪郭もぼやけていく。目を閉じた。私はあれから二度と、夢を見なかった。


≪完≫

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夢の沈黙 藍治 ゆき @yuki_aiji

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