第76話 逃げる、という選択
※注:今回はサカキ→イリアティナ→外野→サカキ→外野という具合に視点がコロコロ変わります。わかりやすいように段落で区切っていますがちょっと多かったかも。
※補足説明 本作のヒロイン・イリアティナは3つの人格があります。国宝である錫杖やミニ錫杖を持つことで一瞬で人格が変化します。
☆国宝錫杖を持つと→女王様モード 一人称「私」 威厳があり、政治家としても有能。物事をバシっと決める。
☆ミニ錫杖を腰飾りとして付けると→お姫様モード 一人称「わたくし」 恥ずかしがりやで可憐な淑女となるが、内政面に優れている。商才に長けている。
☆何も持っていない時→素モード……だったが、最近は”ポンコツモード”と周囲に言われている。
――王城北側バルコニー――
王城の室内は精霊魔法で適温になっているが、バルコニーのような外ではやはり肌寒い。サカキは羊毛で編んだショールを手に、呼び掛けた。
「姫、外は冷えます。これを――」
バルコニーの端に立ち、目の前に広がる壮大な景色を眺めていた女皇は振り返り、力なく微笑んでショールを受け取ろうと手を伸ばした。
サカキはその手をするりと躱し、女皇の肩を抱くかのようにショールを巻き、薔薇形のピンで首元にショールを留める。サカキを見上げる女皇の顔は頬がほんのりと赤い。
イリアティナの美貌はあまりにも整いすぎていて、いっそ神が作った彫刻のような冷たいイメージすらあったが、人間味のある恥じらいの表情を浮かべると清楚で可憐な白薔薇のような芳香を纏い、サカキの理性は揺れた。
「ありがとう、サカキ。2人きりでいるときはイリア、と呼んでくださいますか?」
「……わかりました。では、イリア。心配事がおありのようだ、俺に話してくれますか?」
サカキは珍しくはっきり促した。いつもであれば相手から話し出すまでは待つのだが、今は違う。ほとんど弱音を吐かないイリアティナがここまで弱っているのは、よほどのことだ。
女皇の後ろに広がるのはブールランデン山脈の白い冠雪にくっきりとしたコントラストを描く黒い岩肌、その合間を縫う白い糸のような滝群。以前にハステアの丘から見た時よりも近くに見える。山から吹き下ろす風は冷たく、女皇の結い上げた髪のおくれ毛を揺らしている。サカキは風上に立った。
イリアティナは苦笑した。
「言ったとしてもどうにもならないこととはわかっています。でも、やはりわたくしは別の人生――もしも普通の家に生まれ……いいえ、せめて普通の容姿であったならローシェにここまで多くの危機を呼び込まなかったのではないか。そもそも国の終焉の預言もなかったのではないか。このところ、そんな考えばかりが浮かんで……」
と、切り立つ山々を眺めながら女皇は言った。
サカキの心に、女皇の感情がわずかに流れ込んでくる。サカキを――愛する人を危険な目に遭わせた。そのことが一番堪えているのだ。
サカキの心にさざ波が立つ。姫のせいではないのに。
「ごめんなさい、こういうことを言われても……困ってしまいますね」
女皇は無理に作った笑顔で言う。
サカキは首を振った。
「イリア、張り詰めた糸は切れやすい。時々は緩めるのがよいでしょう。それに、貴女が言っていることは決してどうにもならないことではない。今はいろいろな問題が一度に立ち上がっていますが、貴方はそれに立ち向かう力がある。ですが――」
「ですが?」
「もし、押し寄せる難題に耐えられなくなったら。そしてイリアが心の底から普通の人になりたい、というなら俺が貴女を連れて逃げます」
伏し目がちだった女皇の目が丸くなり、サカキを見上げた。パチパチと瞬きをしている。
(……可愛いな)
「逃げる?わたくしを連れて?」
「はい。俺は忍者ですから。敵わない相手からは逃げるのが一番。
そうですね、まずはモクレンに二人で乗って港へ駆け抜け、そこから船に乗ってバラル海を南下しましょうか。ここから対岸にあるローダンは色鮮やかな南国だそうです。食べたことのない果物を食べて、麦わらで作った帽子を被り、そこから西へ行ってもいい。だれも貴女を知らない場所まで――」
サカキはイリアティナの目をまっすぐに見ながら、穏やかだがしっかりとした声で言った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――バルコニーの両開きのドアの後ろでは――
『逃げるとか不穏な言葉が聞こえたんですけど……』
とロルド。
『大丈夫、2人ともそういうことはできないと10割わかってて言ってます』
ヒムロが神妙な顔で言った。
『姫……それほどまでに……』
ユーグが悲し気に言う。
『こういうときの心の寄り添い方は彼に任せるのが一番です』
と、ケサギ。
『ええ。姫が一番言ってほしいことを言ってると思います。サカキもその美しさのせいで何度もひどい目に遭って来ましたから。でも、強くなることで克服した。姫の気持ちを最も理解できる人物でしょう』
ムクロも保証する。
『サカキ様の言葉は……お腹にストンと落ちる……』
ヒカゲが珍しく意見を述べた。彼もサカキを心の底から信頼している。
大抵の里の者は、ヒカゲが泣いていると「だいじょうぶ?」とか「どうしたの?」とか聞いてくれるが、そうなると会話に難のあるヒカゲは「だいじょうぶ」「どうもしない」としか答えることができなかった。
しかし、サカキだけは「何がお前を困らせている?」と聞いてくれた。
そう言われてはじめて自分の胸の内を明かすことができたのだ。それ以来、ヒカゲはサカキに懐いた。サカキはヒカゲが困るような質問を絶対にしないからだ。
『できない、とわかっていてもだれかにできると言ってほしい時――確かにありますなあ』
スパンダウがしみじみと言う。
円卓会議の面々は休憩と言いつつ姫とサカキの様子を陰でこそこそと窺っていたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「だれもわたくしを知らない場所……」
イリアティナはサカキの言葉を繰り返し、そしてふふ、と声を出して笑った。
誇りを第一とする騎士とは全く違うその柔軟な考え方に心が軽くなる。
「そうですね、そういう道があるなんて今まで考えたことがありませんでした。貴方ならきっとだれにも知られずにわたくしを連れだしてくれますね。そうですか……逃げる、という選択もあったのですね」
イリアティナは心に自分の旅の姿を浮かべた。こんな重たいドレスではなく、普通の村娘が着るような素朴なシャツとズボンに旅人用のマントを羽織り、髪をお下げにし、だれも自分を知らない土地をサカキと2人だけで旅をする。月が浮かぶ砂漠や、ヤシの木の海辺、森の奥深くの泉。物語でしか知らなかった風景。でもそれは――
「わたくしが生きている限り、難題は無限に現れる、解決してもあとからあとから湧いて来る終わりのない生、と思っていました。でも、人は無限の雨風に家を建て、戸を閉める――ありがとう、サカキ。わたくし、大事なことを忘れていました」
「大事な事……」
「子供の頃の夢です。この大陸にあるいろいろな国をこの目で見たい。知らない土地へ行って、知らない言葉をしゃべる人たちに会って、知らない食べ物を食べて、その土地で生きている人たちの生活を見たい。そのためにいろいろな国の書物を取り寄せ、その中でひときわ目に付いたのが秋津の国のガイドブックでした」
「ああ、それで初めて会ったときに――」
「はい。秋津の国の紹介で、忍者という存在にとても心を惹かれました。いつか、本物の忍者に会ってみたい。手裏剣を投げたり忍術を使ってみたい、それが一番の夢になっていました。それが叶ったのにわたくしったら、その時の熱をどうして今、忘れてしまっていたのかしら……」
「あのとき、俺は忍者の装束は着ていなかったのに、よく一目でわかりましたね」
サカキが苦笑している。
「なぜかしら?ああ、その切れ長の黒い瞳が絵本の忍者とそっくりだったから、だと思います。あの時は興奮していてそういうことは全然考えていませんでしたが……」
とイリアティナは笑い、手を伸ばせばすぐに届く距離にいるサカキの目を見上げて言った。
「サカキ、我が忍よ……」
可憐な姫君の瞳に力が戻っていた。
「イリア……」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
サカキはイリアティナの呼びかけに驚いた。
我が忍――。
それは主君が自分のものである忍者へ呼びかける信頼の証だ。雇い主と雇われる者の関係ではありえない言葉。
「わたくしは……この国を強くしようと思います。他国のだれもが攻めようとする気が起きないほど。
そして、戦争の種になるものをひとつひとつ潰して行こうと思います」
「それは――『忍者の寿命を延ばす』ための?」
イリアティナはサカキの目を見てうなずく。
「はい。何年かかるかわかりません。それを成し遂げた時はおばあさんになっているかもしれません。いえ、生きている間は無理かもしれません。でも、もし、その時が来たら、本当に、私を、世界をめぐる旅に連れて行ってくれませんか?」
サカキの心にふっとイメージが沸き上がる。
急峻な山々を抜け、地平線のはるか向こうまで続く草原を駆け抜ける。
(不思議だ……まるで俺たちは以前から2人でいろいろな場所を巡っていたような……そういえば姫に最初に会ったときも俺は海の記憶を見た。海中から海面に上がり、2人で見つめ合っていたような。そのときの、なにか暖かなもので心が満たされた幸せな記憶が心に残っている――)
サカキは前世というものは信じていない。だが、ひょっとしたらそれはあるのかもしれない。女皇の、真夏の青空のように澄んだ瞳を見ているとそんな気がしてくる。
サカキも女皇の瞳を見ながら約束した。
「ええ、きっと……必ずお連れします……我が君――」
サカキは二度と口にすることはないと思っていた言葉が出た。
忠誠を誓う主君に呼びかける『我が君』。 ロルドに頼まれたからではない、ローシェに恩を受けたからでもない、自分の意思での約束だ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『……姫のために我々もがんばらねばならないな』
『姫がおばあさんになる前に、我々が先に爺になりますが、なるべく早く姫の夢をかなえさせてあげたいですなあ』
『それは我らの夢でもありますな』
『それはそう遠くないうちに――』
ムクロがあまりにもアッサリ言ったので、他の面々は驚いてムクロを見た。
『あっ……ええっと――なんか勘がそう言ってるから……』
しどろもどろである。
『お前、ときどき突拍子もないこと言うよなー』
と、ケサギに頭をこづかれるムクロ。
『いや、私もなぜかそういう気がしてきました。ムクロ君、ありがとう。その言葉を励みにします』
ロルドがにやりと笑う。
『その、なんか――すいません』
と消え入りそうな声でチグハグなことを言い、顔を真っ赤にするムクロを見て一同が笑う。
この時はそれ以上誰も突っ込むことなく話は終わった。
しかし。彼の様子がおかしかった原因がわかるのはかなり先のことだった。
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