第62話 榊印の苦無
――女皇寝室・深夜――
イリアティナは、「今日は早めにお休みください」とロルドに言われたものの、寝屋着に着替えたまま、椅子に座り窓を少しだけ開けて待っていた。
打ち合わせはしていなかったけど――きっとあの人は来てくれる、と確信していた。
その予想通り、コンコン、と外側に開いている窓を外からノックするその手はサカキのものだ。指だけでわかる。とても手練れのものとは思えない、細くて長い、綺麗な指。
3階の、バルコニーも、手をかける場所もないのに窓の外からどうやってノックできるのかイリアティナにはさっぱりわからなかったが、サカキは窓からヒラリと身を躍らせ、音もなく着地した。
「打ち合わせはしておりませんでしたが……お待たせいたしました」
サカキが笑っている。最初に会った頃よりもずっと柔らかに。
(わーお!全部吹っ飛んだ!嫌な事も心配事も疲れも全部ポイよ、ポイ!)
「えへへ、……待ってた」
好きな人の姿を見てイリアティナはワクワクが止まらない。
サカキは剣客姿で、着物に似ているけど袖も裾もヒラヒラと広がるタイプですごく似合っている。
「16歳の誕生日、おめでとうございます。いろいろ考えたのですが……あなたはなんでも持っておられるし、望めば手に入る。なので俺は、これしか思い浮かばなかった」
すこし照れくさそうにサカキが懐から取り出したのは――
「わ、
「ええ。あなたの手にぴったりのサイズのものを鍛冶屋に無理を言って作ってもらいました。それと――」
差し出された苦無には革製の鞘が付いていた。
「これならお肌を傷つけることもない。ずっと身に着けていただけます」
「すごい、私の手にぴったり!持ちやすい!」
「それはよかった。あと、持ち手のところに俺の印が彫ってあります」
「印……」
「以前、
印は忍者にとっては苗字の代わりのようなものです。忍者は己の持ち物に印を付け、区別を付けます。
榊の葉は濃い緑でとても艶やかです。冬でも緑色を保ち、その姿の清らかさから、古来より神が宿る、と言われていました……まあ、縁起がよい、ということで」
と、表向きはそういう事にしたが、忍者が己の印入りの武器を渡すという事は「命を預ける」という意味である。騎士が手への口づけで忠誠を誓うように、忍者は武器で誓うのだった。ただ、サカキはそれを告げようとは思わなかった。騎士と違い、忍者のそれはイリアティナにも同等の”見返り”を要求することになるからだ。
「神が宿る榊の印……うれしい……ありがとう、大切にするね――」
イリアティナは刻まれた榊の葉の印にそっと触れ、両手で苦無を抱きしめて胸にあてた。
(やだもううれしい!うひょー!!)
本当は駆け寄って抱きしめたいけど、それは侍女長に止められているので我慢する。
(レディーはホイホイ殿方に触っちゃだめなんですって。残念)
「それを使う時が来ないほうがよいですが」
「ううん、昔から小さくて身に着けるための刃物は魔物を避けると言うわ。きっと私の役に立ってくれる、そんな感じがする」
サカキも今日は1日中忍務で忙しかっただろうに、それでもちゃんと来てくれるのがイリアティナにはうれしかった。誕生日の贈り物をきっと、ずっと前から用意してくれていただろうことも。
「今日もお眠りになられるまで傍におります。安心してお休みください」
サカキが軽々とイリアティナを抱え上げ、寝台まで運ぶ。
「あのね、もう一つお願いしてもいい?」
「なんなりと」
即答してくれるところも頼もしい。
「今日だけでいいから朝まで傍にいてほしいの……お早う、って言いたい」
イリアティナは耳が真っ赤になるくらい恥ずかしかったが勇気を出して言った。
サカキは本物の愛人ではなく、口づけすらもしておらず、イリアティナが眠るまで寝物語を聞かせてくれたり、時には静かな曲を笛で奏でてくれるだけの関係であった。
忍務で忙しいサカキを早く解放するために眠ったふりをしていて、いつも寝室から出て行くサカキの背を見て寂しく思っていた。でも誕生日なら――
サカキは少し戸惑った顔でイリアティナの顔を見て、すぐにうなずいた。
「わかりました」
腰に下げていた大太刀を寝台の傍らに置き、剣客服の上着を脱ぎ、紗(薄物)の襦袢姿になった。
頭の高い位置で結んでいた髪の紐をほどき、肩よりも下のあたりで結びなおす。
その一連の動作に色気を感じてイリアティナはうっとりと眺めてから寝台の奥へと身を寄せ、サカキの入る場所を作る。
(と、隣に来てくれるかな……)
心臓がバクバクするけど気取られないように平気なふり、平気なふり――
しかし、サカキは寝台には入らず「おやすみなさいませ」と言って、イリアティナの胸元までブランケットをかけた。
サカキは椅子に座ったまま一夜を過ごすようだ。
(ええー、でもそんな気はしてたのよね……)
イリアティナは心底ガッカリしたが、同時にサカキらしいな、と思った。
(やっぱり私って女としての魅力ないのかなあ。こういうとき、普通の女の子ってどう行動するんだろう?アカネちゃんに聞いておけばよかったな)
枕に横顔を埋めながらちょっと恨めし気な顔をしてサカキをチラ見すると、困った顔をしていた。
彼はイリアティナの意図はわかっていても応えられないことを申し訳ないと思っているようだ。それくらいのことなら16歳になったばかりのイリアティナにもわかる。
困らせてしまってごめん、と思うと同時にその困り顔が珍しくて、愛しさが爆上がりしてしまったので、
「おやすみなさい」
と告げて、くるりと反対側を向いて無理やり目を閉じた。とても寝られそうにないと思っていたけど、やはり疲れていたのだろう、すぐに眠気がやってきた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
目を閉じるとすぐに寝息が聞こえて来た。
サカキはふぅ、と息を吐いて椅子に座り、背もたれに深く背中を預けた。
イリアティナの心は痛いほどわかる。だが、サカキの心には秋津人としての価値観が大きな壁を作っていた。
サカキはイリアティナを女神にも等しい存在、と思っている。
大国の女皇であり、サカキの恩人であり、ローシェ国民216万人の頂点に立つ人物に、自分のような何人もの男女と夜を共にし、騙し、命を奪ってきた卑しい忍者ふぜいが触れて良いものではない。
イリアティナはいずれは高貴な貴族か、立派な騎士と結婚する。ならば自分はその邪魔をしてはならないのだ。それがサカキの心情であった。
だが、心の隅にはチクチクとした、今まで感じたことのないトゲがあることもわかっている。
(……こんな気持ちは初めてだな。俺はどうすればいいのか――)
納得できる答えが見つからないまま夜が過ぎて行った。
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