第51話 皇帝ヨシュアルハンの気遣い

「これは――」

 皇帝の記憶が蘇る。

 そうだ、若いときに滞在していたローシェの王宮の奥に咲く白薔薇の香りだ。

 この薔薇は門外不出のはず。つまり。


「お待ちくだされ。まさかお一人でここまでおいでになられるとは夢にも思わなんだ。ようこそ我がアラストルへ。ローシェの王女イリアティナ殿」


 皇帝は驚きとともになぜか楽し気に呼び掛けた。

 王女は勢いよくベールを取り、顔をあらわにし、満面の笑みを浮かべた。


「初めまして。お会いできて光栄です、皇帝ヨシュアルハン様。よく私がお分かりになりましたのね」

 快活な声で簡単な挨拶を述べ、アラストル風ドレスの裾を両手で広げながらくるりと回った。淑女にそのような作法はない。


 サカキは

(礼儀と作法守ってー!)

 と心の中で焦る。


 そのあまりの美しさに皇帝は目を見開き、

「その薔薇の香りは王族だけに許されるものですからね、わかります。

 いやあ、お美しい。我がハレムの美女よりも美しいとは。世の中は広いですな」

 と、王女を褒めたたえた。


(皇子よりよほど度量が大きいな)

 ほっとしながらサカキはこの御方でよかった、と思った。


「それで、いったいなぜこのようなところまでおいでになられた?」

「実はお願いがありまして!」

 と王女がキラキラを目を輝かせる。


(いや、もうちょっと言いようがあるだろうに。ストレートすぎる……)

 サカキは内心冷や冷やした。


「ちょっとお耳を……」

 と皇帝の側に立つ。

 皇帝は王女のために腰をかがめてくれた。


「こしょこしょこしょ……」

 と小声で話をするがサカキには丸聞こえである。


(ストレートどころか剛速球だ。駆け引きにもなにもなってないぞ)

 だんだんサカキの顔が青くなる。失敗すれば逃げ出す計画を実行せねばならない。


「……」

 皇帝は王女の話を聞いて目を丸くしてしばらく王女のニコニコ顔を眺めていて、やがて破顔した。


「これは、傑作だ」

 はっはっは、と声を出して笑いだした。王女は意味が分からず小首をかしげた。


 ひとしきり笑ったあと、後ろを向いて、

「ジュールベル、あれを持て」

「はい」

 と隣の部屋から声がし、ほどなく一人の老人が羊皮紙とペンと印を持って現れた。


 皇帝は机に座り、さらさらと署名し皇帝印を押した。

「王女殿、ご所望の書面だ。内容は白紙にしてあるのであとから好きなように書き加えるとよい」

「えっ?いいんですか?そんなに簡単に?」

 王女は皇帝から羊皮紙を受け取り、皇帝の署名のところを見た。

 青い瞳が真ん丸になっている。


 サカキも目が丸くなった。


 王女の反応をおもしろそうに見た後、皇帝はさみしげな笑顔を浮かべた。

「皇帝に即位してから権謀術数ばかりの人生にわが身を置き、その果てが実の息子に殺されかけているという始末だ。

 それゆえに貴女の真っ直ぐな言葉は余の心を打った。

 なんの駆け引きも無くただまっすぐに要求を持って来たのは長い人生で貴女が始めてだ」


 王女のストレートな行動が功を奏していたのであった。

「えっ、ほんとに?あ、あの、お礼を差し上げたいのですが……今の私はこの身しか」

 王女は顔を真っ赤にしてもじもじした。


「安心なされよ、この体はとうに老いておる。ただ」

「ただ?」


 皇帝は口角を上げて片目をつぶった。

「貴方様の御手に口づけをする名誉をいただければこの上ない喜びである」


 王女の顔がぱあっと明るくなる。

 その大輪の白薔薇が広がるような笑顔はイリアティナ王女の母ミリアを思い出させた。

 遠い日の、ローシェに留学していた時に見た、真っ白な薔薇で埋め尽くされたサンルームでほほ笑む美しい顔。皇帝は自分の青春の日々を思い起こしたのである。


 王女は軽やかに進んで皇帝の前に立ち、右手を差し出した。

 皇帝は恭しく膝を付き、王女の繊手を取って口づけする。その顔は心なしか若返ったかのようにサカキには見えた。

 騎士ではないものが貴婦人の手に口づけをする意味は『美しさに敬意を表する』となる。


「ありがとうございます、ヨシュアルハン様!この御恩は忘れません!」

「貴女の国に貴女の神のご加護があらんことを。さあ、明日は戴冠式であろう?白魔導士の術があるとはいえ、早く国に戻られよ、そこの黒い扉から出るとよい」


 黒い扉は、皇帝の不興を買った女が出る扉であった。

「そこから出ればだれにも咎められず皇宮の外まで行ける。馬車に黒いリボンを結ぶのを忘れずに」

「はい!黒いリボンは準備してました!重ね重ねお気遣いに感謝いたします。

 ……私、もっと早くヨシュアルハン様にお会いしたかった――こんな場合ではなければお話をいろいろお伺いしたいところでしたが……では、これで失礼します」

 王女は両手を勢いよくぶんぶんと振って黒い扉から気配を消したサカキとともに出て行った。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


 サカキは部屋を出る前にロルドから渡された薬を、皇帝の飲み物のうち、緑色の瓶に入れていた。

 それがロルドから受けたサカキの密命であった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


「ジュールベルよ、死出の旅によい土産ができたぞ」

「はい。まことに美しく、元気のよい王女様でございましたな」

「ああ。それに、最後に我が息子ダールアルパに一泡吹かせることができるとはな、こんなに楽しいことはないぞ」

「ようございました」


 皇帝はジュールベルに寝る前の飲み物を用意させた。

 それはサカキが薬を淹れた緑色の瓶である。


「……これでよろしいので?」

 ジュールベルは神妙な面持ちで聞いた。これは第一皇子から賜ったものでよくないものが入っているのは皇帝も知っているはずだった。

「これでよい。余は生き過ぎた。あとは幸せな夢を見て眠るだけだ」

「かしこまりました」


 盃を傾けながらヨシュアルハンは第一皇子のことを想う。


『ローシェには手を出すべからず』


 バラバー家、いや、歴代のアラストル皇家に代々伝わる秘密の家訓を教えたはずだった。だが、彼はそれを無視した。

 無視した結果、帝国がどうなって行くのかを知ることができないのだけが心残りだった。


 盃を飲み干し、皇帝は大きな寝台に横になった。

「最期までお供いたします。このような老人で申し訳ありませんが」

 ヨシュアルハンは薄れゆく意識の中で長年彼に仕えてくれた男の声を聞いた。

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