第7話
肉じゃがの器を洗いながら、あまり面白くない気分なことに気づく。
なんだか少し興奮していたみたいで火照った手に冬の凍るような水が気持ちいい。と同時に先ほどの言葉を考えるきっかけになる。なんせ冷たい。すごく冷静になる。
ーーどうやら探るようなことを言われて緊張したみたいだ。
如月のいいように、奴の利益になるように転がされたのが釈然としないのだ。いけすかない如月家のたぬきっぷりなら、彼がわざと角倉の土地を買わせていたとしても驚かない。
こわい。
この私の肩に乗るものはそれほど多くない。大企業に満たない従業員と生活だって、最悪角倉に全部ポーンと放り投げられる。そのはずだった。
自分ができる限りのことをしたら、あとは後始末に
でも今回のことはちがう。
私が心底大切に思っている場所に関しての案件だ。
ーーはっきりと、恐怖を感じる。
手が震えているのはなにも、冷水のみのせいではない。
あぁでも。
それよりもっと大事な、大きな感情があるなと、なまじ頭が働いている故に気づいてしまった。
あの日に拾ったのは私で、家にあげて警戒もせずにほいほいと住まわしたのは私。
彼は1人の人間でなんなら1番仲の悪い家の出身で。
飼い犬に手を噛まれた気分?
そんな生ぬるい気分じゃない。
ーーこれは、私のものだというのに。
この美しく、賢く、そして哀れな男は私のものだというのに。
仄暗い独占欲を自覚する。あぁ、やべぇな。
きゅっきゅとスポンジでこすりながら、落ちたきた髪の毛に苛立ちをぶつける。沼ったかぁ。
ふん!と頭だけで少々荒っぽく払った髪の毛は、しっかりと同居人に目撃されていたらしい。自称ヒモのちゃっかりした同居人は、私の側へ寄ってくると髪の毛を手で集め、指に絡ませた。そのまま背中に流してくれるもののいちいち余計なことをする男だ。
しかしそれが助かるのだからまた癪にさわる。よく気のつく、賢い男だ。己がどう見られるかよく知っていて、半年間ボロを見せずに過ごすことができる。その精神力は本物だ。まこと、名家の当主にふさわしい。
ちらり、と横目で伺うと彼は何やら棚から見慣れない箱を取り出している。私のものでもないし、彼のものだろうが、なんだろうか?
「食後に紅茶と大福あるけど食べる?」
私は怒りも忘れて素で聞き返してしまった。じゃあその箱は大福かーーじゃない。そんな場合ではない。
「大福に紅茶合わせるん?」
だって、そうだろう。うちにはほうじ茶も緑茶も煎茶もある。ちなみに麦茶はない。私が麦茶を嫌っているからだ。
大福をわざわざ紅茶で食べる意味がわからない。なんて取り合わせだ。私なら絶対に提案しない組み合わせである。
「ふふふ。なら緑茶淹れるわ。」
私の反応をわかっていたと言うような笑いにため息をつく。なぜ1番ありえない組み合わせで尋ねた。
もうすでに入れる気だったのだろう。ポットには緑茶に合わせた温度のお湯が沸いてていて、急須も湯呑みも出されている。
さっきのやりとりはなんだったのだ。
茶葉を入れずに湯を注ぎ、器具を温めているのを尻目に洗い上がった食器を拭き始める。
冷えた手が悴むので食器を落とさないように少し慎重になる。食器はいつか割れるものだから惜しくはないが後片付けが面倒だ。
この小鉢、拭きづらいな。買う時におしゃれさとかだけで買うからこんな目に遭う。次はもっと使い勝手が良さそうなのを探そう。
1人で住んでいた時にはほとんどなかった食器はこの半年間ですごく増えた。彼が品数作ってくれるので食器を増やしたのだ。
「あのさ、千紗は食器洗いじゃなくて他のことでいいねんで。」
またか、とうんざりしながら黙って手を動かす。彼が手早く茶を入れる音が、気まずいような心地よいような不思議な気持ちにさせる。
「冬場は水、冷たいやろ?」
このマンションはなぜか台所の蛇口からお湯が出ない。冬場は不便極まりないシステムだ。私はこのマンションに越してくるまで家事をしなかったから、冬場にお湯が出ないことがこんなに辛いと思わなかったのだ。
「でもそうしたら、私のやることがあらへん。」
常に家にいる彼と私ではできる家事が全然違う。
私は代表取締役社長で割と忙しく、だいたい朝は7時に家を出て帰りは21時をゆうに超える。いや、21時に帰れるなんて稀か。土日出勤もザラだ。重役出勤なんてほど遠い立派な社畜である。角倉の人間とは思えないほど働いている。
そんな朝や夜に洗濯機は回せないし、掃除機もかけられない。食事は用意できるはずなのだがだいたい彼が先に用意してくれる。風呂掃除もそうだ。私にだってできるのに、ふと見たらいつもピカピカ。申し訳なさすぎる。
だが。だからと言って。
私が彼の生活費のほとんどを出しているわけだし、角倉の土地ほどの代償ではないのだ。如月の面倒ごとに手を貸してあげるほどの代償ではないのだ。
私は結構クズなので、つくしてくれるというならどこまでも尽くされたい。ありがとうとも自分でやらなきゃとも思うけど、ズルズルと甘えている。
「夏だけ洗ってくれたらええやん。」
「そんな?!」
お、玉露あるやんと嬉しそうに呟きながら彼は茶のパッケージを手に取った。少し前にもらった頂き物だ。
「僕千紗にはさぁ、ほんまは何一つさせたくないねん。」
どゆこと?
その声を飲み込んだのは、ただ彼の眼差しがあまりにも真剣だったからというだけだ。
その割に如月の面倒ごとはさっき押し付けはったやんか、そう心の中で毒づいた。
「ちーさ。」
何を言えばいいかわからず彼の声を息を潜めて拾おうとする。固唾をのむとは違う緊張感に体が支配される。
「ええやん、千紗は内向きのことより外向きの方が得意やん。僕は補佐する方が好きやし。」
関西弁といえば芸人が話すような陽気な調子だと勘違いしている人もいるが、今はそんなことはない。まさに、人間関係を潤滑にするためにまかれたオブラート、の使い方だ。
「何を、言うてはるん。」
ーー何が、言いたいのか。それがわからない。その真剣な瞳の奥にはなんの光もないから、わからない。
喧嘩しないため、雅でいるため、みやこびとが磨きぬいてきた言葉がこんなに怖くなるなんて思ってもみなかった。
私が拭き終わった食器を全て片付けたタイミングで、彼が緑茶と大福を机においた。
私も席につく。それにしても。
「カラフルな大福やなぁ。」
わたしの家にはヒモ(自称)がいる 橘みかん @Tatibana-mikan
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