5-5.次に会ったら、殺します。

 森麗月しんれいづきの十五日。ついにヴィクリアは十八の歳を迎えた。


 夜中に何か異変があるのか、と身構えたりもしたが、昼を回っても何も起きない。嘘のように平穏なまま時は過ぎ、ついには夕方になった。


(何もなかったら、いい)


 念のためとキツァンにいわれたため、腰に短刀が収められた帯刀ベルトをつけているが、これを使うことがなければいいと思う。


 自室の窓から、平原に落ちゆく夕陽を見た。赤い。燃え上がる火のような赤さだ。いつものだいだいにはほど遠い、不気味な色に身震いする。


 空にたなびく雲はなく、あまりにも晴れているため余計、恐ろしい赤に見えた。


「……怖い」


 ベッドの上で、一人膝を抱える。夜着よぎではなく、ブラウスとベスト、スカートだ。勝手にお守りだと思っているサファイアのブローチもつけてある。


 サファイアに触れ、体の震えを押しとどめた。オルニーイからもらった、大切なもの。自分を護ってくれるもの。宝石部分は冷たい感触だが、その奥にある思い出と温もりを思い出し、何度も深呼吸する。


 本当はオルニーイに会いたい。会って、話して、あの優しい手に触れたい。


 だが、彼は今、キツァンといる。イルガルデ要塞に立てこもっていた魔獣の動きが、どうやらおかしかったらしい。そのことについての話し合いをしていると聞いた。


「何か、あるのかな。私と関係、あるのかな」


 独り言が虚しく、部屋の中にこだまする。


 あとから聞いたことだが、イルガルデの魔獣たちは三等魔獣にもかかわらず、かなり統率されていたようだ。それらの頭領になった存在が、もしかしたらヴィクリアに呪いをかけたケルベロスではないか――と二人は考えているという。


 だとすると、その要塞に、自分を狙う魔獣がいるのだろうか。わからない。


 呪いそのものと言われても、呪い持ちだと理解できても、感覚がおかしいことなどないのだ。ケルベロスを探知するどころか魔術の訓練は禁じられているし、自分にできることはただ、こうして部屋にこもっておくことだけ。


「……ルイさんの役に立ちたいのに」


 ため息がやはり虚しい。空虚くうきょだ。


 オルニーイやキツァンは、全力で自分のことを考えてくれている。その事実に応えたいと思うのに、結局何もできずじまい。シーテの死も、結果的にキツァンが真相をあばいた。


 自分は何もしていない。何も、できない。呪われた身で、ただ人様に迷惑をかけている。


「胸、苦しいな……」


 胸元の服をぎゅっと、握った。最近――特に誕生日パーティーを終えてから、胸の苦しさと切なさがひどい。オルニーイのことを思うと、特にだ。彼を見れば見るほど、考えるつど、頭の奥がしびれたようになってぼうっとしてしまう。


 もっと自分を見てほしい。その温かく、たくましいかいなに包まれたい。そんな浅ましい気持ちすら浮かび上がってくる。心臓がばくばくと脈打ち、また体をほてらせてしまう始末だ。


「もしかして、これが異常、なのかな」


 判断に迷う。ヴィクリアは少しでも何か異変があれば、キツァンかマクシムに報告することを義務づけられている。


 この感情や胸のうずきは、呪いから来ているのかもしれない――そう思うと、今度は背筋が震えた。不安と混乱で。


 一度、キツァンと話した方がいい。そう考え、靴を履いて立ち上がった。直後、黄色い声が外から聞こえて目を丸くする。この部屋にはバルコニーがなく、窓だけの造りだが、非常に耳に響く女性たちの声音だった。


 窓の外、下庭の様子が見える。窓を開けずに目をこらすと、そこには。


「ルイさ……」


 オルニーイがいた。後ろ姿で顔は見えないものの、夕陽に輝く金髪に、長躯ちょうく。もはや見間違えるはずがない。


 だが。


 彼の側に、女性が三人いる。彼女たちは大きな声で、何かを話していた。さっきの耳に響く声は、きっとその知らない人たちのものだろう。


「んん」


 胸の奥がむず痒い。いや、痛みでズキズキとする。思わずおもてをしかめた刹那だ。


 女性の一人がオルニーイの腕を取り、自分の胸元へと押しつけた。


「あ……」


 ――ぱきん、と何かが割れた音がする。


 オルニーイは女性を突き放さない。頭を掻き、まだ談笑を続けている。


「……やだ」


 また、連続で何かが割れた音がする。


 胸が苦しい。痛い。靄がかった感情がどす黒い渦となり、自身の感情を暗く落としていく。


「やだ、ルイさん」


 声は届くことはない。震えながらのセリフは届かない。


(ルイさんの笑顔は、温もりは、私のものなのに)


 欲深い気持ち。心。これは――独占欲。そして、憎しみにも似た羨望せんぼうと嫉妬。


 窓に背を向け、震える体を丸めた。苦しい。胸から何かが出てきそうな気配がした。


(違う、ルイさんはみんなのもの。英雄だから。ううん、でも、私のために戦うって)


 頭の中で、相反する思考がとぐろとなる。全身から汗が噴き出た。呼気が浅くなり、余計に苦しい。


 醜い感情に嫌気が差し、思わず駆け出す。勢いよく部屋を飛び出し、無意識に向かうのは、優しい思い出が残る地下庭園だ。


(違う、違う、こんなの私じゃない)


 体が冷えていく。同時に頭の中が熱くなる。泣くこともできず、笑うことも怒ることも不可能なまま、ただ走る。掃除などをしていた使用人が、なにごとかと振り返ってきた記憶もあるが、構ってはいらない。


 地下を行く。つまずき、転び、飛び出たレンガで手足に怪我をしながら、なんとか月命花げつめいかが咲く花園へと辿り着く。


 花の色は、赤かった。天井から差しこむ夕日が反射し、まるで火炎の中にあるようだ。


「やだ、やだ」


 手が、足が、震えた。息は浅く、洗い。先ほどの光景を思い出すたび、頭が痛くてどうしようもなくなる。


 はじめて他人に抱いたうらやましさ。ねたみ。羨望せんぼう


「わ、私だって……私だって、ルイさんと」


 だめだ、感情が追いつかない。思考がまとまらない。背中を丸め、膝をつく。


 思い起こされるのは、他の女性と共に歓談する、オルニーイの姿。


「いやっ!」


 叫んだ瞬間、楽になる。心の靄が晴れてくる。


「やだ、いや! ルイさんは、私と一緒なの! 温もりも全部……私のものなのっ!」


 かぶりを振って絶叫した。体の奥に眠る何かが、冷え冷えとした感覚で、揺れる。


 次の瞬間。


 ぶわりと全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。魂ごと、外に出てしまうような体感。ヴィクリアが抱くどす黒い感情と思いが形となり、それは――黒い渦となる。


「な、に……」


 体が軽い。一気に冷静になる。膝を上げれば、目の前に。


 漆黒の、犬がいた。


 三頭の頭を持ち、嬉しそうによだれを垂らし、こちらを見据える犬がいる。


『ようやく出てこられた』

「……嘘」


 一歩、犬は花壇かだんを踏みしめる。月命花げつめいかが、音を立てて溶けた。


「まさか……ケル、ベロス」

『そう。俺はお前の中にずっといたのだよ、ヴィクリア』


 これ以上なく醜悪しゅうあくな笑みを浮かべ、犬――ケルベロスは、一つ遠吠えをした。


「なんで……なんで」


 ヴィクリアは気圧けおされ、後ろによろめく。冷や汗が額を伝う。


『お前が感情を覚えるつど、心を揺らがせるつど、オドは不安定になった。オドと一緒くたになった俺もまた、おもてに出てきやすくなったというわけだ。それが今』


 また一歩、月命花げつめいかを踏みしめて魔獣は近づく。


『お前を見守っていたのも、全てはこのときのため。お前は俺たちの望みを叶えられる』


 せせら笑いに、だがヴィクリアは何も言えない。わからない。自分を使って何をするのか、見当もつかない。


『来てもらうぞ、にえ。俺たちのために』

「やだ……ッ」


 ヴィクリアが背を向けて逃げようとした、刹那。魔獣が跳んだ。前走もなく、軽やかに。


 狙った先は、ヴィクリアではなく――


 音を立て、ヴィクリアの目の前で血肉が舞う。それは、ヴィクリアのものではない。


「グ、っ……」


 リュシーロだった。通路の影にいたリュシーロが、ケルベロスの爪に切り裂かれ、その場に倒れていく。


 ヴィクリアの頭は真っ白になった。血。赤。肉の破片。軍服の切れ端。


「……あ」

「リュシーロっ!」


 悲痛な叫び声がする。ティネがリュシーロの側に駆け寄る。激昂した顔つきで、ヴィクリアに敵愾心てきがいしんを向けながら。


「アンタッ! なんなのよっ、何よこれ!」


 どうして二人がいるのだろう。なぜ、自分は糾弾きゅうだんされているのだろう。わからなかった。理解できるのはただ、自分の中にいたケルベロスが、リュシーロを害したことだけ。


「どうした、なんの声だ!」

(ああ)


 どんな人のものより聞きたかった、けれど今は耳にしたくなかった声が、階段からした。


 ヴィクリアは、ゆっくりと、自分が思うより遅く背後を振り返る。


「リュシーロ……!」


 愕然がくぜんとした面持ちで、踊り場でこちらを見るのは――オルニーイ。


 ヴィクリアは自嘲して、笑った。


(ごめんなさい。みなさん、本当に、私のせいでごめんなさい)


 体の力が抜ける中、ヴィクリアの横に飛んだケルベロスが、黒い渦を宙に作る。


『ゆくぞ』


 ケルベロスのささやきに、ヴィクリアは顔つきを変えた。


 出会ったときのように、冷たい無表情のまま、動かないオルニーイを見つめた。


 優しい思い出。熱い温もり。楽しかった記憶。一人では決して、得られなかったものをくれた人。


 そんな人と会った、出会えた。


(ここはもう、あの人はもう、私の居場所じゃない)


 恋をした――それで充分だとヴィクリアは思った。だから。


「さようなら、オルニーイさん。次に会ったら、殺します」


 せめて彼に嫌われたい。最低の別れを告げよう――そう決めて、サファイアのブローチを投げ捨てた。


「ま……」


 ケルベロスが大きく鳴いた瞬間、こちらに駆け寄るオルニーイの姿が消える。いや、正確には自分が魔獣と共に消えたのだ。


 吐き気がすると同時に、ヴィクリアの意識はあっさりと闇の中へ、溶けた。

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