5-5.次に会ったら、殺します。
夜中に何か異変があるのか、と身構えたりもしたが、昼を回っても何も起きない。嘘のように平穏なまま時は過ぎ、ついには夕方になった。
(何もなかったら、いい)
念のためとキツァンにいわれたため、腰に短刀が収められた帯刀ベルトをつけているが、これを使うことがなければいいと思う。
自室の窓から、平原に落ちゆく夕陽を見た。赤い。燃え上がる火のような赤さだ。いつもの
空にたなびく雲はなく、あまりにも晴れているため余計、恐ろしい赤に見えた。
「……怖い」
ベッドの上で、一人膝を抱える。
サファイアに触れ、体の震えを押しとどめた。オルニーイからもらった、大切なもの。自分を護ってくれるもの。宝石部分は冷たい感触だが、その奥にある思い出と温もりを思い出し、何度も深呼吸する。
本当はオルニーイに会いたい。会って、話して、あの優しい手に触れたい。
だが、彼は今、キツァンといる。イルガルデ要塞に立てこもっていた魔獣の動きが、どうやらおかしかったらしい。そのことについての話し合いをしていると聞いた。
「何か、あるのかな。私と関係、あるのかな」
独り言が虚しく、部屋の中にこだまする。
あとから聞いたことだが、イルガルデの魔獣たちは三等魔獣にもかかわらず、かなり統率されていたようだ。それらの頭領になった存在が、もしかしたらヴィクリアに呪いをかけたケルベロスではないか――と二人は考えているという。
だとすると、その要塞に、自分を狙う魔獣がいるのだろうか。わからない。
呪いそのものと言われても、呪い持ちだと理解できても、感覚がおかしいことなどないのだ。ケルベロスを探知するどころか魔術の訓練は禁じられているし、自分にできることはただ、こうして部屋にこもっておくことだけ。
「……ルイさんの役に立ちたいのに」
ため息がやはり虚しい。
オルニーイやキツァンは、全力で自分のことを考えてくれている。その事実に応えたいと思うのに、結局何もできずじまい。シーテの死も、結果的にキツァンが真相を
自分は何もしていない。何も、できない。呪われた身で、ただ人様に迷惑をかけている。
「胸、苦しいな……」
胸元の服をぎゅっと、握った。最近――特に誕生日パーティーを終えてから、胸の苦しさと切なさがひどい。オルニーイのことを思うと、特にだ。彼を見れば見るほど、考えるつど、頭の奥が
もっと自分を見てほしい。その温かく、たくましいかいなに包まれたい。そんな浅ましい気持ちすら浮かび上がってくる。心臓がばくばくと脈打ち、また体をほてらせてしまう始末だ。
「もしかして、これが異常、なのかな」
判断に迷う。ヴィクリアは少しでも何か異変があれば、キツァンかマクシムに報告することを義務づけられている。
この感情や胸の
一度、キツァンと話した方がいい。そう考え、靴を履いて立ち上がった。直後、黄色い声が外から聞こえて目を丸くする。この部屋にはバルコニーがなく、窓だけの造りだが、非常に耳に響く女性たちの声音だった。
窓の外、下庭の様子が見える。窓を開けずに目をこらすと、そこには。
「ルイさ……」
オルニーイがいた。後ろ姿で顔は見えないものの、夕陽に輝く金髪に、
だが。
彼の側に、女性が三人いる。彼女たちは大きな声で、何かを話していた。さっきの耳に響く声は、きっとその知らない人たちのものだろう。
「んん」
胸の奥がむず痒い。いや、痛みでズキズキとする。思わずおもてをしかめた刹那だ。
女性の一人がオルニーイの腕を取り、自分の胸元へと押しつけた。
「あ……」
――ぱきん、と何かが割れた音がする。
オルニーイは女性を突き放さない。頭を掻き、まだ談笑を続けている。
「……やだ」
また、連続で何かが割れた音がする。
胸が苦しい。痛い。靄がかった感情がどす黒い渦となり、自身の感情を暗く落としていく。
「やだ、ルイさん」
声は届くことはない。震えながらのセリフは届かない。
(ルイさんの笑顔は、温もりは、私のものなのに)
欲深い気持ち。心。これは――独占欲。そして、憎しみにも似た
窓に背を向け、震える体を丸めた。苦しい。胸から何かが出てきそうな気配がした。
(違う、ルイさんはみんなのもの。英雄だから。ううん、でも、私のために戦うって)
頭の中で、相反する思考がとぐろとなる。全身から汗が噴き出た。呼気が浅くなり、余計に苦しい。
醜い感情に嫌気が差し、思わず駆け出す。勢いよく部屋を飛び出し、無意識に向かうのは、優しい思い出が残る地下庭園だ。
(違う、違う、こんなの私じゃない)
体が冷えていく。同時に頭の中が熱くなる。泣くこともできず、笑うことも怒ることも不可能なまま、ただ走る。掃除などをしていた使用人が、なにごとかと振り返ってきた記憶もあるが、構ってはいらない。
地下を行く。つまずき、転び、飛び出たレンガで手足に怪我をしながら、なんとか
花の色は、赤かった。天井から差しこむ夕日が反射し、まるで火炎の中にあるようだ。
「やだ、やだ」
手が、足が、震えた。息は浅く、洗い。先ほどの光景を思い出すたび、頭が痛くてどうしようもなくなる。
はじめて他人に抱いたうらやましさ。
「わ、私だって……私だって、ルイさんと」
だめだ、感情が追いつかない。思考がまとまらない。背中を丸め、膝をつく。
思い起こされるのは、他の女性と共に歓談する、オルニーイの姿。
「いやっ!」
叫んだ瞬間、楽になる。心の靄が晴れてくる。
「やだ、いや! ルイさんは、私と一緒なの! 温もりも全部……私のものなのっ!」
かぶりを振って絶叫した。体の奥に眠る何かが、冷え冷えとした感覚で、揺れる。
次の瞬間。
ぶわりと全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。魂ごと、外に出てしまうような体感。ヴィクリアが抱くどす黒い感情と思いが形となり、それは――黒い渦となる。
「な、に……」
体が軽い。一気に冷静になる。膝を上げれば、目の前に。
漆黒の、犬がいた。
三頭の頭を持ち、嬉しそうによだれを垂らし、こちらを見据える犬がいる。
『ようやく出てこられた』
「……嘘」
一歩、犬は
「まさか……ケル、ベロス」
『そう。俺はお前の中にずっといたのだよ、ヴィクリア』
これ以上なく
「なんで……なんで」
ヴィクリアは
『お前が感情を覚えるつど、心を揺らがせるつど、オドは不安定になった。オドと一緒くたになった俺もまた、おもてに出てきやすくなったというわけだ。それが今』
また一歩、
『お前を見守っていたのも、全てはこのときのため。お前は俺たちの望みを叶えられる』
せせら笑いに、だがヴィクリアは何も言えない。わからない。自分を使って何をするのか、見当もつかない。
『来てもらうぞ、
「やだ……ッ」
ヴィクリアが背を向けて逃げようとした、刹那。魔獣が跳んだ。前走もなく、軽やかに。
狙った先は、ヴィクリアではなく――
音を立て、ヴィクリアの目の前で血肉が舞う。それは、ヴィクリアのものではない。
「グ、っ……」
リュシーロだった。通路の影にいたリュシーロが、ケルベロスの爪に切り裂かれ、その場に倒れていく。
ヴィクリアの頭は真っ白になった。血。赤。肉の破片。軍服の切れ端。
「……あ」
「リュシーロっ!」
悲痛な叫び声がする。ティネがリュシーロの側に駆け寄る。激昂した顔つきで、ヴィクリアに
「アンタッ! なんなのよっ、何よこれ!」
どうして二人がいるのだろう。なぜ、自分は
「どうした、なんの声だ!」
(ああ)
どんな人のものより聞きたかった、けれど今は耳にしたくなかった声が、階段からした。
ヴィクリアは、ゆっくりと、自分が思うより遅く背後を振り返る。
「リュシーロ……!」
ヴィクリアは自嘲して、笑った。
(ごめんなさい。みなさん、本当に、私のせいでごめんなさい)
体の力が抜ける中、ヴィクリアの横に飛んだケルベロスが、黒い渦を宙に作る。
『ゆくぞ』
ケルベロスのささやきに、ヴィクリアは顔つきを変えた。
出会ったときのように、冷たい無表情のまま、動かないオルニーイを見つめた。
優しい思い出。熱い温もり。楽しかった記憶。一人では決して、得られなかったものをくれた人。
そんな人と会った、出会えた。
(ここはもう、あの人はもう、私の居場所じゃない)
恋をした――それで充分だとヴィクリアは思った。だから。
「さようなら、オルニーイさん。次に会ったら、殺します」
せめて彼に嫌われたい。最低の別れを告げよう――そう決めて、サファイアのブローチを投げ捨てた。
「ま……」
ケルベロスが大きく鳴いた瞬間、こちらに駆け寄るオルニーイの姿が消える。いや、正確には自分が魔獣と共に消えたのだ。
吐き気がすると同時に、ヴィクリアの意識はあっさりと闇の中へ、溶けた。
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