5-4.幸せで、楽しい時間。
幸いにしてなのか、嵐の前兆なのかはわからないが、ヴィクリアに体調の異変はなかった。変な夢とやらを見ることもない。実に、平和だ。
ケルベロスはいまだ、オルニーイたちが裏で動かしているという
それは、いいとする。いや、よくはないが、ヴィクリアには何もできないため本を読み、ティネから礼儀作法を学び
「準備できた?」
使用人に囲まれ、硬直しているヴィクリアのもとへ、ティネが顔を出す。
「あら、似合うじゃない。さすがあたし。最高の見立てね」
肩が出ている青いドレス姿のヴィクリア見て、彼女は更衣室へと入ってきた。
「ティネさん。苦しいです。重いです」
「令嬢のたしなみってやつよ。あきらめなさい。本当は軽い化粧もさせたかったけど、あなたは素がいいから。肌も白いし口紅くらいでいいわね」
「何色にしようかしら」と考えこむティネの横、ヴィクリアはただ、三面鏡の前に座って使用人に髪を
(どうして、こうなったんだろう)
黒いレースの肩掛けについた水晶が、シャンデリアの明かりにきらめいた。
少し前――数日前に、突然ティネが「誕生日会をしましょ」と言い出したのだ。どうやら彼女は以前、茶会でオルニーイが口にしたヴィクリアの誕生月を覚えていたらしい。
当初、ヴィクリアは提案を断っていた。ケルベロスの件があるのもそうだが、自分には祝われる価値などないと感じていたから。
だが、キツァンがあっさり許可を出した。むしろ、交友が深まった中で祝われない方が怪しまれる、らしい。
(大丈夫なのかな。こんなことしてもらって、いいのかな)
そうはいっても不安は
きれいな青色のドレス。新品の白いヒール。甘い花の匂いを
どんなに着飾っても、呪いの存在は消えてくれない。むしろ素敵なものに囲まれている分、自分の本質がとても醜いもののように思えて。
「暗い顔してないで、こっち向く」
ティネが素早く動き、手早く紅をさしてくれた。唇に奇妙な感覚が残る。
「よし、これでいいわね。あとはエスコート役を待ってなさいな」
「ありがとう、ございます」
「今日はルイと上手くやんなさいよ」
ヴィクリアは小首を傾げた。オルニーイと、何を上手くやるというのだろう。
笑みを作ったティネは、疑問を顔に浮かべたヴィクリアを残し、ドレスの裾をひるがえすと共に退室していく。いつも世話を焼いてくれる使用人たちもまた、一礼を残して部屋から出ていった。
一気に静かになる。外はすでに、夜だ。ヴィクリアは窓から、少し欠けた月が出ているのを見た。
ふらつきながらもなんとか立ち上がり、窓際へと近づこうとしたそのとき。
「ヴィクリア、入ってもいいかな」
オルニーイの声とノックがした。「はい」と返事をしてゆっくり入口へ近づけば、オルニーイが扉を開けて中へ入ってくる。そして、止まる。動かなくなる。
「ルイさん?」
惚けたように硬直した彼へ、声をかけた。
「きれいだ」
「はい。ドレス、きれいです」
「いや、そうじゃなくて」
もごもごと何かを言い
彼は紺色と金色が基調の軍服を着ていた。こないだのものとは少し形が違い、生地が厚ぼったいようにヴィクリアには見えた。
オルニーイは若干焦ったように首を振り、手を差し出してくる。
「そ、そろそろ行こうか。キツァンはもう小ホールにいるから」
「あの。本当にこんなことしてても、いいんですか」
「楽しめるときに楽しむこと。そして笑うこと。それも大事なことだと思うよ」
「……はい」
言われてヴィクリアは、少し迷ったのちオルニーイの手を取る。優しい言葉と手の温もりがやはり胸に染みた。
よろめいてしまうのを見てか、オルニーイはしっかり支えてくれる。幸い、小ホールは更衣室と同じ二階にあるため、そこまで長い距離を歩かなくて済んだ。
ホールに入ると、明るいシャンデリアが出迎えてくれる。大広間にも負けない、装飾がなされた柱や壁。
部屋の様子にヴィクリアは圧倒された。行儀作法は大丈夫かと、今更心配になってくる。オルニーイに恥をかかせるわけにはいかない。少し固まりつつ、彼と共に角へおもむく。
「縮こまらなくて大丈夫だよ。今日は仲間内の立食パーティーだからね。気軽に楽しんで」
「は、い」
「今日の主役は君だ。食べて、飲んで、好きなように過ごしてほしい」
オルニーイの声にただ、うなずいた。楽しめるだろうかと一抹の不安がよぎったが――
「あそこのケーキおいしいですねえ」
近くにいたキツァンが、口をもごもごさせながら近づいてくる。
「主役より先に食べるかい、普通」
「ああ、早いですけど誕生日おめでとうございます、ヴィクリア。鳩肉の串焼きもいいですね、焼き加減が絶妙で。ひらめもおいしい。オムレツもおいしい」
呆れたようなオルニーイに、しかしキツァンは相変わらず動じない。
「お祝い、ありがとうございます。お腹空いてますか、キツァンさん」
「最近はパンとチーズばかりでしたからねえ。ティネもいい提案をしてくれましたよ」
うんうん、と一人うなずく彼を見て、一瞬にしてヴィクリアの緊張がほどけた。のんきな様子に思わずほっとする。
「あっ、キツァン。オレより先に食べてる!」
「
扉を振り返れば、揃いであつらえたかのように、緑色のドレス、そして軍服を着たティネとリュシーロがちょうど入ってきていた。
「おっ。お嬢さん、誕生日おめでとうな」
「おめでとう。あらためて、聖女ティネからも祝福を。……少し早いらしいけど」
「ありがとうございます。リュシーロさん、ティネさん」
ティネに習ったとおり、ヴィクリアはドレスを軽く持ち上げ腰を少し落としてみせる。付け焼き刃の作法だが上手くできたようで、ティネが得意げにうなずいた。
「ま、いいわ。及第点ってとこね。さ、リュシーロ、とりあえず食べましょうか」
「おう、じゃあまたなー」
挨拶を交わしたのち、二人は奥の方へと食事を求め、歩いていく。
「僕も食べ飲みしてますので。踊りはあなたたちがどうぞ」
「飲み過ぎないように、キツァン」
「大丈夫ですよ、あなたじゃあるまいし」
軽口を叩き、キツァンもまた、飲み物を取りにヴィクリアたちから離れていった。
残されたヴィクリアとオルニーイは、照らし合わせてもいないのに互いの顔を見る。そこではじめて、彼の金髪を彩るリボンが青色だということに気づいた。
「あ、リボン」
「そう、君からの贈り物だよ。せっかくの機会だからつけてみたんだ」
彼は照れくさいのか、少し赤面したおもてで笑ってくれる。
「ヴィクリアは毎日、ブローチを着用してくれているね」
「はい。大事に、してます」
「ありがとう、嬉しいよ。ところで君は、ダンスを踊れるかな?」
踊りと聞いて、ヴィクリアは首を横に振る。
「シーテさんからも習っていません。難しそうです」
「実はわたしも得意じゃあないんだ。軽くステップを踏むくらいが関の山で。どうかな、二人で練習してみないかい?」
オルニーイの言葉に、少し悩んだ。今は踵が高い靴を履いている。足を踏んでしまわないかどうか、心配だ。
そんなヴィクリアの内心を読んだのか、彼はより笑みを深めて優しく手を引いた。
体が密着する。腰をたくましい腕で抱かれ、顔も近くなり、ヴィクリアの心臓が悲鳴を上げた。
「ルイさん、あの、あの」
「軽くステップを踏むだけで十分。指示を出すから、そのとおりに足を動かして」
「は、はい」
軽く混乱し、微笑みと確かな熱に浮かされる。肩が出ているドレスなのに体が熱を帯び、惚けてしまう始末だ。
「右、左、右……前に来て……そう、上手だよ。ゆっくり。焦らなくて大丈夫」
足はオルニーイに言われるまま、動いた。まるで魔法のように、彼と息が合う。
誰かと踊るのははじめてだ。それでもオルニーイの指示もあってだろう、ステップが弾む。足を踏むこともない。
爪先の痛みや呪いのことを忘れ、夢中で踊る。体から伝わる彼の体温と、向けられている笑顔がそうさせた。そうさせてくれた。
いつしかヴィクリアも、この瞬間を楽しんでいた。
ときにターンを入れ、ステップを中心に二人で舞う。部屋の中央で。きらめくシャンデリアの下、鼓動を高鳴らせつつ、ヴィクリアはオルニーイと笑い合う。
知らないことを、見知らぬ世界を教えてくれた人。優しくて強い人――そんな素敵な男性と温もりを交わしているのが信じられない。だが事実だ。現実だ。夢の中ではない。
「楽しい、です」
「わたしもだ。こうしているのがとても楽しいよ、ヴィクリア」
心からの思いをささやけば、オルニーイもより破顔してくれる。
その笑顔が偽りではないこと、貼りつけられたものではないことがとても、嬉しかった。彼の側で笑い合えている、事実も。
例えそれが、一時的なものだとしても。いつかひとりぼっちの家に戻ることになったとしても、オルニーイが与えてくれた思い出だけで生きていけるだろう。
そう感じるほど幸せで、美しい時間だった。
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