第五章:さようなら
5-1.今すぐ、やめて下さい。
その間、ヴィクリアは、自身を浮かせるところまでの魔術を会得しようと
(キツァンさん、どうしたんだろう)
だが、集中力はどうしても散漫になる。杖を振ってイメージ、自分が浮くことを想起しても上手く浮かぶことができない。今日は天気があまりよくなく、雨も降るらしいとマクシムから聞いていたため、地下の稽古場で
「ふう」
夢中で杖を振り続けていたせいか、手が少し痛い。マクシムが用意してくれた冷たいタオルで手首を冷やしつつ、白亜の椅子に腰かける。
温かい紅茶を飲み、一息ついた。周囲は怖いくらいに静かだ。
ちらり、と自分の格好を確認してみる。緑色のケープに
ブローチの宝石部分に触れると、自然と口角がつり上がった。港町に行ったとき、馬車の中で、彼と互いに手を握り合ったことを思い出して。
(優しい手。あったかい、手)
大きくて立派な手のひらだった。思い返すだけで胸が高鳴る。
だが、と指が一瞬、震えた。
体に影響も、誰かに危害を加えていないものの、自分は呪われている。幸せすぎてたまに忘れてしまうけれど、それは覚えておかねばならない真実だ。
オルニーイは「それでも手を握りたい」と言ってくれた。嬉しさと、ちょっとの抵抗。相反する感情に揺さぶられ、集中が途切れる。
最近、オルニーイは、まだ城にいるティネたちと忙しい。港町に出た魔獣。三等と位は低いものの、町に行ったのち調査をしたところ、それらはイルガルデ要塞と呼ばれる箇所に
確か今日か明日辺り、討伐に出ると聞いていたが、どうなったのだろう。
(ルイさん……お仕事大変)
こうなっては彼のことばかり気になった。
小走りですでに見知った道を行く。未だにシャンデリアや豪華な絵画に、目は慣れない。
(どこにいるんだろう)
使用人たちへ尋ねてみようか、とも思うが、彼らの仕事の邪魔はしたくなかった。マクシムがいてくれれば、オルニーイの居場所を聞くことも可能なのだが。
一階、二階、と簡単に見て回り、途中で窓の方へと視線をやった。
下庭に幌馬車がいくつもある。曇天の中、何かしらの積み荷を運んでいる兵士たちもいる。荷物以外にも武器を積んでいるとこから見るに、やはり今日、出立するのだろうか。
(ルイさんが行く前に、ちょっと会いたい)
イルガルデには、通常の馬車で二日かかると聞いている。城にいる馬だけで行けば半日。
三階に行き、大きな窓から馬車の並びを眺めていたヴィクリアが、扉の開く音に気づいたのは周囲があまりに静かだったからだ。
両開きの扉、そこは確か大広間と呼ばれる部屋だったはず、と記憶を探る。
大広間から軍服や鎧を着た男性陣が出てきて、つい通路の角に隠れた。
幸いヴィクリアのいる場所とは反対側に、彼らは歩いていく。まだ大人数に会うのは慣れておらず、ほっと胸を撫で下ろしたそのときだ。
「何してるの、そんなところで」
急に声をかけられ、肩が跳ね上がる。
「ティネ、さん」
ベージュのスカートをひるがえし、ヴィクリアに声をかけたのはティネだ。普段、結ばれていない赤毛も、今はひとくくりにされている。
「ルイに会いに来たの?」
「はい。ティネさんも出征に行くんですか」
「そうよ。万一何かあったら大変だしね。ま、あなたの師匠は今回、お留守番だけど」
「キツァンさん、お留守番なんですね」
「『調べることがあるので』ですって。ずいぶん忙しいこと」
ティネの目が全く笑っていない。ヴィクリアは軽くうつむく。
キツァンを連れていかない、というのは、何か他意があるのか。それとも。
「私がいるからかな……」
「何か言った?」
「あ、いいえ。あの」
「はいはい、ルイね。中にいるわよ」
「ありがとうございます。ティネさん、気をつけて行ってきて下さい」
「ええ。……リュシーロ、行くわよ!」
ティネの大声に、部屋から「おー」という声が聞こえた。駆け足で出てきたのは、緑を基調とした軍服に身を包んだリュシーロで、腰には二つの帯刀ベルトがある。
「お。お嬢さん、ルイに会いに来たのか?」
「そうです」
ティネと同じことを聞かれ、それでもヴィクリアは首肯した。
「そろそろ出発するから、ルイには早めに挨拶しといた方がいいぞ」
「わかりました。リュシーロさんも気をつけて下さい」
「おーよ。じゃあまた今度な」
「はい」
ここで祈りの一つでも捧げられればいいのだろうが、あいにく何も知らなかった。しかしそれを気にすることなく、二人は階段を降りて下へと行ってしまう。まるで、近場の市場に買い物へ行くほどの気楽な足取りだ。
ヴィクリアは彼らが去ったことを確認し、それから大広間の中を覗いてみる。
部屋中、横に長い長方形の机――その中央にある椅子に、オルニーイは腰かけていた。様々な紙を見て、真剣な眼差しを落とす彼は、青と金を基調にした軍服を着ている。
オルニーイを格好いい、と思う。ヴィクリアの鼓動が脈打ち、再び全身が熱くなる。
視線に気づいたのか、彼が不意にこちらを見た。それから、笑う。
「ヴィクリア、来ていたんだね」
「はい。邪魔ですか」
「いいや。わたしも君に会いに行こうと思っていたんだ。こっちに入っていいよ」
言われて、他に誰もいない大広間へ足を踏み入れた。
群青の絨毯に甲冑の像、明るいシャンデリア。天井には半裸の女性が描かれた絵がある。ここは城の部屋の中でもひときわ豪華で、目が白黒してしまった。
「座って。ああ、隣に」
ヴィクリアは言われたとおり、オルニーイの左横の椅子に腰かける。
「わたしたちは、これからイルガルデの魔獣討伐に行ってくる。巣は小さいらしいけれど、放置すると厄介だから」
「……はい」
「
「でも、心配です」
言うと、オルニーイが笑みをより深めた。
「ありがとう。しかしわたしなら平気だよ」
「……英雄だから、ですか?」
「いいや。そうだね……こういう言い方をすると卑怯にも、重荷にも聞こえるかもしれないが」
そっと、彼が手を伸ばしてくる。
「君がここにいる。君が帰りを待ってくれているから、きっと大丈夫なのだと思う」
「ルイさん」
「いや、勝手に思っているだけなのだけれど。負担になったら、すまない」
照れたように苦笑するオルニーイに、ヴィクリアも微笑んだ。
「そんなこと、ないです。私、ずっと待ちます。みなさんの、ルイさんの無事を願って待ってます」
「うん。ああ、キツァンは今回不参加だから。困ったときは彼か、マクシムを頼ること」
「キツァンさん、少し変です。私が何かしたのかもしれません」
「いや、朝見たときの顔は何かを迷っている顔だね。頭がいっぱいなんだろう。会議にも出てこないくらいだし」
「迷う?」
「まあ、そうは言っても、彼が何を考えているかはわからないけれど」
オルニーイの手が、杖を握っていたヴィクリアの手へ静かに触れた。
「……そろそろ時間だ。わたしは行ってくるよ、ヴィクリア」
「あ……はい」
名残惜しくなり、ヴィクリアもまた、自分の片手に触れた彼の手の甲へ左手を被せる。できるだけ自然に、心配させないようにと、笑顔を深めた。
「怪我、しないようにして下さい。気をつけて下さい」
「ありがとう、ヴィクリア。すぐに戻る」
手から伝わる体温が、脈を速くする。離したくない、離れたくないと感じてしまう。
オルニーイも自分と同じ気持ちなのか、目をつむって握る手に力をこめてきた。少しののち、まぶたを開いた彼は、一転して凜然とした顔つきとなり首肯する。
立ち上がった彼と同じように、ヴィクリアも椅子から腰を下ろした。
せめて外まで見送りに行こうと考えていたのだが――
「ヴィクリア、少しいいですか」
部屋の外からキツァンの声がして、そちらを見る。入口近くにキツァンがいた。
「あの、ルイさんを見送りしてからじゃだめですか」
「だめです」
はっきりと言われてしまい、小首を傾げる。
「私はいいから、行っておいで。キツァン、ヴィクリアを頼むよ」
「……はい」
「ええ、わかってます」
オルニーイのこともそうだが、キツァンの、珍しくどこか
もう一度オルニーイへ手を振り、ヴィクリアはキツァンの側へ歩み寄る。
オルニーイは手を振り返したのち、そのまま部屋を出て階段を降りていった。
キツァンに向き直って、ヴィクリアは問う。
「あの、私、何かしてますか」
「そうじゃないんですけどね……」
キツァンが頭を掻き、ため息をつき、それから目線をさ迷わせてから、言う。
「やめて下さい」
えっ、と、ヴィクリアは何を言われたのかわからず、より深く首を傾げてしまう。
「んん……何をですか」
こちらを見下ろすキツァンは、どこか顔が怖い。というより、強張っている。
彼はもう一度、そのままのおもてではっきりと告げた。
「魔術の鍛錬を、今すぐやめて下さい」
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