4-3.君のままが、いいと思う。

 ディーダーは涙型のわんに作られた港町で、ローダ城から比較的近い場所で発展した。道も整備されており、兵士たちの行き交いも盛んなことから、治安も安定している。


 港町への道を行く馬車に乗るのは、馭者ぎょしゃの他にオルニーイとヴィクリアだけだった。


 二人乗りの箱馬車を、ティネがふた組に分けたのだ。理由は簡単、四人がけでは荷物を置く場所が少なくなる、という身も蓋もないものである。


(……気まずい)


 天気は快晴。風も穏やか。輓馬ばんばの調子もいい。だが、問題は無言である。


 「おはようございます」と「よろしくお願いします」以外、眼前に腰かけるヴィクリアは何も話さなかった。ときおり、つつましげに外の景色を見たりしているようだが、沈黙ばかりが二人の間を制している。


(とても、気まずいな)


 オルニーイも会話のきっかけを掴めずにいた。革製の帯刀ベルトに収めた剣に触れたり、外を眺めたりして、気を紛らわせようとしてはいるのだが。


「……ヴィ、ヴィクリア」

「はい」


 馬車の揺れもあり、緊張を伴った声がうわずった。声をかけたはいいものの、何を話すべきかで悩む。


「は、はじめての町かな?」

「はい。町には行ったことがありません」

「今行くディーダーは、ええと、シェタルーシャのしずくと呼ばれているんだ」


 返事をしてもらったことにほっとし、昔キツァンに教わったことを口にした。


 うつむき加減だったヴィクリアがおもてを上げ、首を傾げる。


「女神様の、しずくですか?」

「そう。古来、シェタルーシャは涙を流したらしい。その痕跡こそ、きれいな涙型をしているあそこの湾岸だと語られていてね。なぜ涙したのか、理由は定かではないけれど。それにちなんだ二つ名だよ」

「女神様も、泣いたんですね」

「うん?」


 変わった感想を述べたヴィクリアは、どこか迷っているそぶりを見せた。小さな唇を開け閉めし、視線を下にさ迷わせながら。


「どうしたんだい。何か言いたいことがあるなら、言ってごらん」


 彼女が怖々と目を合わせる。オルニーイは慌てた。とんでもなく慌てた。


「あ、いや、責めているわけではなくて。ただ……この間から様子がおかしいからね」


 こめかみを掻き、苦笑を漏らす。


「わたしが悪いことをしたのだと思う。君の厚意を、優しさを無下むげにしたから」

「ルイさんは、悪くないです。悪いのは私です」

「いや、そんな」


 ヴィクリアが一つ、首肯する。何かを決意したかのようにまなじりを決して。


「私、やっぱり、ルイさんが『英雄だから』って気持ちを我慢するの、いやです」

「それは……」

「女神様だって、泣いたんでしょう? なら、英雄さんだって泣いてもいいと思います。辛いときや悲しいとき、誰かを頼ってもいいと思うんです」


 自然と目線が合う。彼女は少し、泣きそうに眉根を下げていた。


「私のわがままだってわかってます。英雄だから、ちゃんとしなきゃならないことも。でも、キツァンさんたちにも頼れないですか? 仲間にも言えない、苦しいことですか?」

「……ヴィクリア」

「私、いっぱい、ルイさんにお世話になってます。優しい人だってわかってます。だから、せめて私は『英雄』じゃなくて、オルニーイって一人の人間の役に立ちたいんです」


 必死の物言いだった。つたなさの残る言葉選びで、ヴィクリアが心の底から己を案じてくれている事実がとても、喜ばしい。嬉しい。心が温かくなる。


 嫌われていたわけではない――その真実は胸に優しい鼓動をもたらす。


 彼女は、あの夜も己のことを思って精一杯笑顔を浮かべてくれた。心を開いてくれた。それなのに、どうだろう。大人びたふりをして話を変え、大丈夫だととりつくろった。何一つ、平気ではないというのに。


 がたん、がたん、と少し馬車が、揺れる。己の迷いを象徴するかのごとく。


 二人の間に降りたのは、優しい沈黙だった。張り詰めるような冷たい空気は、ない。


「……わたしは英雄で、誰もの上に立ち、人々を導く指導者だ」


 少しの間ののちつぶやくと、ヴィクリアはびくりと肩を跳ね上げさせた。


「けれど、君は」


 苦い笑みが浮かぶ。心臓の動悸が、ひどい。


 彼女は年下だ。自分とは十歳以上も離れている。そんなヴィクリアに、己が抱く負の側面を背負わせたくはない。そう頭と理性では警鐘けいしょうが鳴る。


 悪夢を見ていることも、笑顔を貼りつけていることも、全部隠しておくべきことだとわかっている。


 なのに――


「ヴィクリアは……わたしが弱くてもいいのかい」


 やめろと自身を止める声が聞こえる。出会ってまだ少しの、年下の少女に、どうしてすがろうとするのかと。キツァンにもティネにも、リュシーロたちにも話していない脆さ、弱さ。そんな醜悪しゅうあくなものを見せてしまうには、あまりに彼女は、儚く思えて。


「前にも言いました」


 オルニーイの戸惑いをよそに、ヴィクリアは左右に首を振り、微笑む。その笑顔は、どうしようもなく強くまたたいているように感じた。


「英雄の心配をしているわけじゃありません。私、ルイさんの心配をしているんです」


 あ、と吐息が漏れた。剣にかけた手が、指が、震える。


 それは、夢の中でも聞いた声と言葉だったから。


(ヴィクリアだった)


 目の奥が熱くなり、微かにうつむく。下手をすれば泣いてしまいそうだ。


(わたしを助けてくれたのは、彼女だったんだ)


 今なら思い返せる。身の毛もよだつ悪夢の中で、ただ一つ光となってくれたしるべを。


 しっかりと前を向き、ヴィクリアを見つめれば、彼女は大きくうなずく。


「私もきっと、誰かに頼ることはまだ下手です。でもルイさんには、誰かを頼ったり、甘えてほしいです」


 ヴィクリアの微笑みに、頭の中の何かが弾けた感覚がした。


 いつの間にか、いや、幼少のときから甘えられる環境になかったことで、知らずにいたこと。すがることも、甘えることも、頼ることも――悪ではないのだと、彼女が言ってくれた。教えてくれた。


「……ありがとう」


 震えた声で謝辞を述べれば、彼女の笑みがより明るいものへと変わる。


「私もルイさんに頼られるよう、頑張ります」

「ヴィクリアは、そのままでいい」

「でも」

「君のままが、いいと思う」


 目をまたたかせる彼女へ、オルニーイもまた、笑った。いつもの仮面のような微笑みではなく、自然と出た笑顔のまま半身を傾け、ヴィクリアの手に触れた。


 彼女は「あ」と小さく叫び、表情を曇らせる。


「あの、だめです」

「……いやかな」

「そ、うじゃなくて。んん……私が触れたら、ルイさん、汚れちゃうから」

「わたしのどこが汚れると言うんだい?」

「ルイさんは、かっこいいです。きれいな人だし。そんな人に、呪い持ちの私が触れたらだめだと思うんです」


 格好いい、きれい、という言葉に、今度はオルニーイが驚いた。


「君こそ可愛らしくて、儚くて……その、可憐だと思う。それこそ月命花げつめいかのように」

「あんなきれいなお花じゃないです」


 首を振って慌てるヴィクリアに、オルニーイはティネのセリフを思い出す。原石だ、と。


 いや、ヴィクリアは会ったときから脆さと儚さ、そして愛らしさを見せてくれていた。優しく素直で、世間とずれている不思議な性格。それらもまた、美徳に感じる。


「わたしには、君が花より可愛らしく見えるよ。ヴィクリア」


 胸が優しい鼓動を鳴らし、高鳴っている。頬が熱くなるのを自覚する。


「呪いとか、そんなものは気にしない。君が言ってくれただろう? わたしは弱くてもいいと。わたしだって似たことを思うよ。君が呪い持ちであっても、こうして手を握りたい」

「ルイ、さん」


 その小さく白い手を、真心をこめて握った。壊れ物を扱うように、力を加減しながら。


 剣のたこがある己の手で、魔獣を殺したこの手のひらで、汚れを知らないであろうヴィクリアに触れていいか、一瞬悩む。


 しかし、ためらいはすぐに吹き飛んだ。柔らかい手のひら、滑らかな肌。温かい体温が、心を覆っていたもやを晴らしていく。消していく。


「もう一度聞くよ。わたしに手を握られるのは……いやかな」


 心臓が胸から飛び出しそうだ。拒絶されたら、という心配があとから出てくる。緊張と温もりで交互に鼓動が高鳴る。


「……いやじゃ、ないです」


 ヴィクリアがささやいた。肩を縮め、どこかくすぐったそうに、嬉しそうにはにかんで。


 彼女の右手が、被せていた己の手を挟みこむ。武骨な甲を、優しい手つきで、輪郭を確かめるようになぞっていく。


「たくさんの人を守った、大切な手ですね」

「……うん」

「これからのみなさんを、いっぱいの未来を守った、立派な手です」


 ああ、とオルニーイは内心で、歓喜の吐息をこぼした。


 誰に認められずともいい。ヴィクリアがわかってくれればそれでよかった。


 心臓がどくどくと音を立て、奇妙な感覚を呼び覚ます。体中が熱を帯び、血潮が全身を駆け巡る。彼女に触れている箇所が、一番温かく、熱く感じる。


 不快感などない。不思議と落ち着くのだ。ヴィクリアと一緒にいるこの空間が、とても穏やかで、大切なもののように思えてくる。


 手を重ね、小さく笑う。彼女も穏やかな笑みを、頬を朱に染めつつ浮かべてくれる。


 弱さも脆さも、醜さも分かち合いたいと思う欲望。『英雄』ではなく『オルニーイ』という個人が抱いてしまう、気持ち。


 傷のなめ合いかもしれない。単なる逃げかもしれない。それでも彼女と、ヴィクリアとこうしていたいと願う。そして叶うならば、彼女も心救われるときが来るようにと。


 その際、すぐ側に己がいられたら――それをきっと、人は幸せと呼ぶのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る