4-3.君のままが、いいと思う。
ディーダーは涙型の
港町への道を行く馬車に乗るのは、
二人乗りの箱馬車を、ティネがふた組に分けたのだ。理由は簡単、四人がけでは荷物を置く場所が少なくなる、という身も蓋もないものである。
(……気まずい)
天気は快晴。風も穏やか。
「おはようございます」と「よろしくお願いします」以外、眼前に腰かけるヴィクリアは何も話さなかった。ときおり、
(とても、気まずいな)
オルニーイも会話のきっかけを掴めずにいた。革製の帯刀ベルトに収めた剣に触れたり、外を眺めたりして、気を紛らわせようとしてはいるのだが。
「……ヴィ、ヴィクリア」
「はい」
馬車の揺れもあり、緊張を伴った声がうわずった。声をかけたはいいものの、何を話すべきかで悩む。
「は、はじめての町かな?」
「はい。町には行ったことがありません」
「今行くディーダーは、ええと、シェタルーシャの
返事をしてもらったことにほっとし、昔キツァンに教わったことを口にした。
うつむき加減だったヴィクリアがおもてを上げ、首を傾げる。
「女神様の、
「そう。古来、シェタルーシャは涙を流したらしい。その痕跡こそ、きれいな涙型をしているあそこの湾岸だと語られていてね。なぜ涙したのか、理由は定かではないけれど。それにちなんだ二つ名だよ」
「女神様も、泣いたんですね」
「うん?」
変わった感想を述べたヴィクリアは、どこか迷っているそぶりを見せた。小さな唇を開け閉めし、視線を下にさ迷わせながら。
「どうしたんだい。何か言いたいことがあるなら、言ってごらん」
彼女が怖々と目を合わせる。オルニーイは慌てた。とんでもなく慌てた。
「あ、いや、責めているわけではなくて。ただ……この間から様子がおかしいからね」
こめかみを掻き、苦笑を漏らす。
「わたしが悪いことをしたのだと思う。君の厚意を、優しさを
「ルイさんは、悪くないです。悪いのは私です」
「いや、そんな」
ヴィクリアが一つ、首肯する。何かを決意したかのようにまなじりを決して。
「私、やっぱり、ルイさんが『英雄だから』って気持ちを我慢するの、いやです」
「それは……」
「女神様だって、泣いたんでしょう? なら、英雄さんだって泣いてもいいと思います。辛いときや悲しいとき、誰かを頼ってもいいと思うんです」
自然と目線が合う。彼女は少し、泣きそうに眉根を下げていた。
「私のわがままだってわかってます。英雄だから、ちゃんとしなきゃならないことも。でも、キツァンさんたちにも頼れないですか? 仲間にも言えない、苦しいことですか?」
「……ヴィクリア」
「私、いっぱい、ルイさんにお世話になってます。優しい人だってわかってます。だから、せめて私は『英雄』じゃなくて、オルニーイって一人の人間の役に立ちたいんです」
必死の物言いだった。つたなさの残る言葉選びで、ヴィクリアが心の底から己を案じてくれている事実がとても、喜ばしい。嬉しい。心が温かくなる。
嫌われていたわけではない――その真実は胸に優しい鼓動をもたらす。
彼女は、あの夜も己のことを思って精一杯笑顔を浮かべてくれた。心を開いてくれた。それなのに、どうだろう。大人びたふりをして話を変え、大丈夫だととりつくろった。何一つ、平気ではないというのに。
がたん、がたん、と少し馬車が、揺れる。己の迷いを象徴するかのごとく。
二人の間に降りたのは、優しい沈黙だった。張り詰めるような冷たい空気は、ない。
「……わたしは英雄で、誰もの上に立ち、人々を導く指導者だ」
少しの間ののちつぶやくと、ヴィクリアはびくりと肩を跳ね上げさせた。
「けれど、君は」
苦い笑みが浮かぶ。心臓の動悸が、ひどい。
彼女は年下だ。自分とは十歳以上も離れている。そんなヴィクリアに、己が抱く負の側面を背負わせたくはない。そう頭と理性では
悪夢を見ていることも、笑顔を貼りつけていることも、全部隠しておくべきことだとわかっている。
なのに――
「ヴィクリアは……わたしが弱くてもいいのかい」
やめろと自身を止める声が聞こえる。出会ってまだ少しの、年下の少女に、どうしてすがろうとするのかと。キツァンにもティネにも、リュシーロたちにも話していない脆さ、弱さ。そんな
「前にも言いました」
オルニーイの戸惑いをよそに、ヴィクリアは左右に首を振り、微笑む。その笑顔は、どうしようもなく強くまたたいているように感じた。
「英雄の心配をしているわけじゃありません。私、ルイさんの心配をしているんです」
あ、と吐息が漏れた。剣にかけた手が、指が、震える。
それは、夢の中でも聞いた声と言葉だったから。
(ヴィクリアだった)
目の奥が熱くなり、微かにうつむく。下手をすれば泣いてしまいそうだ。
(わたしを助けてくれたのは、彼女だったんだ)
今なら思い返せる。身の毛もよだつ悪夢の中で、ただ一つ光となってくれたしるべを。
しっかりと前を向き、ヴィクリアを見つめれば、彼女は大きくうなずく。
「私もきっと、誰かに頼ることはまだ下手です。でもルイさんには、誰かを頼ったり、甘えてほしいです」
ヴィクリアの微笑みに、頭の中の何かが弾けた感覚がした。
いつの間にか、いや、幼少のときから甘えられる環境になかったことで、知らずにいたこと。すがることも、甘えることも、頼ることも――悪ではないのだと、彼女が言ってくれた。教えてくれた。
「……ありがとう」
震えた声で謝辞を述べれば、彼女の笑みがより明るいものへと変わる。
「私もルイさんに頼られるよう、頑張ります」
「ヴィクリアは、そのままでいい」
「でも」
「君のままが、いいと思う」
目をまたたかせる彼女へ、オルニーイもまた、笑った。いつもの仮面のような微笑みではなく、自然と出た笑顔のまま半身を傾け、ヴィクリアの手に触れた。
彼女は「あ」と小さく叫び、表情を曇らせる。
「あの、だめです」
「……いやかな」
「そ、うじゃなくて。んん……私が触れたら、ルイさん、汚れちゃうから」
「わたしのどこが汚れると言うんだい?」
「ルイさんは、かっこいいです。きれいな人だし。そんな人に、呪い持ちの私が触れたらだめだと思うんです」
格好いい、きれい、という言葉に、今度はオルニーイが驚いた。
「君こそ可愛らしくて、儚くて……その、可憐だと思う。それこそ
「あんなきれいなお花じゃないです」
首を振って慌てるヴィクリアに、オルニーイはティネのセリフを思い出す。原石だ、と。
いや、ヴィクリアは会ったときから脆さと儚さ、そして愛らしさを見せてくれていた。優しく素直で、世間とずれている不思議な性格。それらもまた、美徳に感じる。
「わたしには、君が花より可愛らしく見えるよ。ヴィクリア」
胸が優しい鼓動を鳴らし、高鳴っている。頬が熱くなるのを自覚する。
「呪いとか、そんなものは気にしない。君が言ってくれただろう? わたしは弱くてもいいと。わたしだって似たことを思うよ。君が呪い持ちであっても、こうして手を握りたい」
「ルイ、さん」
その小さく白い手を、真心をこめて握った。壊れ物を扱うように、力を加減しながら。
剣のたこがある己の手で、魔獣を殺したこの手のひらで、汚れを知らないであろうヴィクリアに触れていいか、一瞬悩む。
しかし、ためらいはすぐに吹き飛んだ。柔らかい手のひら、滑らかな肌。温かい体温が、心を覆っていたもやを晴らしていく。消していく。
「もう一度聞くよ。わたしに手を握られるのは……いやかな」
心臓が胸から飛び出しそうだ。拒絶されたら、という心配があとから出てくる。緊張と温もりで交互に鼓動が高鳴る。
「……いやじゃ、ないです」
ヴィクリアがささやいた。肩を縮め、どこかくすぐったそうに、嬉しそうにはにかんで。
彼女の右手が、被せていた己の手を挟みこむ。武骨な甲を、優しい手つきで、輪郭を確かめるようになぞっていく。
「たくさんの人を守った、大切な手ですね」
「……うん」
「これからのみなさんを、いっぱいの未来を守った、立派な手です」
ああ、とオルニーイは内心で、歓喜の吐息をこぼした。
誰に認められずともいい。ヴィクリアがわかってくれればそれでよかった。
心臓がどくどくと音を立て、奇妙な感覚を呼び覚ます。体中が熱を帯び、血潮が全身を駆け巡る。彼女に触れている箇所が、一番温かく、熱く感じる。
不快感などない。不思議と落ち着くのだ。ヴィクリアと一緒にいるこの空間が、とても穏やかで、大切なもののように思えてくる。
手を重ね、小さく笑う。彼女も穏やかな笑みを、頬を朱に染めつつ浮かべてくれる。
弱さも脆さも、醜さも分かち合いたいと思う欲望。『英雄』ではなく『オルニーイ』という個人が抱いてしまう、気持ち。
傷のなめ合いかもしれない。単なる逃げかもしれない。それでも彼女と、ヴィクリアとこうしていたいと願う。そして叶うならば、彼女も心救われるときが来るようにと。
その際、すぐ側に己がいられたら――それをきっと、人は幸せと呼ぶのかもしれない。
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