第四章:一人と一人
4-1.男女の仲になるって、話。
――ヴィクリアに、避けられている気がする。
わら製のかかしへ、オルニーイは右腕を使い、素早く剣を打ちこんでいく。
ユラン配下の魔獣につけられた牙の痕が、シャツの中にはある。神経をやられ、ティネの治癒術と訓練のおかげで剣を操れるところにまでは回復したものの、全盛期とはほど遠い動きだ。
過去にすがっても仕方ない、と
ヴィクリアは、いない。今日も彼女は、地下庭園辺りで
(……避けられているような……気がするのだが)
食事を共にし挨拶も交わす。たわいない話も多少、する。それでもここ一週間――
ほとんど笑わなくなった。オルニーイの誘いにも乗ってこなくなった。茶を一緒にすることも極端に減り、しかも稽古場と時間をずらされている状態だ。完全に、機嫌を
「……あの夜のせいか」
汗をタオルで拭き、
あの日は悪夢を見てうなされていたところを目撃され、つい話をごまかしてしまった。だが、他にどうすればよかったのだろう。
ヴィクリアは言ってくれた。笑わなくてもいいと、泣いてもいいと。その言葉はとても嬉しい。けれど己は英雄だ。人々を導き、守る役割を持つ。責務を放棄して彼女にすがるまねはできなかった。
「いや、しかし」
だからといって、どうして彼女の機嫌が悪くなるのかわからない。これが逆――そう、英雄としての責務を全うせずにいて、そこをたしなめられるのならば理解できた。今まで家族にも仲間にも注意されるのは、その部分だった。
ゆえにヴィクリアが気分を害している理由が掴めず、困惑している。
悩みあぐね、じっと手のひらを見た。ごつごつとした武骨な手を。
(もしかしかすると、軽々しく触れてしまったためかな)
ヴィクリアの涙をぬぐい、細い肢体を抱きとめた。体が勝手に反応しやってしまったことだが、彼女には不快だった可能性もある。
(それならばきちんと言うだろう。あの子は素直な面があるから)
手を握り、開き、つらつらと考えた。堂々巡りで、これっぽっちも答えなど出てきそうにない。
脳裏に浮かぶはヴィクリアのおもてだ。最近めっきり減った笑顔。シーテの名を呼んで浮かべた泣き顔。照れたような、はにかむような表情。「ルイさん」と己の名を呼ぶ、柔らかな声すら脳内で呼び起こすことができた。
「……はあ」
とりあえず謝ってみようかと、もう一度嘆息した直後だ。
「なぁに、その情けない声。いつから弱気に成り下がったのかしら?」
馴染みのある声に、ふと振り返る。
黄色のドレス、その裾を風になびかせたティネが胸を張り、こちらへ歩いてくるのが見えた。腰までの長い赤毛も、火が燃えるように揺れている。
「やあ、ティネ。元気かい?」
「当然よ。そうじゃなきゃここまで来てないわ。って、ちょっと顔色が悪いわね、ルイ」
「そう、かな」
「風邪でも引いたんじゃないでしょうね。病気は治癒術で治せないのよ?」
「重々承知しているさ。ところで、リュシーロは?」
「……あの子」
「うん?」
赤い両目が物騒につり上がった。
「あの、ヴィクリアって子と一緒」
「ヴィクリアと? どうして」
「そんなのこっちが聞きたいわよっ。あの人嫌い賢者、よそ様の婚約者を勝手に引っ張ってって『借ります』の一言しかなかったんだから!」
「いやいや……待ってくれ、ティネ。どうなっているのか理解が追いつかない」
キツァンがなぜ、ヴィクリアとリュシーロを引き合わせたのだろう。
「護身に短刀の使い方を教えるため、だそうよ? ずいぶんと弟子を可愛がってるのね」
「わたしでもよくはないのかな、それ」
「知らない、アンタの幼なじみに聞けば?」
ティネもまた非常に機嫌が悪い。だが彼女の場合、恋仲の男が他の娘と一緒にいる、という理由が判明しているため、怒りを想像することもなんとなくできた。
「せっかく吟遊詩人も連れてきたってのに帰すはめになったわ。お茶会が台無し!」
「ま、まあ、変な関係にはならないと思うよ? リュシーロは一途だし」
「そんなこと知ってるわよ。でも、アンタもかなりあの子を信用してるのね」
「……いい子だとわかっているから」
ふん、とティネがオルニーイの言葉をせせら笑った。こちらの顔を覗きこむようにして、彼女は底意地の悪い笑顔を作る。
「いい子だろうとなんだろうと女は、女。アンタは英雄って立場だけど人が良すぎなの。間違いを起こして、だまされないようにしなさいよね」
「間違い?」
「男女の仲になるって話」
「だっ……」
吹き出しそうになり、堪えた。ティネのセリフで脳裏に浮かぶのは、はじめてヴィクリアと出会ったときのことだ。
細めだがしなやかで、白い裸体――水を弾く胸の膨らみまでをありありと思い起こしてしまい、顔が熱くなる。
「なぁに、その反応。アンタ本当に大丈夫なわけ?」
「あ、ああ」
「説得力がないわね。でもいいわ。稽古、それで終わりなら、とっとと館に戻りましょ。リュシーロも連れ戻さなきゃ」
「二人は今、どこに?」
「さっきは塔にいたけど、あの青い……キツァンの入り浸ってる」
オルニーイは
護身術を学ばせるというのであれば、ここか下庭に行くのが妥当だろう。下庭の様子を見ても、二人の姿はない。いるのは駐在する兵士たちだけだ。
もしヴィクリアが己を避けて、専用の稽古場を――とっておきの場所をリュシーロに教えていたなら。思い至った瞬間、胸の奥に棘のようなものが刺さった気がする。
(これは、なんだ)
言い表せない、不快感に似たもの。悲しさとそれ以上の何かが混ざったもの。
仲間とヴィクリアが親交を深めるのは、いいことだ。そう頭では理解できるのだが。
奇妙な胸の痛みに戸惑い、隠れて顔をしかめた直後だった。
「ティネ、ルイー!」
軽やかな声がして、表情を瞬時に戻す。顔を上げれば、両手を振るリュシーロが、こちらに向かって駆けてくる姿があった。後ろにヴィクリアを伴って。
「リュシーロ、アンタどこ行ってたのよっ」
「悪い悪い。この子に短刀を見つくろってたんだよ、キツァンに言われてさぁ」
ティネの不機嫌な声にも、彼は全く動じていなかった。ティネはそれに答えないまま、目をすがめる。「あっ」と小さく漏らし、リュシーロがようやく笑顔を引きつらせた。
「婚約者を置いていくなんて、いい度胸してるわね」
「……すみませんでしたぁ」
「あなたも。あたしのリュシーロはお役に立ったかしら」
やっと近づいてきたヴィクリアへ、ティネは嫌味の一つを飛ばす。しかし、当のヴィクリアは素直に首肯してみせた。
「はい、ありがとうございます。手に合う短刀を選んでもらいました」
彼女は相変わらず無表情で、しかもオルニーイの方を見ようとしない。オルニーイとしては、それが無性に、さみしい。
だが、何をどう言えばいいのか、どうすればいいのかわからないままだ。笑顔が固まる。
代わりに声を上げたのは、ティネだ。
「それはよかったわ。このままお茶会でもどうかしら。マクシムにはもう、あたしの方から手はずを整えるよう告げてあるわ」
「そ、そうそう! ルイ、今日はちゃんと手土産持ってきたぞー」
「ありがとう。茶会を開くのは構わないよ。ヴィクリア、君も」
「私、稽古に戻ります」
「待・ち・な・さ・い」
すげなく断るヴィクリアを制するティネは、苦い顔つきだった。
「あなたも来るのよ。このまま無視したら、あたしがいじわるをしてるみたいじゃない。あなたの分だってちゃんとお菓子、持ってきてるんだから。付き合いなさいな」
「……でも」
「あたしのお茶が飲めないって言うの?」
「ティネ、それは酒飲みの言葉だよ」
「男が酒を
「美味しいお菓子があるからさ。な、お嬢さんも来いって」
オルニーイも、そして二人もヴィクリアを
「邪魔じゃ、ないなら」
うつむき加減に、答えた。
どこか勝ち誇ったようにティネは髪を掻き上げ、胸を張る。
「決まりね。そうと決まったら戻るわよ、館に」
「それじゃあ、オレの大事なティネ様? お手をどうぞ」
「あら、気が利くわね」
騎士さながら、手を婚約者へと差し出すリュシーロに、彼女もまんざらではなさそうだ。そのまま二人は指を絡ませ、堂々とした足取りで館へと歩いていく。
「……ヴィクリア」
「なんですか」
二人が少し遠くになったのを視認し、オルニーイは手を出した。ようやく視線が合う。
「君をエスコートさせてくれないかな」
手と顔を見比べ、ヴィクリアが戸惑ったような顔をした。その瞳に浮かぶのは困惑以外の何かで、怯えにも似ている。
やはり肌に触れたのが悪かったのか、とオルニーイは内心
「すまない。なれなれしかったね」
「……私が触れたら、汚れます」
「え?」
風に消えるほどのささやきは、しかしはっきり耳へ滑りこんでくる。
だが、彼女はそれ以上何も言うことなく、踵を返して館の方へと歩き出した。
残ったオルニーイは、風に吹かれながら虚しさを抱く。汚れる、の意味も、やはりわからないまま。
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