3-5.私が触れたら、汚れちゃう。

 ――嵐はどうやら一過性のものだったらしい。夜になると清々しい風が吹き、湿った匂いを吹き飛ばす。空も、晴れていた。月明かりは頼りないが、その分、星が瞬いている。


 ヴィクリアは自室のバルコニーに出て、一人夜空を見上げていた。


 人目につくことを遠慮えんりょしていたため、ほとんどここに出ることはなかった。それでも今日はいろんなことがありすぎ、興奮しているせいか、なかなか眠りにつけない。


「マナ、使えた」


 ささやきがどこか弾んでいる。キツァンの言う、自分を浮かせることにはまだ至ってないものの、頑張ったかいがあるというものだ。彼もまたすげない態度だったが褒めてくれた。静葉月せいようづきに入る前に一歩、大きく前進したといえるだろう。


 夜空から視線を外し、下を見た。暗闇の中で動くかがり火。主館近くにはほとんど護衛の兵はいない。下庭や家畜小屋がある城門付近に、兵たちは集中しているようだ。


 それにしても、とうごめく松明の火を見て、思う。


「……どきどきが不思議」


 火を見るたびに体のほてりを思い出し、胸へ手を当てた。


 今は動悸も治まり、頬も熱くはなっていない。しかし、オルニーイの明るい笑みを思い出せば、また体の芯が温かくなるのを自覚する。


「変……になってる」


 体の変調に悩み、一人で唸った。


 こういうときは散歩に限るだろう。一度部屋に戻った。机の上にあるランタンはまだ消しておらず、寝る前にも使用人が、蜜蝋みつろうの蝋燭を補充してくれている。


 森で暮らしていたとき、何かあれば散歩で気を紛らわせていた。このローダ城から出たことはないが、礼拝堂のステンドグラスを見に行くのもいいかもしれない。


「あ、お花」


 思い出す。オルニーイが教えてくれた地下庭園。そこで咲いていた美しい花々が脳裏に浮かんだ。今はもう、みんな寝ているだろう。一人で行こうと決めた。


 夜着やぎには着替えていなかったため、そのままランタンを持ち、部屋から出る。


 普段明るさを保つ通路は、ほとんど先が見通せないほどに暗かった。それでも森ほど危険ではないはずだ。


 静かな、耳が痛いほどの静寂の中、通路を進む。自分の足音だけが大きく響いた。


 外には門番がいるはずだと考え、地下から向かうことにした。館は広いが、決められた場所にしかおもむいていなかったため、迷うことはない。


 娯楽室、図書室などを通り過ぎ、階段を使って下へと降りていく。


(いろいろ、いい日)


 マナを使えたこと、シーテの死の誤解が解けたこと――その二つで足取りが軽く、心も晴れやかだ。暗闇におくすることもなかった。こんな弾んだ気持ちになれるのは、一体いつくらいだろう。


 三つ編みを揺らし、スカートをひるがえして地下へと進む。


 地下通路は少し、かびと土の臭いがした。あまり空気を吸いこまないよう、ハンカチで口元を押さえながら先を急ぐ。


 庭園までの道のりをちゃんと記憶していた。とはいえ、そこまで複雑なものでもない。つまずいたり滑らないよう、足下には気をつけるが。


 どのくらい歩いただろう――体感的には、十分程度。ポケットにはハンカチ以外にも、夜のデザートで出されたビスケットの残りが数枚、布袋に入っている。あとで出そうとしていたが、花を見ながら食べるのもいいかもしれない。


 自分の浮かれように、ちょっと恥ずかしくなる。鼻歌まで飛び出しそうな勢いだ。


 体をうずうずさせつつ、辿り着いた庭園に足を踏み入れた、そのとき。


「……あ」


 まっすぐ作られた煉瓦れんがの道、その先のあずまやにオルニーイがいた。最初は暗くて誰かと思ったが、彼の近くにあるランタンと自分のランタンで視界が晴れ、わかったのだ。


 彼は、座って寝ていた。上半身を丸いテーブルに預けたまま。テーブルには他にも羊皮紙ようひしの束やティーポットがあり、ここで仕事をしていたのだとヴィクリアは気づく。


(起こしたらだめ)


 きっと疲れているだろうと気遣い、ただ近くで花を眺めることにした。ランタンを足下に置き、しゃがんで花々の香りを堪能する。


 白、青、黄色。月命花げつめいかという花は見ていて飽きない。丸みを帯びた、厚みがある花弁に甘い匂い。指で触れても花粉はつかなかった。おしべは奥の方にあるのだろう。中にはオルニーイが手入れしたのか、真新しい水滴がついているものも見受けられた。


 寝息も聞こえない。天井から入る風の音だけが、辺りを包んでいる。


 ヴィクリアは横目で、オルニーイを盗み見た。


 流れるような艶やかな金髪は、白いリボンで一つにまとめられており、きれいだ。ランタンの明かりに浮かび上がる彼自身が、なぜかとてもまばゆい気がする。


 蜜蜂みつばちが花へ誘われるように、無意識にヴィクリアは、オルニーイの側に近づいた。


(まつげ、長い……)


 つい、しげしげと見つめてしまう。頬や額には薄い傷が残っていたりしたが、それすら細工された仕様なのかと疑ってしまうほどだ。


 触れてみたいと思う。感触や温もりを確かめたいとさえ。


 だが――


(私が触れたら、汚れちゃう)


 呪われている自分が触ればきっと、美しさはそこなわれてしまうだろう。そう考えてしまうほどにオルニーイは完成された存在だった。


 壊したくない、触れたい、けがしたくない、撫でてみたい――と内心の葛藤かっとうで少し、眉を下げたそのとき。


「……う」


 彼が一つ、うめいた。


 ヴィクリアは思わず体を離す。気づかれたかな、と思い、吸いこむ息を一瞬、止めた。


「く、う……」


 オルニーイのおもてが、歪む。苦悶と、切なさ。とても辛そうな表情はヴィクリアが見たことのないもので、つい目を丸くする。


 彼はそのまま、右腕を押さえて額をテーブルへと押しつけた。歯を食いしばり、眉根を寄せて、自らを何かから守るように。


(うなされてる)


 ヴィクリアにもわかった。だが、こういうときはどうすればいいのだろう。このまま放っておけない。おきたくはない。


 忌避きひされる自分が、こんな精緻せいちな存在に触れてもいいのかわからない。そんな風に感じたものの、とても苦しげな表情で一人耐える彼を、孤独にしたくはなかった。


「……ルイさん」


 精一杯の勇気を出して声をかけ、隆々りゅうりゅうとしたかいなに触れた瞬間。


「っ!」

「きゃっ」


 間髪入れずに、手を握られた。


 半身を上げたオルニーイのまなこは見開かれ、つり上がった唇からは犬歯がわずかに見えている。怯えと恐れの表情だ。


 それを見て、呆気にとられたヴィクリアは動けない。強い力だ。手が、痛い。


 天井から風が吹く。突如の強風で花弁が、舞う。


「ルイさん……?」


 驚きと痛みはあるが、首を傾げて正気かどうかを確認した。


 見る見るうちに彼の瞳が生気を取り戻す。顔つきも呆然としたようなものへと変わる。


「……ヴィクリア」

「はい、ヴィクリアです」


 片手でほつれた髪を押さえつつ、ヴィクリアはうなずいた。


 無言の時間が続く。かすかに、花弁同士のこすれる音がする。


「あ……」

「うなされてました、ルイさん。平気ですか」


 あからさまにうろたえ、困惑の声を上げるオルニーイへ、尋ねた。


「す、すまない!」


 刹那、握られていた手が自由になる。彼は自らの手のひらを見つめ、苦しげな面持おももちを作った。


「謝らなくて、いいです。ルイさんの方が心配だから」

「い、いや。これは……単なる夢だよ。夢見が悪かっただけなんだ」


 言ってオルニーイは笑う。精悍せいかんな、朗らかな微笑みを浮かべてみせる。


「んん」


 じんじんとする手をそのままに、ヴィクリアはかぶりを振った。


「ルイさん、笑わなくていいです」

「え……?」

「辛いことがあったら、無理しないでいいと思います。泣きたいときには泣いてもいいと思います。いつもルイさんが言うでしょう? 笑っても泣いてもいいんだよって」


 そうたたみかければ、オルニーイは絶句したのか、ぽかんと口を開く。


「私は泣きました。笑いもしました。本当はだめかもしれないけど、ルイさんが許してくれたから。ルイさんのおかげで私、今、凄く元気です」


 ヴィクリアはまだ痛む手を胸に当てて、笑った。


「ルイさんだって、そうしていいと思います」


 微笑んでみた。ぎこちないものの、オルニーイが安心できるような笑みを浮かべられた、と思う。


 しかし。


「そうだね」


 オルニーイの笑顔にかげりが帯びる。彼は鮮やかな色彩の瞳を閉じ、まぶたを開けてから、念押しするように口角を上げてとりつくろう。


「でも、わたしは英雄なんだ」


 それ以上、彼は何も言わなかった。


 何をどう言えばいいのか、ともかく話を続けようと試みるヴィクリアが口を開いたのを見てか、オルニーイはいつものように笑みを深める。


「もう、夜も遅いよ。花を愛でるのはまた今度にして、そろそろ眠りなさい」

「……ルイさん」

「わたしはまだ書類整理があるから、仕上げてから部屋に戻ろうと思う。一人で部屋に帰れるかな」


 すっかり話をすげ替えられたと、さしものヴィクリアでも気づいた。


 気づくと同時に、悲しくなる。虚しくなる。そして少し、腹立たしい。


 感情の渦が胃の近くで熱を帯びているようだ。こんな気持ちは感じたことのないもので、どれが一番強いのか自分自身にもわからない。ただ、気遣いを無下にされたから、という理由ではなかった。


「……帰れます、一人で。お休みなさい」


 ささやくように言い、返事も待たずランタンを拾って走り出す。ポケットから滑り落ちたビスケットの袋を踏んでしまい、一瞬泣きそうになる。


 いい一日だと感じていた。事実、できたことも知ったこともある収穫日だった。だが、眠る前にこんなことがあるなど――わけのわからない感情へ放り出されるなど、想像だにしていない。


 この気持ちはどこか、シーテを喪失したときのものに、似ている。

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