3-4.なんだろう、これ。

 オルニーイと共に階段を降りて通路を進み、どのくらい経っただろう。松明が用意されている地下はあまり明るくないものの、歩くのには苦労しない程度の光源を保っていた。


 見知らぬ場所への通路を行くヴィクリアはふと、気づく。


「ルイさん、私が泣いたからルイさんの指、濡らしちゃいました」

「気にしなくても大丈夫だよ」


 振り返るオルニーイは、本当になんてこともないというような笑みを浮かべていた。


「でも」


 汚れてしまう、とヴィクリアが続けようとした刹那――


「あ、っ」


 飛び出た煉瓦れんがに足をとられ、つまずいた。


「危ない」


 横滑りしそうになったところを、オルニーイの腕が伸びて支えてくれる。かいなは実にたくましく筋肉が硬い。顔同士もまた、彼が屈んだためか至近距離だ。


 いつも見上げてばかりいたオルニーイのおもては、やはり彫像のように整っていた。すっと通った鼻立ちに形のいい唇。青い双眸そうぼうは、湖水のように光で緑へと彩りを変える。


 『格好いい人』へ完全に、体重を預けて頼ってしまっている形だ。一瞬、ヴィクリアの心臓が跳ね上がる。


(これ、何?)

「大丈夫かい?」

「あ、えと、はい」


 柔和な笑みを向けられて、うつむきながら答えた。


 心臓の脈が、うるさい。血がどくどくと全身を駆け巡り、体中を熱くさせる。生まれてはじめて感じる体調の変化に、戸惑うことしかできなかった。緊張とも恐怖とも違う。どこか軽い、優しい動悸だ。


「足下は暗いから。気をつけて」

「はい、ごめんなさい」


 体の異変に困惑しつつ、曖昧にうなずいた。


 足を戻せば、オルニーイが静かに体を離してくれる。彼はそのまま、ランタンで近くの角を照らした。


「あっちを右に曲がれば、こないだの地下庭園に辿り着ける。主館からも行けるんだ」

「お花畑」

「そう。今は左に向かうよ。地下は迷いやすいから、おもむく際は注意してほしい」

「わかりました」


 心臓が脈打つことに疑問を覚えながら、進むオルニーイの後ろをついていく。


(なんだろう、これ)


 感じた温もりに、オルニーイの穏やかな笑み。その二つで自分はおかしくなっている。だが、どうして変になっているのか、その理由がわからないままだ。


 それでも転ばないよう、足下と先に注意して進めば、次第に通路が広がっていくのが目視できる。横に一つの扉があるのも。


「あそこだ」

「扉……お部屋ですか?」

「わたしがたまに使う稽古場だよ。今、開ける……おや?」


 素朴そぼくな木製の扉を前に、オルニーイが疑問の声を上げた。


「どうしましたか」

「ああ。いや、かんぬきが抜かれていたから。多分マクシムだな」


 言って、彼が扉を押す。手招きされ、ヴィクリアも扉の側へと駆け寄った。


「やはりここをお使いになりますか、オルニーイ様」

「やあ、マクシム。全く君にはかなわないな」


 中にいたのは、オルニーイが言ったとおり初老の執事だ。彼はにこやかな笑みで「どうぞ」と二人を迎え入れた。


「わあ……」


 広く明るい地下室に、ヴィクリアはなかば呆然と声を上げる。


 ブロンズの燭台しょくだいに置かれたついたては緑で、目に優しい光源となっていた。それだけでなく、少し低めの天井にはシャンデリアも用意されている。すき間風を封じるタペストリーも豪華なもので、精緻せいちな模様を描く銀の刺繍ししゅうが輝いていた。


 中央にはかかしが数体。壁には槍、斧、剣などがかけられており、隅には白亜の机と椅子が邪魔にならないよう配置されていた。


「ここはわたし専用の稽古場でね。庭に出られないときに使用しているんだ」

「書類整理から逃げるときにも、でございましょう?」

「うっ……ま、まあ、そんなときもあるかな」


 マクシムの笑顔に苦笑を浮かべ、オルニーイは困ったようにこめかみを掻く。


「ヴィクリア、君もここを使ってくれていいよ」

「邪魔になりませんか」

「困ることはないから大丈夫。それで、マクシム。彼女の杖なのだが」

「ご安心を。本日は急な嵐が来ましたので、すでに用意しておりますよ」

「ありがとう。仕事ができる執事を持って安心してるよ」

「光栄です。ヴィクリア様、あちらの椅子に杖をかけておりますので、ご確認下さい」

「はい」


 礼を述べたヴィクリアは、さっそく椅子の方へ小走りした。円形のテーブルには紅茶か何かのポットとカップが用意されている。椅子を見ると、確かにキツァンからもらった杖が立てかけられていた。


 杖を持ち、内心うなずく。ここはいつもの庭に比べれば狭いが、それぞれの巧みな配置で閉塞感は覚えない。中央はオルニーイが使うとしても、隅の方を借りられれば十分だ。


「わたしも今日の鍛錬を済ませてしまおう。マクシム、夕飯になったらよろしく」

「承知しました。茶などもご用意しておりますので、ごゆるりと」

「ありがとうございます、マクシムさん」

「どういたしまして」


 頭を下げるヴィクリアに首肯し、マクシムは丁寧なお辞儀を見せると部屋をあとにする。少し鈍い音がして、扉が閉まった。


「さて。ヴィクリア、ここは少し空気の循環が悪いから、本気でやらないようにね。呼吸が苦しくなってしまう」

「わかりました、気をつけます」


 言って、ヴィクリアは杖の先を見つめる。


(四角は安定……)


 キツァンの言葉を思い出した。うん、と一人つぶやく。


 見れば、オルニーイも木製の剣を持ち、シャツのボタンを少し開けているところだ。


 椅子があるヴィクリアの場所からは、彼の正面が確認できた。そのままオルニーイは中央のかかしへとおもむき、静かにまぶたを降ろす。


「……ふっ」


 瞳が開いた直後、呼気と共に放たれたのは、ヴィクリアには見えないほどの早い斬撃だ。かかしの音が高らかに響く。右腕が上や下、左右、どの方向にも動いているのがわかるものの、やいばは全く目視できない。


「はっ!」


 気合いのあとの一振りは、横薙よこなぎ。木片が飛び散った。ヴィクリアがよく確認すれば、かかしも止まった剣の刃部分も、多少欠けているのがわかる。


 照明に汗がきらめく。真剣な面持おももち。まっすぐな視線。今までに見たことのない、戦士としての姿――どくん、と一つ、また一つ、ヴィクリアの心臓が大きく脈打つ。


 ただ、惚けたようにオルニーイを眺めることしかできなかった。鼓動が全身に伝わり、体中が熱くなる。耳の中に、頭の中に、心臓の音がこだまする。


「かっこ、いい」


 ぽつりと漏らしていた。そう、この人は『格好いい』人なのだと再度、理解する。


「ヴィクリア、今何か言ったかい?」


 剣を下ろして構えを正したオルニーイが、自分を見て笑う。爽やかで、優しい微笑み。


 なんでもないですと口の中でささやき、急いで首を横に振った。


「そう」


 オルニーイが再び、かかしに厳しい眼差しを向ける。


 ヴィクリアはどうしようもなく体がほてる、その事実に混乱していた。何が原因でどうしてこうなっているのか、理解も説明もできない。そこがまたうろたえる要素となった。


「……私、変になっちゃった」


 口に出せば出すほど、自分の異変に脳が追いついていかない。


 ともかく心を落ち着けなければ――そう思い、部屋の隅で杖を突き出す。何度も深呼吸し、いったん、オルニーイの顔やたくましい体を脳内から追い出した。


 集中し、呼気を正していくと、ぼんやりとしていた思考がクリアになっていく。さえざえとした月明かり、そこに吹く一陣の風を思い描いた。体の熱は次第に冷える。


 怖いくらいの虚無。空っぽな部分に落ちていく。最大にまで自我を研ぎ澄ませた直後、一本だけ奇妙な奔流ほんりゅうがあることに気づいた。たぐり寄せるのではなく、流れに身を委ねるイメージをし、とっさに目を開けた。


「風」


 下からすくい上げて杖を振るった刹那、煙水晶先の宙から風が吹く。


「あっ!」


 風は小さな渦を巻いてそこにある。周囲の土埃を巻きこみながら。


「できた……!」


 つい、歓声を上げてしまった。それでも風は揺らぐことなく、緑の光をたたえて眼前で渦を描いている。


「ヴィクリア、できたのかい!?」

「はい、ルイさん。私、マナを使えました」


 オルニーイが剣を投げ捨て、駆け寄ってきた。そのまま勢いよく片手を強く、きつく握り締められる。


「努力が報われたね。よかった、本当によかった」

「ありがとうございます、よかったです」


 片手を握られたまま、上を向いて彼を見つめた。安堵したことでか自然と笑みが浮かび、口元が緩んでしまう。


 少しの間、無言で互いの顔を直視した。


 自分のことのように喜んでいるオルニーイの笑顔が、心地いい。もっといろんな表情が見たい、そう感じてしまうのはなぜだろう。


「……あ」


 しかし見つめ合っていることが面映ゆく、ヴィクリアはうつむいて視線を逸らした。


「は、すまない、つい」


 どこかうわずった声で、彼も手を離す。上目遣いで確認すると、オルニーイの頬もどうしてか紅潮していた。


「一歩一歩の積み重ね、だね」

「私もそう思います」


 ヴィクリアは首肯し、うずく口元を引き締めようと試みる。だめだった。喜びが勝ってそれどころではない。


「笑っていいんだよ、ヴィクリア」

「……はい」


 無理におもてを元に戻そうとしていたのがわかったのか、オルニーイが優しく肩に手をかけてきた。


 嬉しい。喜ばしい。けれど――


(胸……どきどきする)


 またもや訪れた体の異変に、笑顔を浮かべられてもオルニーイの表情を見上げることが、できそうになかった。

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