第三章:呪いと戸惑い

3-1.楽しくて、いいのかな。

 初陽月しょようづきも、そろそろ終わりに近づいた。静葉月せいようづき目前もくぜんにして――ヴィクリアがローダ城に招待されてから二週間。これといった結果が出せていない状態に、ただ、焦る。


 師であるキツァンからは「ゆっくりやることです」としか言われていない。確かにそうなのだ。オドの流れは人それぞれで違う。マグマだと例えるものもいれば、水流だと答えるものもいる。人によって異なるため、自力でどうにかする他ない。


「うぅん……」


 杖を握り、唸りつつも、まぶたを閉じて集中する。


 風の音、草の匂い、心臓の鼓動、全身の体温を感じ取り、ここだと思った瞬間。


「えい!」


 下からすくうように杖を振る。


 何も起こらない。つむじ風一つ、作ることができなかった。


「……どうしたらできるかな」


 ため息をつき、空を見上げる。雨雲は見当たらないが、今日の天候は曇りだ。旋回せんかいするトンビがヴィクリアを嘲笑あざわらうかのように、大きな鳴き声を上げた。


「本当にできるのかな」


 ささやいて、杖の先についた煙水晶を見つめる。不安だけが胸を占めてどうしようもない。


 こうして練習したことは、前にもある。シーテが生きていた頃だ。義母の指導で、しかし一ヶ月も経たないうちにやめてしまった。正確にはやめさせられた。


「シーテさんは、別にマナを使わなくても生きていける……って言ってたけど」


 呪いが関係していたから、もしかしたら彼女は教えを中断したのかもしれない。


 今のところ、ヴィクリアの呪いがどの魔獣のものか、わかっていなかった。そろそろ判明するとキツァンは言っていたが、どうなっているのだろう。


 思考が暗く落ちていきそうで、袋に入れたお茶を片手に、礼拝堂横の長椅子に腰かけた。爽やかな香りがするハーブティーを飲む。これは、マクシムが用意してくれたものだ。


「おいしい」


 ふう、と呼気を吐き、目を閉じた。朝食後から、ずっと一人で稽古を続けている。初老の執事は、こっそり「今日は昼にケーキが出ますよ」と笑いながら教えてくれた。


 使用人の彼ら、オルニーイやキツァンたちのことを思う。優しい人たちだと、ヴィクリアは感じる。呪いを持っている自分に対し、ほとんど孤独だったときと比べて、ここはとても甘美な世界だ。


 三日ほど滞在していたティネには萎縮いしゅくしてばかりいたが、彼女も悪い人ではないのだと考えている。聖女としての力、治癒術は見たことはないけれど。


 革袋のせんをして、膝に置きつつ下を向いた直後――


「ヴィクリア」


 自分を呼ぶ声がする。視線を主館の方にやれば、階段のところでオルニーイがこちらに向かって大きく手を振っていた。


 軽く後ろに結われた金髪が、曇りの中でもまぶしく見える。清潔なシャツと茶色のトラウザーズに覆われる体はたくましく、実に頼りがいを感じさせるものだ。


「そろそろ昼食だ。こっちにおいで、一休みしよう」


 よく通る凜とした声で言われて、ヴィクリアは自分が長時間、ほとんど休みなく練習を行っていたことにはじめて気づく。かなりの時間、外にいたせいで少し体が冷えていた。


 大きくうなずいて、杖と革袋を持ち、館の方へ走る。


 オルニーイはヴィクリアが辿り着くまで、笑みを浮かべたまま待っていてくれた。


「お疲れ様。今日の練習はどうだった?」

「全然、だめです。ものも浮きませんし、風も起きませんでした」

「そうか……でも焦らずにやるんだよ。焦ればことをし損じるというから」

「はい」


 うなずき、二人で館へと入る。暖かい空気が頬や手を撫でていく。


「今日は何が見たい?」

「前にルイさんが言ってた、珍しい鉱石が気になります」

「それなら図書室にある。先に見物してしまおうか」

「お願いします」


 ヴィクリアが微かに笑むと、オルニーイが唇をより、ほころばせた。


「最近、笑顔がよく浮かぶようになったね」

「あ。えっと、気を緩めてるつもりはないんです」

「いや、責めているわけではないよ。笑顔を見られてわたしは嬉しいしね」


 こめかみを掻く彼は、なぜか少し照れているようだ。証拠に頬が多少赤い。疑問に思ったものの、ヴィクリアは何も言わず、首肯するだけにとどめた。


 オルニーイと地下庭園の花を眺め、二週間。それからというものの、彼はいろんなものを見せてくれたりするようになった。


 英雄として、旅の中で手に入れた様々な道具、本、植物。著名人の絵画や彫像の意図はさっぱりわからなかったが、それでも知らないものを見られるというのは、楽しい。


(……こんなに楽しくていいのかな)


 そんな感情に心苦しくなる。呪いのこともわかっていない。マナも使えていない。なのに遊ぶようなまねをする余裕は、許されるのかと。


 しかし同時に、オルニーイの誘い――『気晴らし』という誘惑は、ヴィクリアの知識欲を刺激してやまない。彼の説明もわかりやすく、ついつい気が逸れてしまうのだ。


(でも、だめ)


 自分は早く呪いをどうにかし、自立しなければならない。人に迷惑をかけてはいけない。甘えるわけにはいかない。なぜなら。


「ヴィクリア? 図書室はこっちだよ」

「あ」


 つらつらと考えていて、いつものように自室に行こうとしてしまった。青い目をまたたかせるオルニーイは、階段を上るのではなく、通路の角を曲がろうとしている。


 慌てて側に近づいて、ヴィクリアは首を横に振った。


「ごめんなさい、考え事をしてました」

「大丈夫? 少し、疲れているんじゃないのかい?」

「平気です、はい」

「無茶はしないように。心身が疲れていては、稽古も何もないはずだから」


 真顔で答えれば、彼は優しく諭してくる。とても穏やかな声音で。


「大丈夫です。ルイさんこそ、お仕事とか平気ですか」

「書類仕事ばかりだけれど、ちゃんとこまめにしてるから大丈夫。それに、君に息抜きをさせるつもりで、実はわたしが休息を取っているというわけさ」


 茶目っ気のある笑顔で言われ、ヴィクリアもつられて笑う。


 いつも、こうだ。オルニーイの優しさや明るさは、まさしく光のように、ヴィクリアの暗くなる心を照らしてくれる。シーテと一緒にいたときとはまた違う、形容しがたい安心感と楽しさが存在していた。


(英雄さん、だからかな)


 凄いな、と心底思った。英雄としての使命、人を導き守ること――それを体現しているようなオルニーイは、やはり立派な人なのだろう。


 そんな立派な人間の側で、自分は一体何をしているのか、わからない。


 キツァンやティネ、リュシーロたちは、見た限り誰もが輝いている気がする。外見が華美かびだからとか、派手だからとかではない。内面、そう、本人たちが持つ矜恃きょうじや自信から、きらめいて見えるのだ。


 どうしたらなれるだろうか。オルニーイたちのような、立派な大人に。


「ルイさん」

「ん?」


 わからないなら聞けばいい、と素直に口に出すことにする。


「どうやったら立派な人間になれますか? ルイさんたちみたいに、凄い人たちに」

「わたしは立派ではないよ。はたから見たら凄いことを成し遂げたかもしれないけれど」


 驚いた顔で言われて、ヴィクリアは思わず目をまたたかせた。


「キツァンなんて『人助けはめんどう』とか言っているし。わたしだって最初から、ユランを討伐しようと思って旅に出たわけじゃないしね」

「そうなんですか?」

「うん。わたしは腕試しのために旅に出たんだ。まあ、師に実践が一番、と言われたこともあってかな。気づけば、自分でも驚くようなことをやり遂げていた」


 オルニーイが窓の外を見る。ここではないどこかを見る。


 青色の瞳は細められ、何かを懐かしんでいるのか、それとも誰かを思い出しているのか、ヴィクリアには読み取ることができなかった。口元も先程とは違い引き締まっており、そうして見ると、彫像のように整った顔立ちだということがわかる。


「……だからヴィクリア。凄いことを、最初からやり遂げようと思わなくていいんだよ。一歩一歩の積み重ね。それがいつか実となって、君のためになるのだから」


 一瞬、雲の切れ間から陽光が差しこんで、オルニーイを照らす。


 穏やかで優しい微笑みに、均整が取れた筋骨たくましい体。内面から溢れる自信――


 光の効果もあるのか、ヴィクリアは瞬時にこれが『格好いい人』なのだと理解した。


「答えになっていたかな」

「あ。えっと……はい」


 何度も首肯し、慌てて、脳裏に浮かんだ『格好いい』という単語を打ち消す。


 異性と話した経験は、数少ないがあった。木こりの家族にも年の近い青年がいた。彼のことを思い出す。青年の仕事ぶりは、きっとオルニーイのように『格好いい』ものだ。比べるものでもないということはわかるが。


(私、そういえば)


 はっ、とヴィクリアは我に返る。『格好いい』人へ出会いがしら、裸体をさらした事実に。


「……はずかしい」

「えっ、どうしたんだい、いきなり」

「なんでもないです」


 うつむかせた頬が熱くなる。これがどういうことなのか、なぜはずかしいと感じたのか、わからなかった。


 わからないまま、それでも思考はぐるぐると、めまぐるしく移り変わる。


(ルイさんはいい人。そして、格好いい人。キツァンさんも、リュシーロさんも、ティネさんも、格好いい……人)

「ヴィクリア」

(あれ、でも格好いいって女の人にも使う?)

「ヴィクリア?」

(男の人にだけ、使うのかな)

「ヴィクリアー」

「はっ」


 またもや考え事をしていた。顔を上げると、食堂の扉が開かれているのが目視できる。近くには微笑みを浮かべたマクシムもいた。


「どうやら昼食の準備が早くできたようだ。先に食べてしまおうか」

「……はい。マクシムさん、お茶をありがとうございました」

「いいえ、この程度お安いご用ですよ」


 からの水袋をマクシムに渡し、一礼する。


「さあ、鍛錬たんれんに備えてしっかり食事をしよう」


 オルニーイの言葉に、ヴィクリアは小さくうなずいた。


(こんなに楽しくて……いいのかな)


 内心の疑問が胸を痛ませる。その答えはどこからも、やってはこない。

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