第二章:英雄として
2-1.単なる、夢。
恨み辛み、憎しみ――怒り。彼らが己に向ける負の感情は、確かな冷気となって暗闇の中、体全体を撫でる。凍てついた風に揺らぐ呼気も白い。
(夢だ)
そんなことはわかっている。たまに見る、たちの悪い悪夢だと。
「なぜ、助けてくれなかった」
「どうして間に合わなかった」
「お前が英雄だなんて笑える」
頭の中に反響する言葉、声が呼吸を荒くさせた。
(起きろ。これは単なる夢だ)
足を、腕を、
無数の手により、勢いよく地面に叩きつけられた。金髪を掴まれる。息が苦しい。
(彼らがこんなことをするわけはない。死者を
そう、こんなのは、心の弱さと
夢から覚めるように目をつむる。
「ルイ、お前は正しくあらねばなりません」
「三男とはいえ、クイーシフル家の息子に違いない。強く清くあれ」
「英雄は強く正しく。みんなのために生きなくちゃ」
代わりに脳を揺さぶるのは、家族たちの言葉だ。
強くきつく目を閉じる。あらゆるものから逃れるように。早くこの
すがれるものもいないまま、歯を食いしばり、冷気とおぞましさに耐え続けていたそのとき――
「英雄の心配をしているわけじゃありません」
ふと、平坦な女性の声が届いた。
「私、ルイさんの心配をしているんです」
静かな声には
まぶたを開ける。
覆い被さる
※ ※ ※
どこまでも青い空を飛ぶトンビが、一つ、大きな鳴き声を上げた。天に雲はなく、風も穏やかで木の梢をわずかに揺らしている。下に目を落とすと、広い庭で、剣や槍の稽古を行う兵たちの姿が確認できた。
白いシャツと茶色のトラウザーズに身を包んだオルニーイは、窓から視線を戻す。
今日は珍しく、晴天にもかかわらず悪夢を見た。ただ、全体がはっきりしていないのは毎度のことで、少し変わった終わりと目覚めだった気もする。
夢のことはさておき、今日――
主館から塔の一つへと足を急がせる。すれ違う使用人たちに
「失礼いたします、オルニーイ様」
「マクシム。どうしたんだい」
途中、執事のマクシムと出会う。彼は幼少のときよりオルニーイの面倒をみてくれていたものの一人で、ローダ城に住まいを変えた際以降も、何かと力になってくれていた。
「キツァン様とヴィクリア様は、朝食を済ませてらっしゃるのでしょうか? 必要とあれば、今からご用意しますが」
「ああ、キツァンに聞くのを忘れていたな。いや、きっと二人とも朝から忙しかっただろう、食事の準備だけはしておいてくれないかい?」
「かしこまりました」
「よろしく頼むよ」
マクシムに笑顔でうなずき、その場をあとにする。
ヴィクリアは『キツァンの弟子』ということになっている。特殊な理由でマナを扱うことができず、ゆえに賢者の元で魔女としての修行をはじめるのだと。
表向きとしては、だ。実際キツァンが中心に行うのは、ヴィクリアの呪いの調査である。彼女が呪い持ちだと知っているのは、少数しかいない。マクシムは理解者の筆頭だった。
呪われた人間を歓迎するものは、多くない。例え英雄の仲間、ユラン殺しの一団であるキツァンが側にいたとしても、英雄たるオルニーイが許可を出したとしても、いい顔などされない――魔獣の『加護』持ちは、それほどまでに嫌われるようだ。
「彼女個人は悪くないというのにね。難儀なことだよ」
ため息が人気のない通路に、消えた。
歩廊を歩き、扉を開けて塔へと入る。青く染められた石でできた塔は、監視や見張り台ともまた違う役割を兼ね揃えていた。
そこら中にあるのは大陸を越えてやってきた巻物、様々な本、魔道具に使われる材料。この塔は、キツァンの私物を置く倉庫だ。
「全く、少しくらい片づけてほしいんだが」
積み重なった本の間を通りつつ、オルニーイは苦笑する。
彼は妻子と共に王都で暮らしてはいるが、城は持っていない。聞けば、奥方が城に住まうことを拒んだという。本人も面倒くさがりで、荷物や普段使わないものは、仲間たちに預けて回っているらしい。
だが、塔内部の中央、そこに石灰石で描かれた複雑な
転移とはいえ、一度につき術者の他、人一人を運ぶことくらいしかできない。しかも、術者本人たるキツァンがおもむいたことのある場所同士でしか働かない
ヴィクリアはこれで来る。王都からシェルビの森へ馬車で向かったキツァンが、このクイーシフル領、ローダ城まで彼女を移動させる方法をとった。キツァン曰く「手っ取り早いから」らしい。
つい、オルニーイが苦笑を浮かべた直後、
緑の光が円柱となる。そこからふんわりと、宙に浮くようにして姿を現したのは――
「わ」
「あ、危ない」
紫の三つ編みをくゆらせ、おぼつかない足取りで出てきたヴィクリアに、思わずオルニーイは腕を伸ばした。白い手が支えを求めるようにさ迷い、己の
「大丈夫かい、ヴィクリア」
「ルイさん」
ブーツの音を軽く立て、彼女は着地した。驚いているのか、それとも戸惑っているのか、金色の瞳は何度もまばたきを繰り返している。
「あー、だっる。やっぱ馬車にすりゃよかったかもしれないですね」
「キツァン、お疲れ」
光から出てきた友は、青色の長髪を掻き、緑の目を細めて疲労感をにじませていた。
薄緑のローブ、その胸元で輝くエメラルドのブローチは、魔術学校校長の証しも兼ねている。彼が持っているのはオークの杖と一つの鞄だ。鞄はヴィクリアのものだろう。
「ヴィクリア、めまいとかしてませんか」
「さっき、フラッとしました。でもルイさんが助けてくれたので。今は大丈夫です」
「そうですか。ルイ、これ持ってて下さい」
鞄を突き出され、オルニーイは素直に受けとってしまう。
キツァンは発光する
「ルイさん、おはようございます。私、鞄持ちます」
は、と、オルニーイの横にいたヴィクリアが、気づいたように頭を大きく下げた。
「おはよう、ヴィクリア。部屋までわたしが持つよ。君がいやでなければだけれど」
「大丈夫です。自分のことは自分でって、シーテさんなら言うだろうから」
うん、とうなずき、オルニーイは軽いと感じた鞄を返す。
「キツァン、ヴィクリア。二人ともお腹は空いてないかい? 朝食の準備をさせてあるんだが」
オルニーイの言葉に、キツァンは振り返ったのち、首を縦に振った。
「そんじゃ、言葉に甘えますかね。ね、ヴィクリア」
「ご飯」
きゅうっ、とヴィクリアの腹が鳴る。彼女の白い頬がみるみるうちに赤く染まった。
「ゆっくり腹ごしらえをして、それからいろいろ話そう。まずは君の部屋に案内するよ」
「はい……あ」
ヴィクリアが数歩オルニーイに近づき、止まる。鞄を両手で持ち、深々とお辞儀してみせた。顔を上げた彼女は、相変わらず無表情だ。
「これからお世話になります、ルイさん。よろしくお願いします」
「……うん、わたしの方こそ、よろしく」
三日前、ヴィクリアの家で見た笑顔。それがないのが少しさみしい気がしたものの、オルニーイは代わりにいつものように、明るく微笑んでみせた。
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