1-2.ぎこちない、空気。
悪竜ユラン。それは、四つの大陸にまたがって悪行を働く存在のことだ。魔獣を操り、国を滅ぼしては人を食い、金銀財宝を奪ってゆく。
三つの分身と一つの本体とで分かれるユランは、各大陸の大国とそれぞれ争い、
だが、ヴィクリアが住むスヴェノータ王国だけは、別だ。広大な森と山脈を持つ豊かな国は、七年前、一人の英雄とその仲間たちによって救われた。
オルニーイ・ローダ・クイーシフル。クイーシフル辺境伯の三男である彼が、ユランの分身を退治することに成功。見事スヴェノータ王国に平穏をもたらしたのである。春も間もない
そこまではヴィクリアも知っていた。今は亡き養母、シーテにも聞かされたことがあったから。近所の木こりたちも話をしていた記憶がある。
だが――
「本物のオルニーイさんですか?」
率直に、どしがたいほど素直にヴィクリアは聞いてみた。
木の机を挟んで椅子に腰かけている彼、オルニーイが、あからさまな苦笑を浮かべる。
「それは……本当にわたしがオルニーイ本人か、ということかな?」
「はい、そうです。私は英雄さんを見たことがないから」
「はじめてそんな風に聞かれたな」
紅茶を飲み、彼はカップを静かに置いた。ヴィクリアはちょっと心配になる。上手く紅茶を入れられたかがわからない。
客人にはお茶をふるまうこと、とは義母の言いつけだ。シーテは茶の味をまあまあだと言ってくれていたが、果たしてどうなのだろう。
ヴィクリアの内心をよそに、
「証拠となるようなものは、国からいただいた
「名前が書かれてあるなら見せてほしいです」
「……確か君は、ヴィクリアだったね」
「はい。ヴィクリアです」
「ではヴィクリアどの。わたしがもし英雄を語る悪者だったら、どうしていたんだい」
まっすぐな眼差しで問われ、ヴィクリアは目をまたたかせた。紅茶のカップを持って、小首を傾げる。
「お金が欲しいならあげますし、ご飯が欲しいなら作ります。他に何か」
「そう……君は危なっかしい、と誰かに言われたことがあるんじゃないかな」
「あ、はい。シーテさんには確かに」
どうして知っているんだろう、と不思議に思う。そんな自分に対し、オルニーイは苦笑をより強め、胸元につけている紺色のリボンを無造作に外した。それを机の上に置く。
「名前の刻印入り
「もう成人です、私。シーテさんに習ったから文字も読めますし」
「成人だということは、十五歳?」
「いいえ、もう少しで十八です」
見えないな、というオルニーイのつぶやきはさておき、ヴィクリアは
「オルニーイ・ローダ・クイーシフル……」
「そう。一応ちゃんとした証明書にもなっている。それが本物ならね」
「偽物なんですか?」
「まいったな……いや、本物さ。わたしは正真正銘、ユラン殺しのオルニーイだよ」
頭を掻く彼に、ヴィクリアはうなずく。
「シーテどのは、今ここにいないのかな」
「……亡くなりました、二年前に。お墓は裏庭に作りました」
「亡くなった」
返答ののち、少しの間、ヴィクリアが茶を飲む音だけが響く。
「そうか、だからあの木こりの家族も『最近は見かけない』と言っていたんだな……」
どこか重苦しいオルニーイのため息に、申し訳なさが募り、彼女は頭を下げた。
「シーテさんにご用があっても、私にはどうすることもできないです。ごめんなさい」
「いや、謝らないでくれ。わたしも急に来たわけだからね」
「英雄さんは、シーテさんのお知り合いですか?」
「わたしではなく、友人がね。その友人の頼みで、シーテどのに会いに来たわけなんだ」
言って、オルニーイは懐をまさぐり、何かを取り出す。指一本分程度の、長めの
「なんでしょう、それ」
「魔道具の一つだよ。ある程度の距離なら会話ができる
コツコツと指先で石を叩くオルニーイを見て、ヴィクリアもシトリンを注視する。魔道具というくらいだ、きっと魔術――マナが関係するものなのだろうと推測した。
この世界にはマナという魔術が存在する。扱うには術者の体内に宿るオドが必要で、しかしそれらは魔女、ないし魔術士と呼ばれる特別な人間にしか操ることができない。
シーテは偉大な魔女だったという。「昔の話だ」と本人は笑っていたが、ヴィクリアが幼いとき、一人で狼や熊をしとめてみせたこともあるくらいだ。ただ、シーテの昔はついぞ聞いたことがない。本人が話すことを嫌い、ヴィクリアも最後まで尋ねなかった。
「英雄さんも魔術を扱えるんですか?」
「わたしのことはオルニーイ……いや、ルイで構わないよ。わたしは一つだけ。友人は古代魔術すら数個、平然と操る」
「でも、それ……まどうぐ? 会話ができるって」
「これは友人が開発したものなんだ。まだ試作段階のものを借りた。本人は出不精でね」
「英雄さ……いえ、ルイさんがオドで操るマナ、ではないんですね」
「うん、違う。君はマナとオドのことも、ちゃんと教えられていたんだね」
「一応は、です」
「じゃあ君も魔女かい?」
「えっと」
内心、悩む。会って間もない他人に、自分のことをあまり話したくはない。
葛藤を見破ったのか、オルニーイは悠然と微笑む。
「ぶしつけだったね。今の質問は忘れてくれ。それにしても、友も驚くだろうな。シーテどのが結婚していただなんて」
「あ、違います。私、捨て子だったんです。シーテさんは養母で、ずっと私を一人で育ててくれてて」
「そ、そうだったのか……これもまた墓穴を掘って、失礼なことを言ってしまったな」
申し訳ない、というささやきが響いた。いえ、とヴィクリアが答えれば、しばらく無言が辺りを制する。
「……あー、聞こえますかね、ルイ。聞こえたら返事をどうぞ」
どこか重く感じる
「ああ、聞こえるよ、キツァン」
「ルイ、話は最後まで聞いてから出かけて下さいよ、ったく」
鉱石が
「そこに女性がいると思うんですが。えー……名前は、ヴィクリア」
自分の名前を呼ばれ、目を丸くした。声に聞き覚えはないが、キツァンという名には少し、引っかかるものがある。
カップを置いたヴィクリアを見て、オルニーイはうなずきながら答えた。
「ああ、ヴィクリアどのにお茶を入れてもらっているよ。なんだ、君はシーテどのに用事があるのではなかったのかい」
「話は最後まで聞いて下さいっての。シーテ様がいなければ養女のヴィクリアに話を、って言う前にあなた、部屋出ていったでしょう。三十歳にもなって落ち着きのない」
「そう、だったかな」
「私にご用、ですか?」
つい口にしてしまい、ヴィクリアは慌ててうつむいた。
「今の声がヴィクリアですね。こんばんは、キツァンです。ただの天才賢者です」
「天才賢者さん……」
話に割り入ったことを怒るでもなく、声は続いた。声の主――キツァンの言葉に、ヴィクリアはおずおずと顔を上げる。賢者といえば、魔術を複数個極めたものが名乗る呼称だ。そこでようやく記憶がはっきりとする。
賢者キツァン。英雄オルニーイの仲間で、ユラン退治でも名が上がっていた。
そんな有名人の咳払いが聞こえる。
「僕はまどろっこしいのが嫌いなので、率直に聞きますけどね……ヴィクリア」
「はい」
「あなた、呪われてるって、本当ですか」
その言葉に、平然と放たれた一言に、ヴィクリアは自分の体が強張るのを自覚した。
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