【完結】救国の英雄、呪われた魔女の恋

実緒屋おみ@忌み子の姫は〜発売中

第一章:名ばかりの魔女

1-1.何か用事が、ありますか。

 初陽月しょようづきの中旬、満月の夜。彼女が森の中を歩くたび、やぶに隠れた兎やリスはここぞとばかりに逃げ出し、熊や狼という猛獣たちの気配も遠ざかっていくだけだ。


 彼女――ヴィクリアの側に野獣は来ない。小動物も近寄らない。悲しくもむなしくもなかった。それが、当たり前のことだったから。


 ナラや菩提樹ぼだいじゅが生い茂る小道を、彼女は一人で進む。抱えた籠の中では、摘み取ってきたばかりの薬草がわずかな月光にきらめいていた。


「月」


 歩きながら上を向き、つぶやく。


「ナラの木。ヘデラ。トネリコ。イラクサ」


 顔を元に戻し、目についた草木の名を口にした。声の出し方を忘れないように、という義母の言いつけを、ヴィクリアはこの二年、忠実に守っている。他者との会話など、月に一度、木こりと話すときくらいしかないが。


 なんの表情も浮かべないまま、摘み取った薬草の名前をささやいて歩く。今日は少し遠出をしたものの、この森は自宅そのものだ。奥に行ったとしても迷うへまなどはしない。


 夏の風をはらんだ空気はいつもより温く、爽やかさとは縁遠い重さで頬を撫でた。もう少し歩けば目的地だ。夜が更ける前に用事を済ませ、帰宅しておきたい。


「……湖」


 茂みをかきわけて進めば、青緑の湖水が目に入る。ここは薬草摘みの帰りに必ず寄る場所で、いつものように、ためらうことなくほとりへと足を進めた。


 大きな菩提樹ぼだいじゅの根元で、止まる。籠を置き、少し大きめのブラウスと茶色いスカート、そして亜麻色あまいろのブーツを脱いだ。下着もたたんでから、湖へと一気に身を滑らせた。


 水の冷たさに鳥肌が立つ。半身を沈めて耐える。静かにすると波が消えていく。そうして鏡のようになった水面みなもには、月光もあいまって自分の姿がありありと映っていた。


 日焼けもしていない白い肌。内側に弧を描く紫の髪は、多少膨らんだ胸までの三つ編み。瞳は金色にも近い黄色だ。


「異常なし」


 外見に何か変化があるか確認したのち、はっとする。髪を結う焦げ茶のリボンを解き忘れた。このままでは濡れてしまう――とまで考え、今日くらい好きに洗おうと決める。


 泳ぐように体を動かせば、水草が足の裏をくすぐった。ここの湖はそんなに深くなく、身長が低いヴィクリアでも簡単に立てる。森の中には他にも湖水があるものの、人目につかず、誰も使用していないのはここだけだった。


 平和だ。何もない。水浴びをして、ご飯を食べて、薬草を乾かし、寝る。毎日行う繰り返しは飽きるというより何もない、その一言に尽きる。


 リボンをほどき、波がかった髪を解き放つと共に一気に潜る。冷たい。気持ちがいい。しばらくののち息を止めるのに限界が来て、思いきり上半身を出した、そのとき。


 がさり、と茂みが大きく鳴った。


 風の音じゃないと理解し、ヴィクリアはそちらを振り返る。


「あ」


 ――人がいた。


 艶やかな、少し長め、肩までの金髪を持った男だ。緑がかった青の双眸は少し大きめで、その二つは今、大きく見開かれている。形のよい唇もどこか間抜けに開いていた。


 ヴィクリアは首を傾げ、土を踏んで立つ。柔らかい泥が足の指を通り、背筋が震えた。


「誰ですか?」

「見てないっ」


 言葉同士がぶつかる。かと思えば、男が慌てるように背中を向け、首を横に振っていた。


「こ、これは不可抗力で。その、いや、決して覗きをしたわけではなく」

「はあ」


 覗きたいほどに、何か物珍しいもの、男が欲しいものでもこの湖にはあるのだろうか。ヴィクリアは疑問に思い、周囲を見渡す。今のところ何もない。


 それより彼女が気になったのは、彼の服装だ。義母の本に載っていた軍服、というものだと記憶は語る。ヴィクリアの住むここ、スヴェノータ国にももちろん軍隊があることは知っていたが、彼は軍人なのだろうか。


「何か、この森にご用ですか?」

「そ、そう、用事があって」


 男が振り向き、赤面したのち元の格好をとる。


「どうしましたか」

「……ふ、服を、着てくれないだろうか」

「あ、そうでした。ごめんなさい」


 確か義母が、裸体はみだりに人へ見せるものではないと言っていた。そのことを思い出し、ヴィクリアは男をよそに、湖から上がる。


 体の水気を布で拭き、なるべく急いで服を着た。髪から垂れたしずくでブラウスが濡れたが、これは仕方ないとあきらめる。籠を持ち、男の方へと顔をやると、彼が丸まるように木の幹へ額をくっつけているのが見えた。


「終わりました。服、着ました」

「す、すまないね。せっかく水浴びしていたところなのに」


 男が怖々と、という様子で、ゆっくりとこちらを向いた。よく見ると彼の身長は高く、がっしりとした体つきを持っている。立派だ。


「何か用事がありますか?」

「ええと……この森に、シーテという魔女が住んでいるのを知っているだろうか」


 男は律儀なのか、ヴィクリアに近づいてから困ったように頬を掻いた。


「入口近くの木こりたちに話は聞いたんだが、どうにも迷ってしまってね。気づけばこんな奥まで来てしまったというわけなんだ」

「シーテさん、ですか」

「あ、知っているかな?」

「シーテは私の義母ははです。私はヴィクリア。あなたは誰でしょう」


 ヴィクリアの言葉に、男はきょを突かれたと言わんがばかりに目をまたたかせ、それから笑う。優しくも自負に溢れた、明るい笑みを。


「わたしはオルニーイ。シーテどのに用があり、ここに来た」


 その笑顔と明るさに、ではなく、聞いたことのある名にヴィクリアは声を上げる。


「悪竜ユラン退治の英雄さん」

「人はそう呼んでくれるね」


 彼――オルニーイはうなずく。これ以上なく明るい笑みを浮かべたままで。

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