紫の静
如月トニー
第1話
紫の
お父さんお母さん、どうか許してください、貴子が間違っていました。
お父さんとお母さんの反対を押し切り、半ば駆け落ちするような形であの人と結婚した事を、今ではとても後悔しています。やはりあの人とは結婚するべきではありませんでした。
康行と二人、危うく住む場所を失う寸前にまで追い詰められてしまいました。いいえ、決してあの人と離婚した事だけが、今回の騒動の全てではありません。けれども本当に、本当に、不運な事が立て続けに起きてしまったのです。なぜこのような境遇になったのか、それを知って頂きたくて、今回こうして筆を取りました。何度も何度も書き直し、これなら自分の気持ちを正しく理解してもらえる、と思える物がようやく書き上がりました。そしてそれをさらに今、こうして清書している次第です。
「なんと滑稽な、だから彼とは結婚するなとあれほど言ったんだ」と思われる事でしょう。笑ってくれても構いません。けれどどうかお願いです、どうか、どうか最後までこの手紙だけはキチンと読んでください。
あの人は最初、「結婚してくれたらパチンコも酒も煙草も止める。だから一緒になってくれ」、確かにそう約束してくれたのです。そしてその言葉を信じてお父さんお母さんの反対を押し切り、結婚しました。しかしあの人は止めてはくれませんでした。やがて康行を授かりました。やはりあの人は、「これを機にパチンコも酒も煙草も止める」と宣言しました。しかし私の妊娠を機に、ついには女遊びまで始めてしまい、ついぞ康行を出産しても、それらを止めてはくれませんでした。仕事も長続きせず、生活は困窮する一方、しかもあの人はサラ金でお金を借りるようにまでなってしまい、やがて督促状が来るようになりました。挙げ句私の免許証を勝手に持ち出し、私名義でお金を借りるようにまでなってしまい、生活はいよいよ苦しくなる一方でした。
そんなある日の事でした。苦し紛れに買った宝くじが当たったのです。三百万円でした。そのお金を受け取るため、事前に電話で高額当選したという旨を連絡してから銀行の窓口へ向かいました。すると店長が直々にお出迎して下さり、私は銀行の裏にある応接室へと案内されました。フカフカのソファーに座らされると店長から、高額当選した者にだけ与えられるという、「その日のために」という本を渡されました。
「まとまったお金がいきなり入ってきて舞い上がる気持ちは分かります。しかし使い道を間違えると後で返って苦しい生活をする事にもなりかねません。だからどうかこのお金の使い道は、冷静になって考えてください。それともし私なんかでよろしければこの後のプランを聞かせてください」
そう言われ、私は店長に自分の身の上を全て打ち明けました。そして、
「百十万円以内なら贈与税が発生しないという話を聞いた事があるのですがそれは本当なのでしょうか?」
と店長さんに尋ねました。「本当ですよ?」、と店長さんは答えてくれました。
「それならこれをいい機会だと思って、もうあの旦那とは縁を切ろうかと思います。旦那に私名義で作られてしまった百万円を返済し、もう百万円は新しい街への引っ越し資金、そして残りの百万円は旦那への手切れ金にしようと思います」
「新天地で再出発されるのですね。祝福します。お幸せに」
店長はそう言って慇懃にお辞儀して下さいました。
私は引っ越しの計画と実行を、あの人に勘付かれないよう、慎重に、そして秘密裏に行いました。朝、康行を保育園に預けた後、仕事へ出かけるフリをしてよその街へ行き、まずは新しい仕事を探しました。事務員の仕事を見つけた後、今度は近くの不動産をあたりました。保証会社が連帯保証人になってくれる安いアパートを見つけ、新生活に必要な家具や家電を買い揃え、そしてその新しい街の保育園も見つけました。それらの準備をするのに、宝くじの百万円は全てなくなってしまいました。しかし後悔の気持ちは微塵もありませんでした。最後の日、離婚届けに私の名前を書き、結婚指輪と書き置きの手紙と例の百万円を置いて康行と共にあの人の元から去りました。「これで再出発ができる」、と希望に胸を膨らませて…。
しかし、どうやら私は、高額当選した事で運を使い果たしてしまった様でした。引っ越した先で更なる不幸に見舞われる事となったのです。
それは新しいアパートでの生活が始まった、まさにその初日の事でした。引っ越しの後の雑用を済ますためにドアを開けると、目の前にヨボヨボのおじいさんが立っていました。
「やあ、僕はそのすぐ向かいの家に住んでる小山内と申します。近所に新しく引っ越してきたようなのであいさつに参りました」
「はぁ…」
「生活の足は? 車ですか?」
「いえ、免許はあるのですが車を所有する余裕はないので…」
「自転車だけですか?」
「はい」
そう答えるとおじいさんは、「近所のどこそこの道路は車の往来が激しいから自転車での通行は避けた方がいい」とか、「あの家には大きな犬がいて近くを通ると吠え立てられるから気をつけた方がいい」とか、近所の事をあれこれ事細かく喋りはじめたのです。他にも、ゴミの捨て方で注意を受けたり、聞いてもいないのにあそこスーパーは高い、こっちのスーパーの方が良い、とか、それはそれは詳細に、あれやこれやと一方的に話し続けるのでした。
「あの、すみません…」
申し訳ないとは思いつつも、私はつい口を挟んでしまいました。
「…私はまだ引っ越しの後の片付けが済んでいません。色々と教えて頂けるのは有り難いのですが…」
「…ああそうかそうか、それは済まない…」
今度はおじいさんに口を挟まれてしまいました。
「…ならいつだったら話ができるのですかな?」
「はあ?」
ほんの少し首を傾げてしまいました。確かに新しい街の事を教えて頂ける事、それ自体は非常に有り難いのですが、わざわざこちらのスケジュールを確かめてまでして話に来るような事ではないと思ったからです。
「いえ、親切にして頂いておきながら失礼かも知れませんが、何もそこまで事細かく教えて頂かなくとも…」
「…そういうわけにはいきません。キチンとルールは守って頂かないと…」
と言っておじいさんは、更に何かを話そうとするのでした。私はその話を
「また時間がある時にお願いします」
と言って一方的にドアを閉じました。
冷静になって考えてみると、おじいさんがあれこれ教えてくれた事のほとんどすべては、近所の方々と平穏に暮らすための言わば「常識」であって、いちいち教わらなくともすでに承知している事ばかりでした。なぜあの様な事をわざわざ話しに来るのだろう、「今時間がないのなら後日話しましょう」という理由でスケジュールを尋ねてくるもいうのもなんだかおかしな話よね、などと様々な思いが胸の奥に去来してきました。けれども私はスケジュールが押していた事もあり、「まあ、いいか、気にせず新しい生活の準備を進めよう」と、康行をあやしながらせっせと作業を続けたのでした。
次の日私は康行を保育園に連れて行くため、自転車に乗りました。その時の事です。地面を蹴ってサドルに跨りペダルを漕ぎ始めた瞬間、シュールリアリズムの画家、サルバドール・ダリの描く歪んだ時計のように、視界全体が一瞬、クニャリとねじ曲がったかのような感覚を覚えました。いよいよ何やらおかしい、身体全体が熱っぽいなとハッキリと自覚し始めたのは、保育園に着き、康行を預けたその直後の事でした。再び自転車に跨り、数メートルほど進んだところで、「このままでは本当にまずい。こんなフラフラの状態で自転車に乗ったらあっという間に転んでしまう。危険だ」と怖くなってしまい、私は歩いて自転車を押す事にしました。家に着いた瞬間、気の緩みからか、私はついにドアにもたれかかりながら倒れてしまいました。すると背後から聞き覚えのある声がしました。
「大丈夫ですか?」
例のおじいさんでした。
「大丈夫です。構わないでください」
「いや、そんなわけには行きません。仕事があるなら今日は休むと電話しなさい。私が車で病院へ送ってあげますから」
おじいさんはそう言うのでした。初対面ではないとはいえ、ほとんど接点のない男性の車に乗るのは正直嫌でした。しかしその時いよいよ具合が悪くなってしまっていた私は、止むを得ず、おじいさんの申し出に甘える事にしたのでした。
それが悪夢の始まりだったとも知らずに…。
おじいさんが運転するセダンの後部座席に横になり、病院まで身を委ねました。その間もおじいさんは近所の生活上のルールやらなんやらを事細かく話し続けていました。しかし熱のある私の頭にはほとんど入ってきませんでした。そうとも知らずにおじいさんは、尋常ではないほどの熱量でひたすら話し続けたのでした。いったい何度、「お願いします、今だけは静かにしてください」と強く申し出ようとした事でしょう。具合が悪くてそれどころではないのは見れば分かるはずなのに、一方的に話し続けるというデリカシーのなさに正直かなりイライラしていたのですが、車に乗せてもらっている身分ゆえ、あまり強く出る事もできず、私はただただ耐え続けました。
やがて病院に着きました。保険証を見せて受付を済ませた後、おじいさんの隣に、ただし少しだけ距離を置いて腰を降ろしました。するとおじいさんは再びあれやこれやと話し始めました。車の後部座席にいる時とは違い、すぐ隣にいるおじいさんの声が嫌でも耳に入ってきて、ただでさえ熱でクラクラしている私の神経に障ってたいへん不愉快でした。申し訳ない、とは思いつつも、
「あの、小山内さん、申し訳ないのですけど、熱で辛いんです。今だけは静かにしてくれませんか?」
と率直に申し出ました。するとおじいさんは、
「ああそうか、済まない済まない」
と言って口を閉じました。ところがものの数秒ほどすると再び何やらうるさく話しかけてきたのです。
「ですから、今だけは静かにしてください」
再びそう申し出ると、「ああそうか、済まない済まない」、さっきと同じ事を言って口を閉じました。ところがやはり、ものの数秒ほどすると再び口を開いてペラペラ喋り出したのです。私はもう一度、今度は強い口調で言いました。
「あのぉ、小山内さん、わざわざ病院まで送って下さった事には本当に感謝しています。しかしそれとこれは別です。どうかお願いします。さっきも言ったとおり、今だけは静かにしてください」
しかし結果は同じでした。「ああそうか、済まない済まない」、と言って口を閉じた後、ものの数秒後、再びペラペラとお喋りをし始めたのです。言っても埒が開かないと悟った私は、たまたま目の前を通りかかった看護婦さんを呼びとめ、今までの経緯をかいつまんで説明しました。むろん、そのおじいさんに、看護婦さんの口から、「今だけは静かにしてあげてください」と言ってもらう事が目的だったからに他ありません。ところがそのおじいさんは、なんとその看護婦さんへの説明が自分に対する遠ましな批判だとは夢にも思っていないらしく、まるで遠くにある物を見る時のような目をして平然と澄ましているのです。なぜこうも平然としていられるのだろう? その事が、私にはもう、不思議で不思議で仕方がありませんでした、が、ともあれ当初の予定どおり思っていた事を最後まで口にしました。するとその看護婦さんは、少々怪訝そうな顔をしながらも、とにかく私の申し出どおりおじいさんに進言してくれたのでした。
「…だ、そうですよ? だからおじいさん、今だけは静かにしてあげてください」
ところがそのおじいさんは、「ああそうかね、済まん済まん」と言ったものの、それから数秒すると再び自分の言いたい事をペチャクチャお喋りし始めたのです。ファイルを胸に抱いたまま、しばらく私たちの様子を伺っていた看護婦さんは(なぜ自分が呼びとめられたのか、きっと不思議で仕方がなかったのでしょう)、再びペラペラ喋り出したおじいさんを見てようやく合点がいったようでした。
「いいですか? おじいさん」、と言いながら彼の目の前にしゃがんでこんこんと諭すような口調で話し始めました。
「彼女は今、体具合が非常に悪いんです。デリカシーという言葉を知ってますよね? どうか今だけは静かにしてあげてください」
おじいさんは再び沈黙しました。ところがものの数秒すると再びペチャクチャ喋り始めたのです。もうどうにでもなれ、と、諦めかけたその時、ようやく私の名がコールされました。これでこのストレスフルなお喋りから開放される、と、安堵のため息をつきながら診察室へ向かおうとすると、なんとそのおじいさんが一緒に着いてきたのです。
「あの、なんで着いてくるんですか?」
「なんの病気なのか、医者の口から聞く権利が僕にもあります」
「はあ?」
どうしてそこまで干渉してくるのだろう?
この人には、常識やプライバシーといったものが完全に欠如しているのではないのだろうか?
様々な思いが胸に去来しては消えてゆきました。しかしやはり、熱で頭がクラクラしている私には上手く反論ができません。それでもどうにかして言葉を絞り出し、
「病院まで送って頂いてありがとうございました。でももう大丈夫です。家には自分で帰りますから、どうか小山内さんはここで引き取ってください」
私はそう言いました。
「しかし帰りの車はどうするのですか?」
そこまで言われてハタと気づきました。私には余計なタクシー代なんてないし、まだ住み始めたばかりの街で、どこでどんな乗り物に乗れば帰宅できるのかもよく分からないのです。そうこうするうちに再び名前を呼ばれました。やむを得ず私はおじいさんとともに診察室へ入る事にしました。「病室にさえ入ってしまえば、お医者さんがおじいさんに何か言ってくれるに違いない」、と期待して。そしてその期待どおり、お医者さんはすぐさま、
「失礼ですが、彼は?」
と尋ねてくれしたのでした。
「ただの近所の方です、倒れそうになっていた私の事を車でここまで送ってくれたのです。その事自体はありがたいのですけど、"何の病気なのか自分にも聞く権利がある"といって強引に病室にまで…」
「むう…」
とお医者さんは呟いた後、
「…話は分かりました。しかしさすがにそれはまずいのではないのでしょうか? 今は患者の方と二人だけにしてください」
と申し出てくれたのです。しかしおじいさんは腕を組んでふんぞりかえり、
「いや、僕には彼女の病状を詳しく聞かなければならない義務がある」
と主張し出し、一歩も譲ろうとしないのでした。このままでは埒が開かない、とにかく一刻も早く診察を終えて家に帰り、横になりたい、休みたい、と思った私は、
「分かりました。後で病名は小山内さんにも教えます。とにかく診察中だけでいいから
とおじいさんに強く訴えました。するとそのお医者さんも、
「聴診器を使う必要があります。言っている事の意味、分かりますね? 女性の胸を診なければならないのです。さすがその現場にまで居合わせるなんて話はないでしょう。だからどうか退室して頂きたい」
お医者さんからそう言われ、おじいさんはようやく私を開放してくれました。
病名はインフルエンザでした。医者から薬やらなんやらの説明を受け、診察室を後にしました。するとすぐにおじいさんがうるさく話しかけてきたのです。今までの経緯から、どうせ「静かにして」と言っても無駄だと思った私は、「インフルエンザでした」とだけ答えて後は全ての感覚を遮断し無視を決め込みました。受付で支払いを済ませ、薬を貰い、再びおじいさんの車に乗り込みました。相変わらずおじいさんは、ああだこうだとこっちの気持ちを察しようともせず話しかけてきました。家に着くまでの間、先ほど同様、私はただただ耳と脳を繋ぐ回路を完璧に遮断して「騒音」に耐え続けました。
やがて家に着きました。おじいさんに礼を言い、部屋に入ろうとすると、
「子どもを保育園に迎えに行くのは何時ごろですか?」
と尋ねてきました。
「まさか迎えに来るつもりですか?」
「もちろんです」
「お気持ちはありがたいのですが、もう本当に構わないでください」
「しかし…」
「いえ、もう本当に結構です。少し寝たら自分で迎えに行きます。今日は本当にありがとうございました」
私は半ば強引にドアを閉め(さすがのおじいさんも、室内にまで入って来ようとはしませんでした)、布団に横になりました。
目が覚めると夕方の四時ごろになっていました。薬が効いていたからでしょう、容態はさっきよりずっと良くなっていました。保育園に康行を迎えに行こうと思い、着替えと化粧を簡単に済ませて家を出ました。自転車の鍵を外してまたがろうとすると、おじいさんの車が近寄って来ました。
「さあ、乗りなさい」
来るやいなや、おじいさんはそう言いました。
「はあ?」
「あなたの事が心配で、窓からずっとこのアパートを見てたんです。あなたは女手一つで子どもを育てようとしている、それも知り合いの一人すらいないこの街で。そんなあなたが心配でこうして見守ってあげているんです」
背筋が凍るような思いがしました。「このおじいさんは、自分のしている事をあくまでも『善意』だと思い込んでいるのだ、こっちからすればそんなものはただのありがた迷惑なのに、そんな事は露とも考えてはいないのだ、そうに違いない」、その時ハッキリそう確信したからです。そもそも、この街に「知り合いが一人もいない事」を、このおじいさんに話した覚えはありません(たとえその時の私がインフルエンザの熱で浮ついていたとはいえ、それだけは確かでした)。もちろん、確かに、自分の条件や境遇に合う仕事が見つかったこの街に、知り合いがいないという事それ自体は事実でした。しかし、ただでさえこんな自分の言いたい事だけを一方的に話しまくるおじいさんに、こちらの身の上話をするなんてできるはずがないのです、…ましてや話す必要もありません。にも関わらず、どうしてその事を知っているのか大いに疑問でしたが、それより何より、私のアパートを窓からずっと見ていた、という事それ自体がとにかく気味悪くて仕方なかったため、つい怒りに任せ、
「とにかくもう構わないでください!」
と怒鳴ってしまいました。そんな風にしておじいさんを突き放し、康行を迎えに行ったのですが、しかしそれからもおじいさんの「善意」が止む事はありませんでした。朝と夕方、康行の送り迎えの時はもちろん、出勤の時もそう、決まっておじいさんはアパートのドアの前に車を止めて私を待っているのです。どうやら私の行動パターンを観察して時間を覚えてしまったらしく、ある曜日、ある時間、何かの行動を起こそうとすると決まって車を寄越してくるのです。そのたびそのたび、「結構です」と断るのですが、あくまでも「善意」でそうしているおじいさんにはまるで通じないようで、私は次第に疲弊してしまいました。
決定的な出来事が起きたのは、インフルエンザの件からちょうど一週間後の事でした。その日の仕事を終えた後、康行を迎えに保育園へ行くと、急な雨が降り始めました。私は普段から持ち歩いていた雨がっぱを康行に被せてやった後、保母さんから貸してもらった傘をさして自転車にまたがりました。
アパートに着くと、なぜかベランダに干していたはずの洗濯物がありませんでした。何やら嫌な予感を感じながらドアの鍵を開けると、後ろから見覚えのあるおじいさんの車がやってきたのです。
「やあ、急に雨が降ってきたから濡れちゃいけないと思って洗濯物をベランダから取って預かっておいたよ」
車から降りたおじいさんは、後部座席のドアを開けると、そこから私の洗濯物を取り出してニッコリと微笑んだのです。彼が手に持っている洗濯物の中には、当然の事ながら私の下着もあります。私は恥ずかしさと悔しさと、そして何より怒りで顔が真っ赤になるのを感じました。
「もお! いい加減にしてください! 小山内さんは『善意』のつもりなのかも知れませんけど、洗濯物をベランダから勝手に取って預かるだなんてそんな行為は非常識でしかありません! もう本当に構わないでください!」
「しかし洗濯物が濡れてしまっては…」
おじいさんは私が怒っている事すらも分からないらしく、ニコニコ笑いながら何かを言いかけていたのですが、
「勝手に触られるくらいなら、濡れた方がまだマシです!」
私はそう言って洗濯物を引ったくり、ドアを閉じて部屋の中へ入りました。
もう限界だ、そう思った私は、友人の寿美子へ電話をしました。ひととおり話し合えると、
「まずは警察へ相談よね…」
寿美子はそう言いました。
「…しかし洗濯物を勝手に預かるなんてちょっとひどいよね。でも、だからこそよその県なんかに引っ越さずに
よその県には引っ越さずに、地元に帰ってくればいい。…これはあの人と別れようと相談した時に寿美子に言われた事でした。しかし地元だとあの人が追いかけて来て見つかってしまう可能性がある、そう判断した私は、たまたま条件の良い仕事が見つかったこの街を新しい生活の場に選んだのでした。改めてこの事に言及すると寿美子は、
「…とにかく一度警察へ行きな。その間に私も何か他にいい手がないか考えといてあげるから」
と言ってくれたのでした。
助言されたとおり警察へ行きました。市の警察署へ行き、窓口で簡単な説明をすると、「生活安全課」という所へ通されました。そこでひととおりの説明をすると、
「それはまず間違いなく、◯◯町の小山内源次郎さん、ですね」
と警察の方から言われました。
「知ってるんですか?」
「ええ、あの界隈ではけっこう有名なんです、…もちろん悪い意味で。新しい住民が来ると決まって、やれゴミの捨て方だどうだの、通勤・通学にはこの道を使わずにあの道を使うべきだのと事細かく指示したりなんだりで、とにかくやたら構おうとするんです。ええ、"車で送り迎えしてあげる"と言いにくるというのもしょっちゅうだそうですよ。詳しい経緯までは分かりませんが、なんでもそれなりに財産があって悠々自適に暮らしているらしいです。まして老人だから暇を持て余してもいるのでしょう。しかも本人はあくまでも『善意』でやっているものだから相手から"迷惑だ"と言われても一向に意に介さないそうなんですよ。しかし洗濯物を勝手に保管していたという話は初耳ですね。男の僕でもそんな事をされたりしたらかなり不愉快だと思います…」
警察の方は、やれやれと苦笑いしながらネクタイを緩めました。
「…分かりました。彼には我々の方からもう一度言いに行きましょう。恐らくそれでしばらくは大人しくなるでしょう。しかし残念ながら事件性のある出来事ではないので、警察としても忠告する以上の事は現時点ではできません。それだけは留意してください」
この話をもう一度、寿美子に電話しました。するとその間にアレコレ動いていてくれていた彼女は、たいへん興味深い話を聞かせてくれたのでした。
「同じ中学で、ほら、
「ああ、覚えてる。確か片方が黒で、もう片方の眼が紫色をしていた子よね。オッドアイってだけでもじゅうぶん過ぎるほど珍しいのに、しかも紫だなんてホント変わってるってよく影で噂されてたわね。名前は、ええっと、確か増子静香さん、だったっけ?」
「そう、増子静香さん、あの
藁をも掴む思いで、私は寿美子から伝え聞いた電話番号に連絡をしました。3コール目で静香さんは応答してくれました。
「ああ、ええっと、貴子さんって言ったっけ? 初めましてと言えばいいのかしら? それとも久しぶりと言えばいいのかしら? クラスは一緒だったのに思えば話すのはこれが初めてね。話は聞いたよ。色々たいへんだったみたいね…」
彼女はサバサバとした口調で、待ち合わせの場所と時間を簡潔に指定してきました。
「…面倒な話はとにかく、会ってからにしましょう」
私はすぐに康行を連れて待ち合わせの駅へと向かいました。駅の改札を降り立つと、ちょうどそれと同じタイミングで、白と黒のツートンカラーのどことなく古めかしいデザインのスポーツカーが大きな排気音をさせながらやって来ました。
「貴子さんよね?」
運転席には見覚えのある、なおかついかにも元・不良少女といった風貌をした静香さんが座っていました。私を見つめるその瞳は、かつて中学の頃に見たのと同じように片方は黒、そしてもう片方は紫色をしていました。オッドアイだというだけですでにもうじゅうぶん過ぎるほど珍しいのに、おまけに紫というたいへん希少な色をしている彼女からは、何やら得体の知れない気迫のようなものがビリビリと伝わってきました。
「乗って」
静香さんの車の助手席には、見知らぬ女性が乗っていました。「果たして本当に乗っても平気なのだろうか」、少々不安になりましたが、助手席に座る見知らぬ女性は問答無用でいったん助手席から降りると、慣れた手つきでシートを倒し、私と康行を後部座席に招き入れてくれました。ドアを閉じると静香さんは例のサバサバとした口調でこう語り出しました。
「この車、窮屈で辛いかも知れないけどさ、あたいの家までそんな距離ないから勘弁してね。これでもあたいこのクルマ気に入ってるのよ。AE86スプリンタートレノ。通称ハチロク。イニシャルDっていう走り屋のマンガ、名前ぐらいなら知ってるでしょ? そのマンガの主人公の男の子が乗ってるのと同じ車なの。もともと旦那が若い頃乗ってたクルマなんだけど、あたいこのクルマの軽走性が好きで好きでたまらなくて、旦那から譲ってもらったのよ。ま、見てのとおりだいぶ年季が入ってるけど、
そう言い終えるのとほぼ同時に、煙草の臭いに満たされた静香さんの車は大きな排気音とともに発進し出しました。
「あの、何から言っていいのやら…」
私がしどろもどろになりながらそう口火を切りました。すると静香さんは小さな笑い声をあげてからこう言いました。
「気ィ遣わなくていいのよ。女一人子ども一人で大変だったんでしょ? まあ積もる話はあたいの家に着いてからでいいから」
「…ところで乗せてもらっておいてこんな事を言うのはなんですけど、ちょっと変わった乗り心地ですね?」
固いアスファルトの細かな凹凸が、ガタタン、ガタタンとタイヤを通してそのまま伝わってくるかのような感覚がしたので、つい思ったままを口にしてしまいました。
「バカねえ。タメ年なんだから敬語なんて使わなくていいわよ。乗り心地が違うのは
「アシ?」
「そ、アシ。ショックを変えてるの。厳密には
なんだか分かるような分からないような話をしながら、静香さんは煙草に火をつけました。
「あの、失礼ですけど助手席に座ってる人は誰です?」
「だから敬語なんていいって言ってるでしょ? どうも他人行儀で良くないわよね。この人はあたいの旦那の妹。名前は美梨」
美梨と呼ばれたその女性は、後部座席の私に振り向くと無言のままペコリと頭を下げました。静香さんと美梨さんは大変仲がいいようでした。静香さんが何かを話すたび、美梨さんは黙って頷いたり、時に笑ったり相槌を打ったりしていました。そんな二人のやりとりを、私はただただ黙って聞いていました。車内に漂うなんとも形容のし難い空気にほんの少し気圧されながら…。
やがてその硬い乗り心地をした車は、閑静な住宅街に着きました。その中の一軒、二階建てのやや大きな家の駐車場に車を停めると、
「気ぃ遣わなくていいから、入って入って」
と言い、静香さんは私と康行を家に招き入れてくれました。それなりに裕福でないと所有できないであろう瀟洒でしっかりとした邸宅でした。…きっと旦那さんは元暴走族上がりとはいえ現在では真面目に働いていて、それなりの高給取りなのだろうな、羨ましいな。若い頃悪さをしていた男の子って、いざ働き出すとすごいってよく聞くけど、きっと静香さんの旦那さんはまさにそのタイプなのだろうな、と思いながら、静香さんが用意してくれたスリッパを履きました。
リビングのソファーに腰を下ろすと、
「さて、いちおう話は聞いてはいるんだけど、貴子さんの口からもう一度聞かせてもらえる? 伝え聞いた話と本人から聞かされた話では誤謬もあるだろうし、部分的にはすでに聞いてる話と重複した情報もあるだろうけれども、ひととおり最後まで聞かせてもらうから」
高校を中退したにしては、「誤謬」なんていうやや難解な言葉をスラスラ口にする静香さんの事を、失礼ながら私は少々意外だなと思ってしまいました。ともあれ私は一から順々に、…つまりあの人と離婚した経緯から話し始めました。静香さんはただただ黙って最後まで聞いてくれました。時折、確認のために聞き返してくる事はあるものの、静香さんは私が頭の中でイメージしている話の道筋を壊す事なく、それはそれは丁寧に聞いてくれたのです。その意外なほどの聞き上手な姿に、私は今まで抱えていた心の澱がスッキリとキレイに浄化されてゆくのを感じ、ほんの少し涙ぐんでしまいました。ひととおり話し終えると、静香さんは、
「話は分かった…」
と言ってそれまで喫っていた煙草を灰皿に押しつけて消火しました。そしてその灰皿を流しへ持っていき、吸い殻を水で濡らしてからゴミ箱に入れて処分すると、再びソファーに体を沈めました。
「…ところで一つ聞きたいんだけど、アンタって警察の事を、今日の今日まで、何かあったら助けてくれるような存在だとでも思ってたの?」
「えっ? 警察って、そういうものなんじゃないの?」
私は思わず反問してしまいました。
「馬鹿ねえ。警察なんて何もしてくれないわよ。警察が何かをするのは、いつだって事件や事故が起きてから。警察には警察自身が自惚れているほど、犯罪を事前に抑止する力なんてないのよ。そのくせ社会の平和や安全は自分たちがいるから維持されているんだって思い込んでるのが
「そうなんだ…」
静香さんの物言いには、何やら妙な説得力がありました。それゆえ私は、思わずため息をついてしまいました。
「そういやこんな事があったわ…」
静香さんは、おもむろにつまみ上げたティーカップから紅茶を一口音を立てずに
「…あたいね、まだ若い頃、スピード違反していないのに、"17キロオーバーしてます"って警察に言われて捕まえられた事があったのよ。それも、スピードの出やすい、しかも
車の事はよく分かりませんが、とにかくそれ以上安易に加速できないよう注意していたのであろう事だけはなんとなく理解できました。
「…そう言っても警察は、"とにかく速度超過していた事に間違いはありませんでした"って言って結局あたいは切符を切られちゃったのよ。警察から通知が届いたのは、それから半年くらい経ってその出来事を忘れた頃の事よ、"速度計の誤設定でした"ってね。なんでもその誤設定のせいで4000人以上の人が捕まったそうよ。テレビのニュースでもやってたわ…」
そういえばそんなニュースがあったかもしれない…。私の脳裏にふとそんな記憶が蘇りました。
「…実はあたいその時ね、この一件で捕まってなかったらゴールド免許になるはずだったのよ。その事も含めて、"この後どうしたらいいんでしょうか?"って警察に電話で問い合わせたのよ。そしたら警察のやつ澄ました声でこう返答しやがったのよ。"処理に時間がかかるんで、いったんブルーで通してください。後でちゃんと処置します"って。だからあたい思わず言っちゃったわよ。"それだけ?"って。そしたら警察のやつ、とってつけたようにこう言い出したの。"あ、どうもすみませんでした"思わずあたい怒鳴っちゃったわ。"ナメてんじゃねぇぞこの野郎! 罰金の金、ちゃんと返せよな!"って」
リビングの空気が、静香さんの怒気でビリビリと震えるのをその時の私はハッキリと感じ取っていました。
「…その後いったんブルーで通したんだけど、その時の警察の対応がどうしても納得いかなかったんで、あたい県警のトップに苦情の電話してやったのよ。そしたら上から数えて3番目に偉いヤツが出てきて、"本当にすみませんでした"って平謝りするわけ。でもそんなのただのポーズでそうしてるのが見え見えだったし、ムカついてムカついてしょうがなかったから、だからあたいね、"あたいのゴールド免許、そっちからうちに持ってきてもらえる?"って言ってやったの。一週間くらいたった後、約束どおり
そう言いながら静香さんは、その時座っていたソファーの背もたれに両腕を乗せ、脚を組み、実際にふんぞり返って見せました。そんな静香さんの目の前に、こじんまりと正座してる二人の刑事のそれはそれは小さな背中が見えてくるような気がしてきて、思わず私は両手で口を覆って「プククッ」と吹き出してしまいました。
「…ああ、今思い出してもホント、あの時は最高にいい気分だったわ。でもそれだけで話は終わらなかったのよ…」
静香さんは、それはそれは楽しそうにニコニコ笑いながら話を続けるのでした。
「…やってもいないスピード違反をした罪で支払わされた罰金がいつまで経っても返って来なかったんで、あたいそれでもう一度苦情の電話をしたのよ。そしたらヤツらこう言うのよ。なんでも、あたいら無実の罪で捕まった4000人以上の人間が支払った罰金は、国だかなんだかにもう納めちゃってて手元にはないらしくて、今すぐには返せないんだって。ふざけた話よね、あたいらの罰金には支払い期日があるのに、いざそれを返さなきゃならないとなるとすぐには無理だから待てだなんて。んで、ようやく戻って来たかと思ったら、お金が少し足りないのよ。ゴールド免許とブルーの免許じゃ更新の時のお金が違うのは貴子さんも知ってるわよね。警察から、"いったんブルーで通してくれ"って言われて言うとおりにしたのに、ゴールドとブルーの差額分が戻って来てないのよ。なんか警察から誤魔化されてるような気がしてならなくて、更にもう一度苦情の電話をしたの。そしたら警察のヤツ、今度はこんな言い訳をし始めたのよ。"我々警察は限られた財源でやりくりしているんで、すぐに返すなんて事はできないんです"って。だからあたい言い返してやったわ。"限られた財源でやりくりしてるのはこっちだって一緒だ! その限られた財源の中から期日を守って払わなくてもいい罰金を支払ったってのに、金がないから返せないとはどういう事だ! あたいのような善良な市民に借金取りのヤクザみたいな真似をさせんじゃないわよ!"って…」
静香さんのような女性の一体どこが「善良な市民」なのかしら…。…むろん、静香さん自身、その事は分かっていて敢えてそう言っているのは明白だった事も手伝い、私は再びおおいに笑ってしまいました。
「それだけじゃないわ…」
そう付け加えた後、静香さんはさらにもう一つ、警察にまつわる
「…この家を建てる前の事よ。そん時あたい、まだ今の旦那と一緒に狭いアパートに住んでたの。そのアパートは近くに学校があってね、毎朝通勤の時、それはそれは注意深くミラーを確認しながら車を発信させてたの。…通学途中の子どもたちを車ではねたくなかったからなのは言わなくても分かるわよね?」
「もちろんよ」、と相槌を打つと、静香さんは再びこう語り始めたのです。
「ある日そのミラーが何らかの理由で曲がっちゃったのよ。そこはT字路で死角も多くて、ただでさえミラーがないと大変なのに、そのミラーが曲がったせいで見づらくなっちゃって余計に不便で仕方なくなっちゃって、だからあたい近くの交番のお巡りに"ミラーを直して欲しいんですけど"って要求したのよ…」
元・暴走族にしてはずいぶんとまた常識的な事を警察に要求するのね、と思いながらも、私は静香さんの話を黙って聞き続けました。
「…ところがそのミラー、いつまでたっても直る気配すら見せないのよ。一週間くらい待っても何も変わらないんで不便で仕方なくて、だからあたい、交番じゃなくて市の警察署に苦情の電話をしたのよ。そしたらその時対応した警察のヤツ、またしても呆れた言い訳をして来やがったのよ。"その報告なら交番から受けてます。業者にも連絡しました。業者がやるまで待ってください"って。だからあたい思わずこう言って凄んじゃったのよ。"何が業者がやるまで待ってくれだ! あそこは通学路で子どもが通るんだ! あそこの交番のお巡りだってその事を知らないはずがないのに、そこの鏡を放置して業者が来るのを指をくわえて待ってるとは一体どういう事だ! 今の今までお前ら何をやってた!
と言いながら、静香さんは再び煙草に火を点けました。「できれば康行がいるところでプカプカ喫煙して欲しくはないんだけどな」、と思いましたが、
「…まず始めにこれだけは言えるわね。そのアパートはもう引き払うより他ないでしょう。引っ越したばかりでまた引っ越しなんて辛いかも知れないけど、それに関してはもう運が悪かったと諦めるより他ないわね」
「でも、住む場所なんて他にないし、かと言って実家に帰るわけにもいかないし…」
「2、3日くらいなら、あたいの家に泊めてあげても構わないわよ。それから先の事は後で考えましょう。兎にも角にも、まずは逃げる事が先決よ。ともかく、まずはあなたのアパートへ身の回りの最低限の物だけ取りに行きましょう。荘太、康太、ちょっとこっちへ来てくれる?」
ドタドタと大きな足音がしたかと思うと、二人の少年がリビングに姿を現しました。
「あたいの息子たち。見てのとおり双子なの。荘太、康太、この
「ボディガード?」
と私が尋ねると、
「そ…」
静香さんは煙草を灰皿に押しつけ消火しながらこう言いました。
「…見てのとおりまだ中坊だからちょっと頼りなく思うかも知れないけど、こう見えて二人とも柔道やっててそれなりの腕前なのよ。ま、相手がおじいさん一人だけならじゅうぶん抑止力になるでしょう」
「この二人を、あの車に乗せて行くのね? でもそうすると康行を置いて行く事になるわよね?」
「心配しないで。子どもならあたしが預かるから」
それまでほとんど一言も発しなかった美梨さんが、突然口を開きました。何を隠そう、その時康行は美梨さんにたいへん懐いていました。その時リビングには、幼い子どもが喜ぶような物は何一つとしてありませんでした。大人同士の会話に、本来なら退屈していてもおかしくはないはずの康行が大人しくしてくれていたのは、美梨さんがずっとあやし続けてくれていたからなのです。この人になら、預けても平気かしら。そう思った私は、
「康行? お母さんね、今からちょっとだけ出かけたいの。だからこの
康行にそう話しました。子どもなりにただならぬ事態である事を理解してくれているのか、康行は「うん」と素直に返事をしてくれました。
「さ、話は済んだわ。とっとと行きましょう」
静香さんはすぐさま車の鍵を手に取りました。そして私は再び静香さんの車に乗る事となったのです。
「それにしても、なんだか本当に世話になってばかりで申し訳ないわね。何と言ってお礼をすればいいのやら…」
車に乗り込むやいなや、私はすぐにそう言いました。
「あら、礼なんていらないわよ。あたい、気に入らないのよ、警察はもちろんそうなんだけど、そのおじいさんみたいに『善意』のつもりで余計な世話を焼く奴が、腹の底から本っ当〜に、大っ嫌いなの! そういうのに対して、こう、反抗したいだけなのよ。それが暴走族やってた理由の一つでもあるの。アンタへの手助けもその反抗の一環だとしか思ってないから、だからとにかく気にしないで。それに貴子さんには一個借りがあるしね」
「借り?」
まるで心当たりがなかったため、思わず私は首を傾げてしまいました。
「ほら、覚えてない? 高校一年の夏、あたいの事を追いかけようとしていたコンビニの店員を、貴子さん、足をひっかけて転がしてくれたでしょ?」
「そんな事あったっけ?」
「本当に覚えてないの? 高一の夏、御幸町のコンビニでの事よ? あたいあの時家出しててお金がなかったのよ。で、コンビニから牛乳とパンを盗んだの。んで、逃げようとしたら店員が追いかけてきて、その時貴子さんの足に蹴っ躓いて転んだじゃない。あれあたいを逃すためにしてくれたんでしょ?」
言われてみれば確かに、記憶の奥底に、私のせいで転んでしまったコンビニの店員からそれはそれは激しく睨みつけられた時の光景があったのをふと思い出しました。
「ああ、そう言えば後ろから突然激しい足音が聞こえて来て、ふと振り向いた時の弾みで、コンタクトレンズがズレちゃった事があったわね。恐らくそれが静香さんの逃げる時の足音だったんでしょうね。でも私はそれどころじゃなかったのよ。ハードレンズがズレたせいでもう飛び上がるぐらいに目が痛くて、店員さんが転んだのはその弾みだったのよ。ああ、あの時の店員さん、やけに酷く私を睨んでくるから、"ええ? いくらなんでもそこまでしなくたって"って不思議に思ってたんだけど、その謎がようやく解けたわ。私のせいで静香さんを追いかけられなくなっちゃったからなのね」
「ああ、故意じゃなくて偶然だったんだ。まあいいわ。アンタのおかげで命拾いしたのは確かだし。だから、ま、今日の事はその時の恩返しだと思ってくれていいわよ。…ところで話はガラッと変わるけど、アンタ、『想新の会』って知ってるわよね?」
「『想新の会』って、あの、宗教団体の事よね?」
これまた本人も言うとおりずいぶんガラッと話が変わるのね、と思いながら、私は車を運転する静香さんの話に耳を傾けました。
「実はね、あたいの両親が、『想新の会』の熱心な信者なのよ。あたいがグレたのも家出したのも、高校を中退したのだって、実はその『想新の会』に理由があるの…」
ハンドルを握りながら、静香さんは再び煙草に火をつけました。そして美味しそうに煙を喫い込むと、おもむろにこう語り出したのです。
「…あたいの実家はね、あたいが物心ついた頃から、『想新の会』の拠点として信者たちから利用されていたのよ。あたいの家は全部で三階建てだったの。一階と二階は家族の居住スペースで、三階はワンフロワ全部に畳が敷いてあったの。そうね、広さはだいたい三十畳ぐらいはあったかしら。ほとんど毎日のように信者たちが来ては、会合を開いたりナンミョ〜ホ〜レンゲ〜キョ〜って仏壇拝んだりしてたんだわ。ああ、今思い出しても忌々しい。本当に迷惑だった…」
静香さんは紫色をした左眼で遠くの物を見るようにしながら訥々と話を続けるのでした。
「…ある日、あれはあたいが中学一年の時の事だったわ。…あたいの家に活動に来ていたまだ若い男性部のクソボケ野郎にお風呂を覗かれた事があったの」
「ひどい! それじゃあプライバシーもへったくれもないじゃない!」
「ところがそのロリコン野郎は、あくまでもそれを"事故だ"と言い張って決して罪を認めようとはしなかったのよ。更にひどいのは、うちの親、『想新の会』の活動をしようとしないあたいよりも、『想新の会』の熱心な信者だったロリコン野郎の方がよっぽど大事だったみたいで、"事故だ"って言い分を信じてそれからもその男を平気で家に上げ続けたのよ」
「静香さんがグレたくなった気持ち、分かるわ」
「そう言ってくれるだけでも気持ちが楽になるわ、ありがとう。ところで何年か前に、三十代の男性が中学生の女の子に告白して、んで、フラれた腹いせにその子をナイフで刺し殺しちゃったってニュースがあったわよね。あれ、何を隠そう実はその時のお風呂を覗いた男なのよ」
「えっ!? そうだったの!」
「驚いた? でも本当なのよ。だって自分のお風呂を覗いたロリコン野郎の顔と名前を間違えるわけないじゃない。あたいその事件が起きた後、風の噂に聞いたのよ。『想新の会』は、その男とその一家を除名処分にしたらしいよ、…要するに、その事件をなかった事にしようとしたのよ。その事で二、三確かめたい事があって、叶ヶ丘にある『想新の会』の本部に電話をかけたの。"中学生の女の子を刺し殺した男を除名処分した事についてお聞きしたいんですけど、あの事件をなかった事にして『想新の会』ともまるで無関係だったかのようにしようとしているのは明白です。それって卑怯ですよね?"って…」
短くなった煙草を灰皿に押し込んで消火した後、静香さんはその電話の内容について語り始めました。
「…そしたら返事はこうだったわ。
"当会にはそのような質問にお答えする窓口は存在しません"
"それって組織としておかしくありませんか? 例えば車の会社だって顧客からの意見やクレームを反映して、より良い車を作ろうとしているじゃないですか?"
"そのような質問にはお答えできません"
"実はあたいの家、組織の拠点として使われていたんです。んで、あたいまだ中坊だった頃、実はあのロリコン性犯罪野郎にお風呂を覗かれた事があったんです。ところが親に言ったんですけど信じてもらえなかったんです。もしその時親があたいの言い分を信じてくれていたなら、あんな悲惨な事件、未然に防げていたかも知れないと思うんですけど?"
"意見としては聞かせて頂きました。それだけです"
後はもう、例え何をどう質問したとしても、やれ"お答えできません"だの"意見としては聞きました"だのって言うばっかりで、まともに回答なんて一つもなかったわ」
「酷いのね」
思わず深いため息をついてしまいました。
「ところで何であたいがこんな話をしたかと言うと、『想新の会』のやってる事と、その近所のおじいさんのやってる事、本質的に似てるのよ」
「あのおじいさんも、『想新の会』だって言うの?」
「それは分からない。ただ一つ言えるのはね、そのおじいさんも、『想新の会』の連中も、"自分のあらゆる言動は、全て『善意』から生まれているんだ"と思い込んじゃってるのよ。そしてそれが理由でその行為がむしろ逆に相手に迷惑をかけているだけなんだっていう客観的な事実には気づけなくなっちゃってるのよ」
「なるほどねぇ」
「ところで『想新の会』の信者がどうしてあんなに熱心に外部の人を勧誘しようとしているのか、理由は知ってる?」
「詳しくは…」
「『想新の会』ではね、今の自分の境遇は全て、自分の前世の行為に原因があると信じられてるのよ。女の身に産まれたのも、アル中の親の元に産まれたのも、貧乏な家に産まれたのも、全部前世の自分の行為から生まれた業のせいなんだと本気で思いこんでいるのよ。馬鹿バカしいと思わない?」
「馬鹿バカしいにもほどがある! そんなの全部、自分のせいなんかじゃないわよ!」
思わず、私は声を荒げてしまいました。直後、「ああ、この車の中に康行がいなくて良かった。もし康行がいたなら、きっと
「貴子さんがそう思うのは当然よ…」
と言いながら大きく強く、そして深く頷くと、再び話し続けました。
「…でも、『想新の会』の連中はそうは思っていないのよ。むしろ逆に、その不幸になってしまう業を転換するためには、『想新の会』の言うとおりの信仰をするしかないと本気で信じ込んでいるのよ。しかも連中はね、信じようと信じまいと、全ての人間にその業があって、外部の人間を勧誘する事が業を転換する最高の方法だって思い込んでもいるの。…それが外部の人間を強引に勧誘する理由なのよ」
「で、入会するにあたってお金を請求するわけね?」
「察しがいいわね、まさにそのとおりよ」
「まるでネズミ講みたいね」
思わず私は深いため息をついてしまいました。
「それだけじゃないわ、だって入会してからもいっぱいお金を請求されるんだから」
「もちろんその、業とやらを転換するために、よね?」
「もちろんよ。しかも会の信者たちは、全ての人間に業があると本気で思い込んでいるが故に、『善意』で外部の人たちを勧誘しちゃってるのよ。よくできた詐欺だと思わない?」
「『善意』、か。確かにまるであのおじいさんみたいね」
「自分で望んでそうしているのに、『善意』もへったくれもないわよ。子育てだってそうよ。自分で望んで出産して、自分で望んで育てているのに、"産んでやった、育ててやった"なんて恩着せがましいにもほどがあるってもんよ」
「ずいぶんとサバサバしてるのね」
「そりゃあそうよ。だいたいあたい、自分の事をいい母親だなんてこれっぽっちも思ってないもの」
後の席から、双子たちの、「キシシッ」、という笑い声が聞こえてきました。
「そこぉ! 今の笑うところじゃないわよ!」
さすがは元・不良少女なだけあります、双子たちの笑い声は、直ちにピシャリと止みました。
「でもさ、"自分は悪い人間だ、嫌われているんだ"と思っていれば、いざ自分にとってマイナスな情報を突きつけられても冷静でいられるじゃない。反対に、"自分は良い人間だ、好かれているんだ"と思い込んでいると、いざマイナスな情報を見聞きした時、ダメージが大きいでしょ? そのマイナスな情報を、無理やりにでも自分に都合が良いように加工して解釈しないとやってられなくなっちゃう、…ちょうど『想新の会』の連中がそうしてるみたいに。事実、奴らはこう思っているのよ。"世間が自分たちを正しく理解しようとしないのは、自分たちの理念が高邁で正しいからなんだ"って」
「それってある意味においてはものすごい楽観主義よね…」
呆れるやら馬鹿バカしいやら、そしてそういうものの見方をし続ける限り、欠点に気づかなくて済むという点においては羨ましいやらで、思わず私はため息をついてしまいました。
「…それにしても静香さん、なんだか今回は、世話になりっぱなしで本当に申し訳ないわね。落ち着いたらきちんとお礼はさせてもらうからね」
「だから、礼なんていいわよ。偶然だろうと故意だろうと、コンビニで逃してもらった恩がある、その事自体は事実だし、今度はあたいが逃してあげる番、あたいはそう考えているの。子育てにしても、今回の事にしてもそう、あたいがアンタを助けるのは、あくまでも自分がそうしたいと思ったからそうしているだけなの。だからとにかく、礼なんていいのよ」
「でも、それじゃあ私の気持ちが収まらない」
「もし、どうしても礼がしたいって言うのならこんなのはどうかしら。貴子さん、確か中学の頃、よく読書感想文を先生に誉められていたわよね。教壇に立って感想文を読んでるアンタの事、あたい、正直に言うとちょっぴり羨ましかったのよ。こう見えてあたい、本を読むのだけは好きでね、…あら、意外だった?」
「いや、そんな事はないけど…」
「無理して話を合わせなくてもいいわよ、"意外だ"って顔に書いてあるもの。でも、とにかく本を読む事だけは本当に好きだったの。『想新の会』の信者だった母親からこう言われた事もあったわ。"本ばっかり読んでないでもっとテレビを見なさい"って」
「それ、普通は逆じゃない?」
「あたい、母親に口で負けた事は一度もなかったからね…。確かあれは小学校の時の事だったわ。癖っ毛を気にしてたあたいに向かって、"髪の毛に性格が出るとはよく言ったもんだ"って言い出した事があったの。そんな話あるわけがないと思ってあたいこう言い返してやったのよ。"ああ、だからお母さん白髪を染めたりパーマかけたりしてるんだ"って。そしたら母親のヤツ逆ギレしやがって、あたいちゃぶ台クラッシュ喰らっちゃったわよ。…だからまあ、あたいに少しでも馬鹿になって欲しくてそれでテレビを見ろって言ったのよ、きっと」
「子どもに馬鹿になって欲しいって言うのもまた変な話よね。私、その『想新の会』って物がますます分からなくなってきたわ」
「ま、とにかく、だから読書感想文を褒められているアンタの事、正直言って羨ましかったのよ」
私からすれば、グレてロングスカートを引きずり、学校だろうとなんだろうとお構いなしに
「静香さんってどんな本が好きなの?」
「そうね、あたいは小池真理子とか、桐野夏生とか、怖い感じのミステリー小説が好きかな」
「桐野夏生の小説なら『柔らかな頬』って本を読んだ事あるわよ。まるで芥川龍之介の『藪の中』みたいに、誰が真犯人なのか分からないまま終わってるのよね。良くも悪くも後味の悪い終わり方をしてて、ああ、あれ、ホント怖かったなぁ。…私はミステリー作家ではないけど、女流作家でなら三浦しをんの書く本が好き」
「あ、三浦しをんもいいよね。直木賞を受賞した、『まほろ駅前多田便利軒』、あれ面白かった。まあとにかく、もしどうしてもお礼がしたいって言うのなら、今回の騒動が落ち着いてからでいいからさ、あたいを主人公にした小説でも書いてよ。どう? アンタならできるでしょ?」
「そうね、私もまだ小説を書いた事はないんだけど、それでお礼代わりになるって言うのなら頑張って書いてみるよ」
「よし、交渉成立。それじゃあとっとと用事を片付けちゃいましょう…」
静香さんの車が、目的地である私のアパートに到着したのは、ちょうどこの「小説」の話がまとまったその時の事でした。それまで私たちは、小説の事ですっかり意気投合しあってあまりにも和やかに談話をし続けていたため、ここが例のおじいさんのテリトリーだという事を全く忘れていたのです。…換言するなら、私たちは完全に油断していて、周囲への警戒を怠っていたのでした。
「…あたい、
私はドアを開けながら、
「分かった」
と答えました。そしてペタンペタンに車高を落とした静香さんの愛車から降りようと中腰になった、それはまさにその瞬間の出来事でした。まるで私たちが来る事を事前に察知していたかのようなタイミングで、見覚えのある車が背後から静香さんの車のすぐ右側に近寄ってきたのです。運転手は言うまでもありません、例のおじいさんでした。おじいさんは助手席側の窓を開けるやいなや、煙草を
「ダメじゃない! どんな用事で警察に行ったのかは知らないけど、何かあるならまずは初めに近所の僕に相談してくれなくちゃ!」
車から…それもよりにもよってものすごく車高の低い静香さんの車から…降りかける時の窮屈な姿勢のまま、一瞬私は完全に固まってしまいました。おじいさんが、「どんな用事で警察へ行ったのかは知らないけれども、警察へ行ったという事だけは知っていた」という驚愕の事実に、恐怖を感じたからである事は言うまでもありません。静香さんは、まさに蛇に睨まれた蛙のように中腰のまま凍りついて動けなくなってしまった私の手首を強く握るとすぐさま車のシートに引き戻してくれました。
「貴子さん! ドアを閉めて!」
言われるままにドアを閉めると、静香さんの車のタイヤはギュルルッという激しいスキール音をさせながら直ちに急発進し始めました。
「今さっき、確かあの人、"どんな用で警察に行ったのかは知らないけど"って言ってたわよね?」
静香さんは、火をつけたばかりのまだ長い煙草を灰皿に押しつけて消火しながらそう言いました。
「て、いう事は、貴子さんが警察へ行ったのは、自分の言動に問題があるからだとは夢にも思っていない、という事になるわよね?」
「そういう事になるわね。それにしても私たちがここに来るまでの間、警察は一体何をしていたのかしら?」
「分かりきった事をボヤくんじゃないわよ! まだ動いてくれてなかったからに決まってるじゃない! だから言ったのよ、警察なんてそんなもんだって。そもそもそれ以前に、これはもう善意とかお節介とか余計なお世話とかおじいさん一人くらいならじゅうぶんな抑止力になるとかならないとか、もうそんな次元の問題じゃないわ、言って分かるような相手ではない事はこれでもうじゅうぶん分かった、それになんといっても年寄りとはいえ相手は男だからね、今だけはもう逃げるが勝ちよ! 貴子さんシートベルトしてるわよね? 荘太、康太、後ろの二人もベルトして!」
「ああ! 後ろを見て! あの人車で私たちの事を追いかけて来てる!」
「言われなくたってミラーぐらい見てるわよ! だからシートベルトをしてって言ったのよ。でも大丈夫よ、あんなオッサン車、この子の敵じゃないから」
静香さんはそう言いながら、ホーンボタンの所に「momo」と書いてある黒いパンチグレザーの巻かれたステアリングを手で叩き、ポンッと音を立てて見せました。
「そりゃあ車の性能はそうかも知れないけど、相手は年寄りとは言え男よ。本当に大丈夫?」
静香さんは左手の親指をペロリと舐めてからシフトレバーに手をかけました。
「ナメてもらっちゃ困るわ! 元ミッドナイト・レインボーのレディース七代目総長、『紫の
静香さんはそう言いながらコクンと音を鳴らしシフトレバーを操作しました。さすが、言うだけの事はありました。彼女の愛車はみるみる加速し始め、あっという間におじいさんの追跡を振り切ってしまったのでした。一度、信号に捕まってしまった時、数台ほど後ろにおじいさんの車が見えた事はあったものの(それにしても何という執念深さなのでしょう!)、静香さんは二車線の国道に出た後、ものの数分でおじいさんの車をバックミラーから完全に消し去ったのでした。それも何ら危なげのない余裕の安全運転で…。
当初の予定であった、「身の回りの最低限の物だけは取りに行く」、という計画は、変更を余儀なくさせられました。
「とりあえず身の回りの最低限の物だけなんて、そんな悠長な事はもう言ってられないわね。旦那の会社の人たちにお願いして、今夜一撃で全部運んでしまいましょう」
コンビニの駐車場でそう話し合い、私たちは静香さんの旦那さんが働いている運送会社の事務所へと向かう事にしました。
事務所で事情を説明すると、運送会社の皆さま方は快く協力を引き受けてくださりました。仕事が終わった後、会社のトラックを出してもらい、アパートの荷物は全て引き払ってもらいました。さすが運送会社で働いているだけあり、作業はあっという間に終わってしまいました。幸いな事に、作業の間、おじいさんが来る事はありませんでした。私としては気が気で仕方がなかったのですが、
「あたいもきっと、あのおじいさんはこの作業を離れた所で見てると思う。でも、現役世代の男がこれだけたくさんいるのを見て、きっと怖気づいて来たくても来れないんじゃないのかしら。事実もしここへ来たとしてもおじいさん一人じゃ手も足も出ないし、クソの役にもなりはしないわよ」
静香さんはそう言った後、それはそれは楽しそうに高笑いをするのでした。とにかく作業は手慣れた男の方たちの手により、あっという間に終わったのです。なお、その作業中、大変興味深い話を聞かせてくれた男性従業員の方がいました。
「俺、知ってますよ。このアパートもそのお節介なじいさんの事も…。何を隠そう、実は俺、前にここに住んでた事があるんです。…いや、部屋は別でしたけどね、でも確かにここの二階に住んでた事があって、その頃色々あって本当に大変だったんですよ」
「えっ、そうだったんですか? 良かったらそれ、詳しく聞かせてくれませんか?」
「まあ、今度ゆっくり話しますよ」
その後そのアパートは直ちに引き払いました。まだ住み始めて間もなかった事もあり、数日後、敷金は全額返還して貰う運びとなりました。家電や家具は、運送会社の倉庫の隅の邪魔にならない場所へとしばらく預かってもらう事になりました。保育園と職場は、おじいさんに場所を知られているので変える事にしました。幸い、この運送会社は、長年働いていた事務員の女性の方が定年で退職した直後だったため人手が足りなくて困っていたらしく、私はその後釜として迎え入れてもらえる事になりました。社長さんがとても良い人で、
「静香さんのお友だちなら履歴書なんて後回しでいいよ。今日からさっそくよろしくね」
と言ってくださったのです。
その後静香さんとはすっかり仲良しになってしまいました。アパートを引き払い、住む場所を失くした私と康行を、数日の間静香さんは嫌な顔一つせず、家に泊めてくれたのです。そして、その間にお互いの好きな本を貸したり借りたりしあった私たちは、すっかり意気投合してしまったのです。
そんなある日の事でした。静香さんから、
「あたいね、昔、『ティーンズロード』っていう暴走族の連中が愛読してる雑誌に何度も何度も載った事があるのよ。これでもあたい、現役の頃はこの世界ではかなりの有名人だったのよ。日本中の
と、古い雑誌を見せてもらったのです。そこには確かに、若い頃のまだキレイな静香さんが(今だって静香さんはじゅうぶん過ぎるほどキレイなのですが)、紫色の特攻服に身を包み、鉄パイプを持ってカメラを激しく睨みつけている写真が載っていました。「この雑誌が発売されていた頃、自分は何をしていたのかしら」、と、私は思いを馳せました。むろん普通の女子高生として普通に学校へ通っていたのは言うまでもないのですが、そんな今までまるで接点のない社会で生きていた私と静香さんが、こうして時空を超えて親友になるなんて、一体誰が想像しえたでしょう。人と人の縁の不可思議さに、私は感慨深い思いで胸がいっぱいになるのを感じました。
「…ところで貴子さん、ちょっといい?」
静香さんは紫色の生地で作られた服を私に差し出しながらこう言いました。
「ちょっとこれ、着てみない? コスプレしようよ、コスプレ! あたいが
言われるままに胸にサラシを巻き、静香さんが着ていたという紫色の特攻服を身に着けました。すると静香さんは「ギャーハッハッ!」と大声を上げて笑い出しました。
「似合わない! 超絶似合わない!」
そんな私を見て、双子の荘太君と康太君も声を上げて笑い出しました。
「貴子さん、ちょっとこれ持ってみて」
荘太君からも、道場から持って来たという木刀を手渡されました。
「ますますもって似合わない!」
母子たちは更に大きな声で笑い出しました。その後、写真を撮ってもらったので自分でも見てみたのですが、確かに全く似合っていませんでした。思わず自分でも笑ってしまいました(その写真、この封筒に同封しておきますね)。
「貴子さん、アンタ…」
特攻服を脱いでひと段落すると、静香さんは旦那さんから聞かされたという話を私に聞かせてくれました。
「…会社の男どもからけっこう人気あるらしいよ? "気立てが良くてよく働く。結婚で失敗したような
いつまでも静香さんの家に泊めてもらうわけにもいかないと判断した私は、今後の事を社長に相談しました。すると社長さんは、
「行く場所が見つかるまで、運転手の仮眠室に泊まるといい」
と言って仮眠室を使わせてもらうようになりました。従業員の方たちは皆、私の事はもちろん、康行の事もとてもよく可愛がってくださいました(康行にトラックのオモチャを買って下さった方もいました)。しかし助けてもらっているのにこんな事を言うのは大変失礼なのですが、他の男の方が使っていた布団やベッドで寝るのはやはり落ち着きません。静香さんにその事を打ち明けると、旦那さんは私と共に社長さんに直談判してくださいました。
「貴子さんにアパートを借りるお金を前借りさせてやってください」
社長さんはにっこり微笑んで快諾してくださいました。この手紙も、今、その新しく生活を始めたアパートで書いております。例のおじいさんのような「悪い善意」ではなく、静香さんや運送会社の皆さんのような「良い善意」に支えて頂いたおかげです。
それだけではありません。実は私、前述した昔同じアパートで暮らしていたという若い男性の方から、例のおじいさんの件で話がしたいとお茶に誘われてもいるのです。静香さんからは、
「ああ、例のあの子ね。まだ若いし仕事もまだまだだけど、何があっても会社を休まないってみんなからの信頼は厚いらしいよ。チキンハートで押しには弱いらしいけど、かえってそういうタイプの子の方が支えがいがあっていいんじゃない?」
と、半ば冷やかすような言い方で交際を勧められました。果たして彼とは今後どうなるのでしょう。言うまでもない事ですが、先の事は分かりません。が、「今度こそ幸せになれたらな」、と甘い期待を抱いている自分がいます。
これで清書も終わりました。まず初めに静香さんに読んでもらってから、これをそのままお父さんとお母さんの元へ送ろうかと思っています。例の「あたいを主人公にした小説を書いて欲しい」という約束は、これで果たされたと考えて問題はないでしょう。いよいよ生活が完全に落ち着いたらまた連絡します。親不孝な娘であった事は深く反省しています。だからこそ、その罪滅ぼしの意味で、元気に暮らしている今の自分の姿を見ていただきたいのです。落ち着いたらぜひ一度、この新しいアパートへ遊びにきてください。
紫の静 如月トニー @kisaragi-tony
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