第21話

  21・傷心



 ヒロミが、やれ「スポットの仕事が入った」とか、「漫画喫茶で一晩明かす」とかいう理由で夜にいない事が増え始めたのは、オレが派遣会社からKけちックスの次の職場を紹介されて働き始めてから1ヶ月ほど経ってからだったよ。

 その頃ヒロミの帰宅時間はまちまちになっていた。しかも時間そのものが遅かった。ヒロミが交代勤務をしていた時期もあったし、別に深夜に帰ってくる事自体はあまり気にならなかった。でも一緒に暮らすオレとしては、帰宅時間がまちまちになるというのはちょっとばかし神経に障ったんだよね。一体何度、

「遅くなるならなるで1本連絡をくれないか?」って言っただろう。でもヒロミが連絡をくれる事はなかったんだよ。

「よし、今夜は酒を飲まずに寝よう」と思って、夜の10時過ぎごろ、電気を消して布団に入るとするよな。ところがウトウトし始めた頃に帰って来られるって事が何度も何度もあったんだ。それが理由で目が冴えてしまって眠れなくなるっていうの、大太にも分かるだろう? しかも、一度や二度ならともかく、そんな事を何度もされたら、イラッとするのも分かるだろう?

「またこのパターンかよっ! せっかく酒なしで寝ようとしてたのに、お前の帰宅時間がこうもランダムだと眠れるものも眠れなくなる!」

 何度そう訴えても、ついにヒロミの帰宅時間が統一される事はなかったんだ。Kけちックスの一件でただでさえ傷ついていて、まだ完全に立ち直れずにいたオレにとって、ヒロミのそういう一連の行為はもう本当に腹立たしかったんだ。特にU市の花火大会の時は本当に悲しかったよ。だってそうさ、オレは事前に、何度も何度もこう訴えていたんだぜ。

「何月何日、U市の花火大会がある。前にうちから会場の河川敷まで徒歩で行ったのは覚えてるよな。頼むからその日だけは放し飼いの猫みたいにいなくならないでくれよな」

 ところがヒロミは、「分かった」と言っていたのにも関わらず、ものの見事に音信不通になっちまったんだよ。一人で河川敷へ行っても虚しいだけだと思い、オレはローカルテレビで花火の生中継を見た。もちろん、やや離れた所から本物の花火の爆音が聞こえてくる状態でさ。やっとラインで連絡がついたのは、花火が終わる頃だった。

「ごめん。今満喫」

 オレはすぐさまラインでこう返信した。

「前にヒロミがエンジンオイルを交換する時に、オレが『最適解』って言葉を使ったのを覚えてるか? 花火は年に一度だよな? しかも天気に左右される恐れもあるよな? つまり今年は花火を鑑賞する絶好のチャンスだったってなわけだ、分かるよな? でも満喫はどう? いつだって行けるよね? 果たしてこの場合、どっちに行った方が『最適』だろう?」

 すると再び「ごめん」とラインがきた。

「前にも言ったけど反省するだけならサルにでもできるんだよ。謝罪するならもう二度と、同じ過ちを繰り返さないでくれないか?」

 ところがさ、それからもヒロミの放し飼いの猫のような言動が改められる事はなかったんだ。

 近所のショッピング・モールで、猫カフェ・Fのボランティア会員をやっていた頃の仲良しと偶然すれ違ったのは、そんなある日の事だった。

「お前、例の彼女と別れたの?」

 開口一番、ソイツはいきなりそう言い出したんだ。女社長の元で働いていた従業員が新しく開いた方の猫カフェで、ソイツがヒロミをジロジロ見た後、弾みでグラスを落とした時の事をオレ、唐突に思い出しちまったよ。

「別れてないけど? なんで?」

 ガラスの割れる繊細だけど激しい音が、脳裏で反響したような気分になったのを今でもよく覚えてるよ。

「いや、先週、学生時代の部活の仲間たちと夏恒例の飲み会があって、みんなでビアガーデンに集まって飲んだんだよ。んで、その二次会でキャバクラへ行った時、お前の彼女と良く似た女が働いていたのを見たんだ。でもその女、俺には全く気づいてないみたいでさ、他人のそら似かもしれない、って思ったんだけど、キャバクラで働く女にしちゃずいぶん大人しいし、どうにも気になって、んで、名刺もらったんだ」

 ソイツは財布から名刺を取り出した。そこには、「ブルーヘヴン」という店の名前と、「ミロ」という名前が書いてあったよ。オレはその名刺をソイツから貰い受けて家に帰った。

 その日もヒロミは遅くに帰ってきたよ。んで、オレはそんなヒロミに単刀直入にこう切り込んだんだ。

「ブルーヘヴンって店のミロって女を知ってるか?」ってね。ヒロミの表情かおが一瞬で凍りついたのをオレは見逃さなかったよ。

「えっ? 何の話?」

 悲しいけど、たとえどんなに言い繕っても、ごまかしが効かない時っていうのはあるんだよな。

「何の話か説明したら、その女が自分だって事を認めるのか?」

 オレはそう言い放った後、店の名刺をテーブルの上に置いたんだ。

「付き合い始めて間もない頃、何度か一緒に行った猫カフェがあったよな。あの店でヒロミを見た事のあるヤツが、そのブルーヘヴンって店でお前にとても良く似た女を見たらしい。それで気になってこの名刺をもらったんだと」

「……」

「ソイツとヒロミとオレ、三人で会わないか?」

「……」

「もしその『ミロ』って女が自分じゃない、と言うんであれば、三人で会う事もやぶさかじゃないはずだよね?」

「……」

「なんでそんな所で働いてんだよ? ……いや、別に、怒ってるわけじゃないんだ。ただ本当の事を聞かせて欲しいだけなんだ。だから正直に言ってくれ。でないとオレ、お前の事を一生信用できなくなる」

「酔っぱらいの相手なら、誰かさんのおかげで慣れてるし」

 その明らかに開き直ったかのような言い方に、オレ、思わずカチンときちまったよ。

「なんだよその言い方は!」

「怒ってんじゃん!」

「そんな言われ方をされたら怒りたくもなるよ!」

 しばらくヒロミは押し黙ったままだったよ。でも、やっぱり観念したみたいで、ポツポツと事情を説明し出したんだ。

 ……カードローンの支払いが滞っている事。

 ……ろうあ者のおじさんが糖尿病で急遽入院して足を切断した事。

 ……その入院費や施設に入れるための費用が必要で借金ができた事。

「それならそれで、どうして事前に一言相談してくれなかったの? なんでもいつも後出しジャンケンでものを言うの? 一緒に道路を走ってる車が、曲がった後にウインカーをつけたら困るでしょ? 馬鹿な真似はやめてくれよ!」

 オレ、めちゃくちゃ悲しくなっちまったよ。んで、それが理由で立て続けについものすごく攻撃的な言い方をしてしまったんだ。

「いっつもそうだよね。車の事にしたって、事前に一言相談してくれてればベストな方法を教えてあげられる事だってできたのに、いっつもこっちの忠告を聞かずに一人で判断してかえって損をするような事をして」

「相談したらお金をくれたの?」

「10万あげたじゃん!」

「それで足りると思ってるの? だいたいそれは二ヶ月も前の事じゃん! いっつもお酒飲んでばっかりで、アンタ自分がお金の事で頼ってもらえるような人間だとでも思ってるの?」

「確かにそれはそうも知れない、でも、言ってくれれば生活を改めるとか、何かやりようはあったと思うんだけど?」

 今になって思うと、もしその時点で相談されていたとしても、多分生活を改めたり、酒をやめたりなんて出来なかったんじゃないかと思うんだけど、とにかくその時オレはそう言ったんだよ。でも結局、この喧嘩はエスカレートするばっかりで、何の解決策も見出せないまま流れてしまったんだ。



 本人からはっきりと聞いたわけじゃないからこれはあくまで推測なんだけど、その後ヒロミはどうやら店の寮に入ってしまったみたいで、オレの部屋にはますます寄り付かなくなってしまったんだ。

 そんなある日。三菱のディーラーからヒロミ宛の手紙が来たんだ。赤いEKカスタムに関する内容なのは封を切らなくても分かったし、事実オレは封を切らなかった。まだ当分支払いは続くんだろうって事はあの車を買う時に付き添ってたから想像がついたし、恐らくメンテナンスの時期が来たという通知だろうと想像もついた。とにかくオレは封を切らなかった。その事をラインで報告すると、ヒロミからこんな返事が来たんだ。

「中に何て書いてあるのか教えて」ってね。でもオレはそれを拒否した。

「悪いけど、人の郵便物を勝手に見たくない」

「別に見てくれて構わないから、とにかく教えて」

「ヤダ見ない。オレは人の郵便物やケータイを勝手に見るなんて行為は嫌いだ。前に同棲してたパチンカス女が、何度言ってもオレのケータイや郵便物を勝手に見るようなヤツだったって話は前にもしたろ?」

 ……例のパチンカス女・ミカコは、何かにつけてオレの物をチェックしようとする事を決してやめようとしなかった。何度「やめてくれ」と言っても無駄だった。その時はいつも「分かった、ゴメン」と言うんだけど、しばらくするといつも勝手に見るんだよ。なんだかもう、「オレと喧嘩したくてわざとそうしてるの?」と言いたくなるぐらい、とにかく勝手に見るんだ。ケータイを見られたくなくて、メニュー画面の言語を日本語から英語に切り替えた事もあった。すると数日後にこう言われたんだ。

「なんで英語になってるの?」

「なんで知ってんの?」

 ミカコはオレの質問には答えずに今度はこう言い出したよ。

「あたしもう見ないって約束したじゃん?」

「でも見たんでしょ?」

「見ないという約束を破ると思ったから英語にしたんじゃないの?」

「でも見たんでしょ?」

 話にならねぇと思ったよ。でもオレ、とにかく言いたい事だけはひととおり言わせてもらったよ。

「オレのケータイの言語が何語だろうとオレの勝手じゃん。オレたち日本人にアメリカの大統領は選べない、それと同じでオレのケータイの言語をお前に選ぶ事はできないんだよ」

 ところがしばらくすると、なんかいつの間にか日本語に戻ってたんだよ。ミカコは英語なんてもちろんカラキシだったし、アルファベットの読み書きができるかどうかさえ怪しいぐらいのパーだったから、おそらくマニュアルを見てそうしたんだろう。そうまでしてオレのケータイを覗き見たいという発想がもう全く理解できなかった。ミカコとの関係が長続きしなかったのも当然だよな。

 ……ともあれヒロミは、今すぐDMの内容を知りたくてもうどうしようもなかったみたいで、「とにかくいいから中を見て」とラインを送り続けてきた。でもオレはそれをことごとく拒否し続けた。意地になっていたんだよ。

「オレの断りもなく、なんの相談もなしに部屋を出て行ったお前の事を寛容してやってるんだ。せめて"他人の郵便物を見たくない"という気持ちぐらい、受け入れてくれたっていいだろう?」

「私が見てもいいって言ってんだからいいじゃん。それに私、アンタの郵便物を勝手に見た事なんて一度もないでしょ?」

「いや、あったよ。同じ派遣だった時に、オレ宛の給料明細を自分の物だと勘違いして見た事がね。"金額が明らかに違うからおかしいと思ってもう一度確認したら自分のじゃなかった、ついうっかり間違って見ちゃった、ごめん"って言った事があったじゃん? 忘れた?」

「あったわ」

「まったく頭の悪いヤツが羨ましいわ。とにかく、DMが見たいならうちに戻って来る事だね。テーブルの上のいつもの場所に置いておくよ。ついでにお前の爪の垢を煎じたお茶も煎れといてくれ。オレ、お前みたいに馬鹿になりたんだ。だから頼むよ」

 何日かすると、テーブルの上の郵便物は綺麗になくなっていたよ、……と同時にそれ以来ヒロミの郵便物そのものがパタリと来なくなった。「もしかして住所を変えた?」って質問のラインを送ったけど既読がつくだけで返信は来なかった。もうしばらくすると、部屋から着替えやら化粧品やらお風呂セットやらといった物が綺麗になくなっちまった。それからさらにもうしばらくすると、部屋の鍵と一緒に、手紙が届いたよ。

「あなたの攻撃的な物言いにはもう付き合い切れません。残った荷物は全部処分してください。さようなら」ってね。

 この手紙を読んで、オレ、つくづくこう思ったよ、「もっとヒロミを大事にすべきだった」って。でも、後悔は先には立たないんだよな。

 こんな風にしてオレは、男が女を必要とするほど、女は男を必要としてないんだという生物学的な事実をまざまざと突きつけられてしまったんだよ。

 ……人間ってのはいつもそう、失ってからその大切さに気づくんだよな。



 なあ大太、ツイてない事ってどうしていつも連続するんだろうな。

 実はその頃、オレの腱鞘炎はいよいよ本格的に悪化し始めていたんだ。それまで、右の親指の付け根あたりが痛む事はままあったんだ、でもその時は手の甲の真ん中あたり、つまり中指と薬指の支柱の部分がそれはそれは激しく痛み始めたんだ。違う場所が、しかもここまで痛むのはまったく前例がなかった。それが理由で、オレはKけちックスを解雇クビになった後に働く事になった会社をしばらく休んでたんだ。それがちょうどヒロミとの一連のトラブルと見事に重なっちまってたんだ。で、精神的にも肉体的にも参っちまったオレは、……酒に逃げちまったのさ。それはそれは激しく耽溺してしまったんだ。あの頃の飲み方はもう、本当にハンパじゃなかった。朝起きて、整形外科の予約が入ってないのを確認すると、すぐさまコンビニで酒を買い、そしてそのまま朝から飲む。寝て昼ごろ目が覚めると、また飲む、……そういった事を繰り返すようになっちまったんだ(ちなみにこういうのを「連続飲酒」って言うらしいわ)。皮肉な事に、なんせその頃は解雇予告手当のおかげで金だけはあったからね。

 しばらく連続飲酒を続けるうちに、グラスを持つ手が震え始めたよ。もちろんそれは決して腱鞘炎のせいなんかじゃない、酒のせいだ。グラスを口に運べなくて、口の方をグラスに近づけた事もあった、一滴たりとも酒をこぼしたくなかったからさ。でもそれはテーブルやソファーが汚れるのを嫌ったからじゃない、アルコールを、たとえ一滴たりとも無駄にしたくなかったからだ。「これじゃあ『犬食い』ならぬ『犬飲み』だ」、自分でもそう思ったよ。

 そうこうするうちに、オレは酒に酔わなくなっちまった。オレは元々花粉症だった。初めて発症したのは中坊の頃だったよ。それがこの北関東に来てからいよいよ悪化し始めたんだ。こっちへ来てまだ本当に間もない頃、20回連続でクシャミをした事もあったし、高熱が出た事もあった。医者によると体が花粉症を風邪やインフルエンザと勘違いしてそうなる事がままあるらしい。なんでも「花粉症」という言葉は、この北関東で生まれたんだそうだ。確かにこっちには杉や檜が圧倒的に多いからね。でもこっちでの暮らしを10年も続けているうちに症状がほとんど出なくなっちまったんだ。体に耐性が出来たんだよ。それと同じで酒にも耐性ができちまって、どんなに度数の強い酒を飲んでも酔わなくなってしまったんだ。

 酔わないのに内臓だけはしっかり参ってしまってるみたいで、酒を見るだけで吐き気が催してくるなんて事もあったよ。当然だよな、「毒」を体に入れているんだもん、拒絶反応が起きるなんて当たり前なんだよな。酒っていうのは実は食品じゃなくて「薬品」なんだよ、「薬品」っていうのはすなわち「毒」なんだよ。それだってやっぱり頭では分かってたんだ。酒を飲みながらアルコールの害についてネットサーフィンをした事が何度もあって、飲んでるくせに酒害に対して頭でっかちになってるようなところがあったから、その手の知識だけはそれはそれは相当な量があったんだよ。それでも飲まずにはいられなくなっていて、とにかく度数の高い酒を飲んだ。腹の底からこみ上げてくる吐き気を、酒とともに飲み干すとどうにかまた飲めるようになるって事を初めて経験したのはその時だった。ここまで来るともう本当に異常だよな。しかも、酔わないのに二日酔いにだけはキッチリなっちまうんだ。「これじゃあまるで、"こっちのパンチは一つも当たらないのに、敵のカウンターパンチだけは馬鹿みたいにもらっちまってる"って思ってるボクサーみたいだ」、オレは心からそう思ったよ。

 本当に、惨めだったよ。



 ……このまま行ったら死んじまう、これじゃあハッピーにまで迷惑をかけちまう。そう思ったオレはふと断酒会の事を思い出したんだ。んで、震える手でiPadのキーボードを叩いて検索をかけたよ。するとすぐ断酒会の相談員の電話番号が見つかったんだ。オレはただただ助かりたいという一心で、そこに電話をかけたんだ。

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