第20話

  20・解雇予告手当



 ヒロミがあちこちの会社を辞めたり入社したりしている間も、オレはKケミックスへコツコツ通い続けたよ。

 一人、オレよりも先に入社した他所の派遣社員もいたんだけど、どう贔屓目に見てもオレの方が遥かに優秀だった。オレの方が重要なポジションを任されてもいたし、そもそもヤツにやる気があるようには全く見えなかった。本当ならもうとっくに期間社員になっていてもおかしくはないくらい長く働いているのに、いつまでも派遣のままでいた事がその何よりの証拠だ。雰囲気も暗いし、話し方もボソボソしていたしで、オレはそんなヤツの事を心の中で「ゾンビ」と呼んで蔑んでいた。とてもじゃないけどやる気という名のヒットポイントがあるようには見えなかったからだ。

 反対に、それはオレが派遣から期間社員になるのももう時間の問題だ、……周囲からもそう目されていたある日の事だった。オレの手首に突然激痛が走った。腱鞘炎だった。初めて痛烈な痛みを感じたのはまだ神奈川にいた頃だった。冷蔵庫の工場で働いていた時に発生したんだ。でもその時は通院してキチンと治ったんだよ。ジワリジワリと慢性的な痛みが再発し始めているのを感じ始めたのは数年ほど前からだった。でも騙し騙し通院せずにやってきたのがここへ来て急に爆発しちまった、といった感じだったんだ。

 オレの腱鞘炎が悪化するよりも少し前、新しく入社してきた男がいた。ソイツは不平不満とてもが多くて、まわりのオレらは辟易していた。やれ、「他の人たちのテーブルは木なのに、自分だけ金属だから嫌だ」とか、「自分のエアホースだけ色が違うから嫌だ」とか、それが仕事に何の影響を及ぼすんだよ、と言いたくなるような不平ばかり言うんでみんなから嫌われていたのさ。運の悪い事に、オレの腱鞘炎が急に悪化し出したのは、ソイツが「この作業をすると手のこの辺が痛いから嫌だ」だとかなんだとか言い出したそのちょっと後の事だったんだ、……仕事をしていりゃ誰にだって多少の痛みぐらいはあるのによ。

 オレの班で手首を痛めた人が二人連続で出た、という話は、直ちに大阪にある本社へと伝わった。もっとも、ソイツが「痛い・痛い」と言うのはいつもの事で、その事をオレを含めた現場の連中はみんな大して問題視してはいなかった、……というよりも、みんな嘘だと思っていた。でもその班でエースだったオレが「痛い」と言い出したとなると話はまるで違ってくる。病院で診てもらったまでは良かったんだけど、大阪の本社の連中が、そんなオレの事を過剰に問題視し始めたんだ。なんと、

「腱鞘炎だった事を、今までずっと隠して働いていたのか?」

 といった風にまで解釈し出したんだ。隠すもへったくれもない。ただ言う必要を感じなかったから言わなかっただけなのに、その大阪の本社の連中はとにかく過剰なぐらいに問題視しやがったんだ。

「じゃあ聞きますけど、コンタクトレンズをしていたら、目が悪いのを隠していたって事になるんですか? 湿布を貼って出勤したら、腰痛を隠していたって事になるんですか? そういう大阪の人たちの体には、悪いところって一つもないんですか?」

 オレは自分が働いている工場のお偉いさんに、「大阪の人たちにそう伝えて欲しい」と要求した。普段からオレの働きぶりを見てくれていたその工場のお偉いさんはオレに対し同情的だったし、「確かに大阪にはそう伝えました」と話してくれてもいた。でもこんなオレの事を実際にその目で見た事もない大阪の本社の連中は、そうではなかったんだ。

 病院で痛み止めをもらい、どうにか働けるようになったのにも関わらず、オレは二日間、事務所やその隣の休憩所でただ待機していろと命じられた。オレは会社に本を持って行ってそれを読んで暇を潰した。しかし事態が好転する事はなく、オレは一方的に解雇されてしまった。現場の人たちは皆、「彼がいなくなるのは現場としても困る。だから解雇だけは待って欲しい」と、わざわざ全員で署名まで集めてくれたんだけど、大阪の連中は首を縦には振らなかったらしい。どうにも納得できなかったオレは、すぐに法律を調べた。すると、「解雇予告手当」という制度の存在に辿りついた。

「会社の都合で一方的に解雇する場合、その手当てとして、契約期間満了まで支払うはずだった分の給与を、最大10割支払わなければならない」、ざっくり言うとそういった制度だった。聞いた話によると、「リーマンショックの時のように派遣先の企業が派遣社員を解雇したい放題になるのはまずい」、という事で、それを予防するために生まれた制度だったそうだ。オレが解雇られたのは5月下旬だった。そして契約満期は6月だった。ついで言うと派遣の契約は三ヶ月ごとに更新される。本来なら、オレはその後さらに6月から9月まで更新された後、契約社員になる予定でいたんだ。ともかくその解雇予告手当によって定められた法律によると、派遣先企業は、解雇するなら6月いっぱいまで支払うはずだった給与を支払わなければならないと決められていたのさ。オレは派遣会社経由でそのお金を支払うようKケミックスへ要求した。

 泣き寝入りをする気は一切なかった。

「お前らの会社にだって顧問弁護士ぐらいいるはずだ。もし本当に裁判になったなら一体どっちが不利になるか分かるはず。もしあくまでもそれを支払わなければならないというなら本当に訴えるぞ」

 オレはかなり強気に出た。すると「事態を重く見た」大阪の本社の連中がわざわざその北関東の工場にまでやったきたそうだ、……少なくとも、最初に聞いた話によると、「事態を重く見た」のだそうだ。ところがやってきた大阪の連中は、この話の顛末をまるで知らなかったらしい。聞いた話によると、派遣屋の担当は、この話を1から順々と説明するハメになったのだそうだ。払わなければならない金をいつまで経っても払わない、それどころか、話し合いをしに来たはずの連中が、そもそもこの話をきちんと把握していない。

「これじゃあ遅いどころか周回遅れだ」

 オレは派遣屋の担当にそう愚痴ったよ。それどころか大阪の連中は、なんと、

「それって本当にうちが支払わなくちゃいけないんですか?」とまでほざいたらしい。オレはそれを聞いて、

「Kケミックスと言う名前を改めて、『Kけちックス』と名乗ったらどうだろう」と言っちまったよ。

 いつまで経っても話が進展しない事に、オレは激しいストレスを感じた。

「ごめんなヒロミ、後もう少しでもっといっぱい給料貰えてたのに、お前にももっといい思いをさせてやれたのに、それなのに本当、こんなつまんない事になっちまって、本当にごめんな」

 オレは思わずヒロミの前で男泣きしちまったよ。

 その後「Kけちックス」は、最終的には解雇予告手当を支払う事に同意し、派遣会社がきちんと法に則って作成した書類にも判を捺した。派遣屋の担当は、それを受けてこう言い出した。

「おそらく、あなたを契約社員にはしたくなかったんでしょう」ってね。

「ああ、オレが契約社員になったら人件費が高くなりますもんね」

「そういう事です。で、ちょうどそういうタイミングの時に腱鞘炎の話が出たから、チャンスだと思ったのでしょう。まさかこんなに話が大きくなるとは思ってもいなかったんでしょう。このまま契約社員にしていた方が長い目で見たら得なのに……」

 そんなこんなで、オレは「Kけちックス」を退社したんだ。最後、その会社に残っていた私物を取りに行った日、工場長から、

「こんな事になってしまって本当に申し訳ない。私としても君にはぜひこれからも働いて欲しかった」、って言われたよ。

 ただ、この事には悪い面ばかりじゃなく、良い面があったのも事実だったんだ。幸いオレには、6月から新しく働く場所が、同じ派遣屋から紹介されたんだ。6月分の解雇予告手当と、新しく働く会社からもらえる6月分の給与、……つまり、オレは7月にいつものほぼ倍近い給料を貰う事になったんだ。オレはその金で、すっかりヘタってしまっていたベッドを買い換えたよ。それからさらに、そのお金でヒロミと温泉旅館へも行った。と同時にヒロミに10万円の小遣いをくれてもやった。というのも、実はその頃、ヒロミがいよいよ金に困り始めているのをオレははっきりと感じていたからだった。ヒロミは相変わらず、あちこちの職場を転々とし続けていて収入が不安定なままだった、また支払いも変わらずカードでやっていた。そんなヒロミが見ていられなったオレは、

「いいんだ。遠慮する事はない。いいからとにかく受け取ってくれたまえ」と、気前よく10万円をくれてやったんだ。最高にいい気分だったよ。



 ……後になって知ったんだけど、その時にはもう手遅れだったみたいなんだ。たった10万じゃもう、どうにもならないくらい、ヒロミは困窮していたんだよ。すぐそばに居たのに、オレ、こんな事にすら気づいてやれてなかったんだよね。

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