第19話

19・耳クソ


 

 大太が「虹の橋のふもと」へ旅立ったあとも、オレはKケミックスで働き続けたよ。

 派遣から期間社員になるという話が現実味を帯び始めたのは、大太が旅立ってから一年ぐらい後の事だった。でも、ヒロミの「飛びぐせ」はなかなか治らなかったんだ。相変わらず、些細な人間関係(少なくともオレにはそうとしか思えなかった)を気にしては辞める、という事を繰り返し続けてたんだ。それだけ何度も仕事を変えていれば、当然財政も苦しくなるよな。……もちろん、オレが酒でヒロミに負担をかけていた事も否定はしないけどね。でもね、その頃ヒロミはまたしても、オレの忠告を聞いてくれていれば抱えなくても済んだはずの余計な問題を抱え込んで、自分で自分の首を絞めてしまってたんだよ。「こればっかりはヒロミが悪いよ」、としか言いようのない問題を、さ。

 今度はその問題について聞いて欲しい。



 ヒロミが三菱のディーラーで、トッポから赤いEKカスタムに乗り換えた話は覚えてるよな。

 実はその一年と少しばかり後の事なんだけど、ヒロミはまだ走行距離が少なく特にこれといった問題もない、まだピンピン走る赤いEKカスタムを、半ば妹に譲渡するような形で降りてしまったんだよ。

 そもそも話の発端は、毎週金曜日、うちのアパートに配布される地域の情報が載ったフリーペーパーのような新聞のチラシをヒロミが見た事にあった。それには毎月約10000円で、車検・税金・オイル交換を始めとするメンテナンス費用込みで新車に乗れると謳っている店のチラシが載っていたんだ。ヒロミはそれを見るなり後先考えずに飛びついてしまったんだよ。

「これでなら車の維持が楽になる」ってね。オレはすぐさま反論したよ。

「よした方がいいよ。このままあの赤いEKに乗った方がトータルで見たら徳だ……」ってね。でもやっぱりヒロミはこっちの忠告に耳を貸してくれなかったんだ、その店の利点を熱弁するばかりでさ。

「……いいかヒロミ、頭の悪いヤツには利点だけを説明すればいいって話があるんだ、……と同時にこの話にはオチがあるんだ、頭のいいヤツには欠点も説明しないと説得できないってオチがね。欠点も考え抜いた上で判断した方がいいよ」オレはさらにこうも付け加えたんだけど、ヒロミはやっぱり耳を貸してはくれなかったんだ。

 運の悪い事にちょうどその頃、ヒロミの妹の車が故障しちまっててさ、その話を持ち出してヒロミはこうも言ったんだ。

「あの赤いEKは妹に譲る。で、私は私でこのお店の車に乗る」って。んで、これに関してはオレにも多少の落ち度があったな、と思ってはいるんだけど、「確かに一つの手段ではあるね……」、と半分だけとはいえこう言って同意しちまったんだ。

「……赤いEKの残りのローンは妹に払ってもらう、で、ヒロミはヒロミでその店の車に乗る」

 するとヒロミはますますもってその店の車に乗る気になってしまったんだよ。

「ああ、いいね、そのプランで行こうっ」ってね。だからオレはすぐさま「待った」をかけたんだ。

「でもその前に、果たして本当にそんなやり方が可能なのかどうか、三菱の営業の人に確かめてから行動した方がいいよ」ってね。事実、本当にそんな事が可能なのかどうかオレには分からなかったんだ。ヒロミにも、オレは常々こう言ってもいたしね。

「オレはいつも、知らない事は知らない、分からない事は分からない、と言っているよね? だって知らない事は知らないんだし、分からない事

は分からないんだ、そんな問題に対して正確に答えられるわけがないでしょ? ソクラテスの無知の知の話は何度も何度もしてるでしょう?」

 ところがやっぱりヒロミは聞いてくれなかったんだ。「ローンの問題は家族なんだから平気だよ」と主張するばかりで、何度「待った」をかけてもダメだったんだ。酒が入っていた事もあって、オレは思わず箸を床にブン投げて怒鳴ちまったよ。

「だから確認してから行動しろって言ってんだろ!」

 でも結局ヒロミは確かめもせずにサイコロを投げちまったんだ。妹は妹で、姉貴ヒロミの足がなくなる事なんかてんでお構いなしに勝手に赤いEKカスタムの名義を変えてしまったしね。仕方なく、オレの方から三菱に連絡を取ったよ。オレたちは結婚なんかしていないのに、営業の人は勝手に夫婦だと追い込んでいたせいで、オレがヒロミの苗字を名乗ったらすぐに話が通った。んで、次のような答えを聞かせてもらう事になった。

「いくら姉と妹の親族同士でも、いったん奥さん名義で組んだローンを妹さんの口座から引き落とすように組み直す事はできません」ってね。オレが恐れていた最悪の事態がものの見事に的中しちまったんだよ。問題はそれだけじゃない、ヒロミは妹に弱みを一つ握られていた。

「お姉ちゃんが彼氏と勝手気ままな同棲生活をしている間にも、あたしとお母さんは実家でろうあ者のおじさんの面倒見ているのよ」、という弱みだ。このカードはめちゃくちゃ強力だった。妹はそのカードをチラつかせ、本来なら支払って然るべき車のお金を姉貴ヒロミに一切支払おうとはしなかったんだよ。この問題に関しても、実はオレ、一番最初の段階ですでに気づいていたんだ。でも何度も言うように、ヒロミは忠告に耳を貸してはくれなかった、と、いうわけだ。で、ヒロミはローンの支払いを二重に抱える事になっちまった、ってわけよ。

「だからあの時言ったのに! オレが想定していた最悪の事態になっちまったじゃねーか!」

 鶏が先だろうと卵が先だろうと、この時のオレが腹を立てたくなったのは当然なんだよな。しかもターボのついてた赤いEKカスタムに比べて、メンテから税金まで全部その店で世話になる事になったダイハツのミライースは、まるで亀のように圧倒的に遅かった。アクセルを、踏んでも踏んでも加速しないわ、離したら離したで直ちにエンブレが効き出すわで、非常に運転し辛かった。おまけにステアリングもなんだか不自然だった。無理やりにでもいいから長所を探せ、と言われたら、「とにかく遅いから、年寄りが運転しても事故が起こる可能性はものすごく低いと思われます」と、嫌味にしか聞こえないであろう台詞を口に出したに違いない。とにかくそれぐらいおにぶちゃんな車だった。

 しばらくすると今度は、シムカードを入れ替えるとスマホの料金が安くなると謳うDMが我が家に届いた。ヒロミはそれをまたしても真に受けて申し込んでしまったんだ。それだってオレは止めたんだぜ? で、結果はどうなったかと言うと、ヒロミが数年間愛用していたスマホはたちまち調子が悪くなり、彼女はそれを新品に買い替える事になったんだ。それさえなければまだまだ使えただろうに。オレは思わず言っちまったよ。

「触らぬ神に祟りなしとはまさにこの事だね」ってね。

 その後もオレたちはさらなるトラブルに見舞われた。コロナだ。これはもう説明不要だろう。オレもヒロミも、互いに二週間以上働けなくなってしまったんだよ。良くも悪くも興味深かったのは、ワクチンだ。オレは生体検査もロクに済ませていない未知のワクチンを体内に入れるなんてまっぴらごめんと思っていて、ワクチンはキッパリ拒否していたんだ。「無料で射てる」という条件をエサにして、国民の体で人体実験をしている、という風さえ考えていたのさ。ところがヒロミはやっぱりこの意見にも耳を貸さず、注射を射っちまったんだよ。もちろん、射つ射たないは本人の自由だ。でも、ヒロミはオレの意見を聞き、メリットとデメリットを天秤にかけて吟味する、という事をせずに安易に注射を決断しちまったんだ。んで、どうなったというと、ヒロミは罹患しないはずのコロナにかかり、かかったとしても軽傷で済むはずのコロナから回復するのに、オレと同じ二週間を必要としたんだよ。しかもヒロミは、ワクチンの服反応で一週間近く会社を休んでもいたし。ああ、一体ワクチンって何だったんだろうね。喉元過ぎればなんとやらで、当時の事なんて世間の人たちはもうみんな忘れているんだろうかね。それとも、「今さらそれを議論したとして、一体何になるんだ」とでも言うのかな? そういう人たちって、きっと悪夢の民主党政権の事なんてもう覚えてないんだろうね。下手すりゃ政治の話が始まったその時点で、あからさまに「ウザい」と言わんばかりの顔をして、右から左にするんだろうね。過去の事だろうとなんだろうと、もう二度と同じ過ちを繰り返さないように、振り返って再検証するのは大切な事だと思うんだけど。

 そんなこんなでオレたちはさらに困窮する事になっちまったんだ。

 ただ、その後のヒロミにはほんの少しだけ進歩の兆しが見えてたのも事実だったんだ。本来ならミライースに乗り換える事になった例の店でエンジンオイルを交換してもらう時期が来ていたのに、ヒロミはそれをほんの少しオーバーしちまってたんだ。ただしそれは走行距離にしてほんの10キロから20キロぐらいで、まだまだ全然許容範囲内での話だった。嫌味で言うわけじゃないんだけど、ヒロミがその時点で気づいた、という事それ自体が、オレからすればもう本当に大進歩だったんだよ。

 オレはヒロミのミライースのボンネットを開いて、エンジンからレベルゲージを引き抜いてオイルの汚れをチェックした。

「まだ大丈夫、だからといっていつまでもこのままでいいとは言わないけど。早く例の店に連絡しな」

 ところがその時店は予約が立て込んでいて、すぐには無理だという話になった。するとヒロミは別の店をネットで調べて問い合わせ、自分で予約を取ったんだ。オレはその店のオイル交換に付き添ったよ。その店はピンキリでオイルを何種類か持っていて、高いやつから安いやつへと順々と説明とし始めた。その説明を、オレは半ば右から左にしながら対応を考えたよ。で、店員の言い分がひととおり終わるのを待った後、

「話は分かりました。ちょっと待ってください」

 掌を広げて言葉だけでなくジェスチャーでも店員に「待った」をかけて、ヒロミを伴ってその場から少し離れたんだ。

「一番安いオイルにしよう……」

 オレはヒロミに結論から切り出した。

「……だって今回のオイル交換はあくまでも緊急避難的なもんなわけじゃん。例の店にはオイル交換の費用も含めて月々支払ってるんだろ。今日入れるこのオイルが古くなったら、またあの店へ行けばいいわけであって、何もわざわざ高いオイルを入れる必要はない……」

 すなわちオレは、いわゆる「最適解」をヒロミに提示したのさ。

「……ただし、次からはこのオイルの交換時期を忘れないように気をつけようね」

 ヒロミはこのプランを聞き入れてくれた。

 店を出る時、ヒロミはオレに鍵を寄越してきたよ。

「うん? オレが運転するの? 別に構わないけど?」

 オレは運転席に座り、エンジンをかけたよ。んで、エンジン音とカーステからの音楽でオレたちの声が外に漏れない状態になってからこう言ったんだ。

「ヒロミ、お前良かったな。もしお前一人だけだったら、きっとボられてたよ。"一番高いオイルにしましょう"ってね。あんな高いオイル、サーキットでスポーツ走行するようなヤツじゃない限り必要ないよ」

「ああ、確かに私一人だけだったらボッタくられてたもかも……」

 ヒロミがそう言うもんだから、余計かも、とは思いつつ、オレはさらに一言こう付け加えちまったよ。

「人の忠告がようやく少しは聞けるようになったみたいだね。オレ、ほんの少しとはいえ嬉しいよ、やっとヒロミの『耳クソ』が取れたんだなって」



 ……ところでじゃあ、「そう言うアンタの耳に『耳クソ』はなかったのかい?」と聞かれたら、まあ、この時点ではもちろんオレの耳にもたっぷりと「耳クソ」はあったんだよね。

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