第18話
18・サヨナラ大ちゃん
まず最初に、オレ、こう言ったよな。
言い訳をする気は一切ない、って。
それとこうも言ったよな。
まだ「虹の橋のふもと」へ逝くような歳じゃなかったお前が逝っちまったのも、ヒロミが部屋を出て行っちまったのも、その責任は全て自分にある、って。それと、そう思えるようになるのには少しばかり時間が必要だったんだ、とも言ったよな。
……気づけばオレは、母親と同じようなひどい酒飲みになっていたんだ。
……気づけばオレは、親父と同じようにヒロミに対してひどい暴言ばかり吐くようになっていたんだ。
……気づけばオレは、パチンカス女・ミカコと同じようなひどいアルカス野郎になっていたんだ。
……気づけばオレは、三国志のゲームオタクと同じように自分の気持ちを押しつけてばかりで他人の状況を慮るという事ができなくなってしまっていたんだ。
……気づけばオレは、S物流の宇宙人・サカタやフジムラと同じように、酒を飲むためにヒロミを利用するという行為になんら罪悪感を感じない最低な人間になっていたんだ。
……気づけばオレは、階下のナマポ野郎と同じように、他人に金をせびる事は恥ずかしい事だという当たり前の事を忘れてしまっていたんだ。
……気づけばオレは、猫カフェ・Fの女社長と同じように、ヒロミや大太にしてやらなければならない事があるのにそれを放棄して自分の事ばかりを優先する最低な人間に成り下がってしまっていたんだ。
全ては酒のせいだ、とは言わない。酒に罪はない、罪は飲んだ
さっきも言ったとおり、酒には飲んだ人の人間性を貶めてしまう悪い力があるんだ。そういった力があるからこそ、そもそも最初から飲むべきではないんだ。にも関わらず飲んだんだから、やっぱり酒に罪はなく、罪は飲んだ自分にあるんだ。
オレはその事を、本当は頭のどこかで分かっていたのに、分かっていないフリをして酒を飲んでたんだ。そしていつしか酒に飲まれ、人格を乏しめられてしまっていたんだ。と同時に、本当はヒロミや大太を苦しめている事にも気づいていたのに、気づいていないふりをしていたんだ。なぜならそれを認めてしまったら酒を飲めなくなると分かっていたから……。これじゃあ大太に早死にされてしまうのも、ヒロミに逃げられてしまうのも当然なんだ。
何度も言うとおり、言い訳をする気は一切ないし、全ての責任は自分にあった事も全面的に認める。その代わり、虫がいいのは分かってる、でも、断酒会の人たちと同じように、オレの懺悔を「批判やお説教は一切ナシ」にしてただ黙って聞いて欲しいんだ。なぜってオレがこれから話す事は全部、あくまでもまだ、「全部自分のせいだったんだ」と認める事ができずにいた、それはそれは愚かな頃の気持ちを再現しているに過ぎないからだ。断酒会風に言うなら、「過去の酒害体験を掘り起こして、自分を率直に語っている」だけなんだ。それしか方法がないんだよ、酒を飲まない人間で居続けるためには……。
……だからお願いだ。どうか「今では全面的に自分の非を認めているんだ」という前提の上でこの話を聞いてくれ。
その頃にはもう、オレの飲酒癖はかなりひどい状態になっていて、自分の小遣いだけでは全然足りないぐらいのひどい酒飲みになってしまっていた。そしてそれが理由で、お金がなくなるといつも決まってヒロミの金やカードをアテにする最低の男に成り下がっちまってた。そしてヒロミはヒロミで、依存症者の依存を悪い意味でサポートしてしまう「イネイブラー」になっちまってもいた。もちろん、「このままではダメだ」、という意識はオレの中に確かにあった、でも飲まずにいられなかったんだ。事実、そうこうすると「断酒スイッチ」が入って数ヶ月はやめられる、という事を何度か繰り返していたしね(ネットで見たんだけどこういう状態の事を「やまびこ断酒」だか「やまびこ飲酒」だとか言うらしい。医学的な裏付けのある言葉なのかどうかは知らないけど、あながち間違った見立てではないと思ってる。それはそうとして……)。でもしばらくすると結局また「飲酒スイッチ」が入って飲み出してしまう、とにかくそういう状態が何度も何度も続いていたんだ。「断酒スイッチ」を入れるのはものすごく大変なのに、「飲酒スイッチ」はものすごく簡単に入ってしまう、その事も経験上分かっているのに、それでもまだなお、酒をやめられなくなってしまっていたんだ。
猫用トイレのおしっこマットがパンパンに膨れ上がるようになったのはちょうどそんな頃の事だった。
その頃、ヒロミは交代勤務の仕事をしていたせいで曜日の感覚がおかしくなってて、燃えるゴミの日がいつなのか分からなくなっていた、……と同時におしっこマットを変えたかのかどうかも分からなくなっていたんだ。何せヒロミはちょっと嫌な事があるとすぐにその会社を辞めて違う職場へ行く、という事をあいも変わらず繰り返し続けていたからね(反対に、オレはその頃、さっきも言ったとおりおかげさまでKケミックスの仕事が安定していた、……日勤オンリーで、土日休みという世間一般の生活と変わらないスケジュールの仕事が、ね。またその事でヒロミに対して少々優越感を感じてもいて、"お前もいい加減一つの所で腰を据えて働けよ"とかなんとか言ったりもしていた)、……それが理由である日ヒロミからこう言われたんだ。
「アンタ、先週の燃えるゴミの日、おしっこマット替えた?」ってね。ヒロミがなんでそんな事を言うのか、オレにはそこそこの心当たりがあったんだ。、ってね。
「いや、替えたよ。確かに替えた。でも最近おしっこマットがやたら膨れてるよな、何か変だな、とは思っていたんだ。いよいよ何かおかしいよな?」
「大ちゃんじゃない?」
「うん、オレもそんな気がする。確かにここ最近、大ちゃんの方がトイレを頻繁に利用しているような気がして仕方なかったんだ」
オレたちはすぐに動物病院へ連絡をしたよ。そんで週末、お前を小動物用のゲージに入れて連れて行ったんだ。給料が入ったばっかりだったから、オレは銀行でお金を降ろしてからヒロミと一緒に病院へ向かったよ。
病院は、大太の去勢手術をしてもらった時とは違う所を選んだ。名前をF動物病院と言う。理由は、向かいの家のクーちゃんを飼っていた家のおばさんが、大太の去勢をしてもらった病院をあまり良く言っていなかったからだった。
「あの病院はすぐに薬・薬でお金を取ろうとするから評判悪いのよ」ってね。事実、ハッピーが前脚をくじいてビッコを引いていた時も、やれステロイド注射やらレントゲン写真やらを何回も何回もやられて不信感を感じた事がオレにもあった。
「えっ? またレントゲン撮るんですか? 前に撮ったのでじゅうぶんじゃありません?」
するとその病院のヤツはこう言い出したんだよ。
「いえ、その後の経過を確認するためにもう一度撮ります」
わけが分からなかったよ。その話をクーちゃんのおばさんにしたら、「そう、あの病院はいつもそうなのよ」って言ってたから、もうそこへ行くのはやめよう、って前々から思っていたんだ。反対に、その時大太を連れて行った病院はクーちゃんのおばさんが絶賛していたんで、それが理由でオレはF動物病院を選んだんだ。
問診票はヒロミに書いてもらった。さっきも言ったように何せヒロミは達筆だったからね。その問診票を見た動物病院の院長をやってるおばさんが、
「これは、『ダイタさん』と読むんですか? 大〜きな猫ちゃんですね〜!」
と感嘆の声を上げたよ。当然だよ、誰がどこからどう見たって、お前はそれはそれは大きい猫だったからな。その流れのまま、院長のおばさんはお前を抱き上げて体重測定をする事ができるテーブルの上に置いたんだ。ヒロミがその時ポツリと呟いた一言がなんだかとても印象的だったな。
「動物病院の中ってこんな感じなんだ。初めて見た」
ヒロミの実家でも猫を飼っていたから、てっきり動物病院に来た事ぐらいはあるだろうと思っていたオレにとって、あの台詞は少々意外だったよ。まあ、ヒロミの実家でも放し飼いが普通だったんだな。ともあれ大太、お前の体重はなんと8キロ以上もあった。そんなにあっただなんてオレも正直意外だったよ。院長のおばさんはそのまま注射針を大太に刺して血液をほんのちょっとだけ抜いた。血液検査の結果はお前も知ってのとおり糖尿病だったな。その後さら体重測定をする台の上でそのまま
「大ちゃん、ちょっと我慢して!」ってね。大太も覚えてるよな。
「ほら、膀胱の中におしっこがこんなにたくさんある」
院長のおばさんははっきりそう言い切っていたけど、素人のオレにはそのモノクロの映像だけじゃ正直全く分からなかった、医者がそう言うんならきっとそうなんだろう、としか思えなかった。
その後オレは病院から猫用の療養食を売ってもらった。5キロで5000円以上する高価な代物だった。なんでも一般には流通していない餌らしくて、病院に来ないと入手はほとんど不可能な品物だったそうだ。帰りの車の中で、オレは思わずボヤいちまったよ。
「オレ、ヒロミに何度も言ったよな。"大太にオヤツをあげないでくれ。普通のカリカリいう餌だけで十分だ。この餌だけで必要にして十分な栄養は取れるように出来てるんだ"って」
「うん、言ってたね」
その時ヒロミは、確かにその事をはっきり認めていたよ。
ヒロミはペットショップへ行くとすぐ、「あ、これ、大太が喜びそう」と言っては、主に魚を元にして作られたオヤツを買ってきては与えてしまう、という事を何度も何度も繰り返していた。事実、大太もそれを喜んで食っていたしな。そりゃあ、確かに、たまにだったならオレもそこまで口を酸っぱくして言ったりはしなかったよ。でもそれがあんまり続くもんだから、いつもの癖でつい強くこう言ってしまうようになっていたんだ。
「だからオヤツを買い与えるなって言ってるだろう!」ってね。でもやっぱり、ヒロミはオレの忠告に耳を貸してくれなかったんだ。
「まだオレが一人で暮らしていた時は、朝起きた時と、仕事から帰ってきた時、その二回だけしか餌を与えていなかったんだ。でもヒロミが来てから餌を与える人間が一人増えちまった。いや、ヒロミが色々と猫たちの面倒を見てくれている事に関しては有り難いと思っているんだ。でも、生き物の体には空腹の時間というものも必要なんだよ。空腹っていう事は、すなわち内臓が仕事をしていない、……つまり休息しているって事でもあるんだよ。その休息の時間がなくなったらどうなる? 考えなくたって分かるだろう? オレたち人間の場合、働いてる時に食べ物を口にする事はできないから、しぜんそれが内臓の休まる時間にもなる。でも餌を与える人間が二人になったら、栄養過多になるわ内臓が休まる時間もなくなるわでロクな事がないんだよ。だからせめて一度にあげる量を減らして欲しいんだ。大太にちょっと鳴かれたくらいですぐに餌を与えないで欲しいんだ。ましてオヤツなんてもっての外だ……」
他にもこう言った事もあった。
「……オレが猫カフェのボランティア会員やってた時なんて、その猫の体重に合わせた量の餌しか与えていなかったよ。中には大太みたいな食いしん坊もいて、他の猫が食べ残した餌を食べようとするヤツもいた。でもその場合は取り上げていたよ。それぐらいシビアに餌の量を管理していたんだ。いや、だからって何もそこまでやれとは言わないよ。でもお前の場合は明らかにあげ過ぎなんだよ」
でもやっぱり、ヒロミはその忠告を聞いてくれなかったんだ。だから逆にオレの方が餌を減らしたりもしていた。でもダメだった。ヒロミはいつも餌を多めにやる事をやめなかったし、恐らくは、オレの目の届かないところでもっといろんなオヤツをあげてもいたんだろう。もしかしたらあの腎臓に重大な被害を及ぼす事で悪名高いチュールだってあげていたのかも知れない、……事実、一度チュールのCMをテレビで観た時、ヒロミがこう言った事があった。
「ねえ、これあげてもいい?」
「ダメッ!」
オレは即座に却下した。でもそれだって分からないよ、24時間ずっと監視していたわけじゃないしね。なんたがまるで「大太が糖尿病になったのはヒロミ一人だけのせいだ」、みたいな言い方になってて本当に申し訳ないんだけど、でもヒロミが大太に餌はもちろんオヤツをあげ過ぎていたのは事実なんだ、だから、悪いけどこれに関してはそのままストレートに言わせてもらいたい。
ともあれオレはその単価の高い療養食をお前に与えた。様子を見る限り、お味の方も悪くはなかったみたい、むしろかなり良かったみたいだったね。
大太、そもそもお前の食い方は、療養食を与えるとか与えないとかいう以前から特徴的だったよな。ハッピーの分と二つ、餌を器に盛ってやると、いつも決まってお前の方が走ってやって来ては我お先にと食いついてきた。んで、しばらくガツガツ食い続けると、決まってハッピーの方の器に興味を示すんだ。どうせハッピーの方にオヤツが入っているとでも思ってたんだろう? 中身は全く同じなのにさ。で、餌を食べてるハッピーを押し除けるようにしてその器の方に鼻先を突っ込むんだ。ハッピーはそれをいつも疎ましそうにしていたけど、空気の読めないお前はまるきりお構いナシだ。ハッピーもハッピーで、自分よりも体が大きなお前には勝てなくて、さっきまで大太が食べていた器の方へ行って食事を続ける、……するとお前はもともと自分に与えられた方の器に戻ってやっぱりハッピーを押し除けるんだ。
……いつもその繰り返しだった。
でも療養食はそうはいかない。こればっかりは大太にしか与えられないんだ。院長のおばさんからも、「違う部屋で与えてください」って言われたけど、違う部屋もへったくれもない、広いとはいえこの部屋はワンルームだからね。仕方なく片方だけ療養食にすると、いつもと同じようにお前はしばらく自分に与えられた療養食の方を食う。でもしばらくするといつもの様にハッピーの方の器に入ってる「普通の餌」に興味を示す。ところがそれよりもつい今さっき自分が食べていた療養食の方が美味しいと分かるとすぐにそっちへ戻ってそればっかり食う。するとつい今さっき療養食を食べていたハッピーが、
「なんかそっちの方が美味しいんだけど?」
と言わんばかりの恨めしそうな顔をする。……というパターンが新たに生まれたんだ。あれには参ったよ。なんだかまるでエコ贔屓をしているような気分になっちまった。
オレは動物病院の女院長にその事を相談したよ。そしたら、「別に健康な猫が食べても直ちに問題はありません」と言われたんだ。「じゃああの"違う部屋で与えてください"という指示は一体なんだったんだよ」と思わずにはいられなかったんだけど、とにかくハッピーにも与えるようにした。するとただでさえ高い療養食は、あっという間に底をついちまった。大太を大事に思っていなかったわけじゃないんだ。でもやっぱり、高い物は高い、だからオレは結局、療養食はやめにして普通の餌を与えるようになっていってしまったんだ。
言いづらいんだけど正直に言う。オレはあの頃、猫の糖尿病を甘く見過ぎていたんだ。言い訳がましいけど糖尿病の猫の飼育なんてまるで経験がなかったし、おしっこマットさえ替えていれば問題ないとすら思っていたんだ。それに、ヨボヨボのおじいさんが生まれたてホヤホヤの赤ちゃん猫をもらって来ると言うのなら話は別だけど、普通はペットの方が先に逝っちまうんだ、残酷かも知れないけど、こればっかりはもうどうしようもない事だし、そういう覚悟がなければペットなんて飼えないんだ。……もちろんこれは理屈としては正しいんだけど、やっぱりオレはそれを心のどこかで、療養食を買い与えない口実にして自分を正当化してしまっていたんだ。
……そして、相変わらず酒を飲み続けてたんだ。
……そんな金があったなら、たとえ何があったしても療養食を買い与えるべきだったのにね。
……そうしていれば、少なくともその後、わずか一年でお前が逝っちまうなんて事はなかっただろうにね。
……許してくれとは言わない、でもこの事に関しては本当に申し訳なかったと心の奥底から本気でそう思っているんだ、だからこそこうして正直に話しているんだ、だからどうかそれだけは信じて欲しいんだ。
おしっこの事は別として、その後のお前の様子はそう極端に変化したようには見えなかった。ところがそれから10ヶ月ほどすると、お前は毎朝やたら大きな声で鳴くようになり始めた。11ヶ月ほどすると、歩く時に腰のあたりをずるっと滑らせるようになった。いよいよおかしくなったのは、最初にF動物病院の女院長に見てもらってからほぼ一年後だった。その時オレは会社で残業をしていた。ふと手が空いたんでスマホを見たら、ヒロミからラインが来ていた。
「大ちゃんの様子が明らかにおかしい。病院へ行った方がいい」ってね。オレは上司に断って仕事からちょっと抜けた後、F動物病院のホームページをスマホでチェックして見た。するとまだ病院はギリギリやっている時間だったんですぐに予約の電話をした。家に着いてお前の様子を見ると、ヒロミの言うとおり明らかに様子がおかしくなっていた。その体は萎れていて、ほとんど動かなくなっていた。まるで枯れた花のようだった。あれだけ食欲旺盛だったのに、餌を目の前にしてもただ興味を示すだけで食べようともしなかったしな。
次の日の朝一番で診察室へ行くと、まず最初に、以前に比べて体重が2キロも落ちていると指摘された。毎日一緒で少しずつ少しずつ減っていたせいかそれまでまったく気づけなかったんだけど、言われてみれば確かに前より小さく見えた。血液検査の結果も芳しくなく、すぐに点滴を打つ事になった。点滴には三種類あるらしく、それぞれの金額を口頭で明示された。恥ずかしい話だが、その時オレはあまり持ち合わせがなかった。その事を察していたヒロミは迷う事なく、
「じゃあ一番高いのをお願いします」と言ってくれた。
自分の口で針を咥えて抜かないように、と、首回りに、エリザベスカラーという名のエリマキトカゲの襟のような物を付けた後、前脚の一部の毛が剃られ、そしてそこに点滴の針が刺しこまれた。その瞬間、大太の体から血が滲み出てくるのを見たよ。てんとう虫のように見えなくもない赤い滴を見た瞬間、それはそれは痛々しい気分になってしまった。その後オレたちはいったん大太を病院に預けて家に帰った。その時点ではまだ、きっとお前は助かるだろうと信じていたよ。ところがダメだった。数時間ほどして病院に戻った時、お前はさっきよりも明らかに衰弱していた。女院長から、
「もう一度点滴をしますか?」って聞かれたけど、その言い方には「義務だから、仕事だから仕方なく聞いてる」というニュアンスがどことなく感じられた。
これはオレの持論なんだが、管や機械につないで無理やり延命する事には意味がないと考えていて、もし自分がそうなったとしても、無理な延命なんかしないで欲しいとさえ思ってもいるんだ。事実、ヒロミにもこう言った事があった。
「もしかしたら将来別れるかもしれない。でも、もし仮に死の間際まで一緒だったとしたなら、今の話を医者にして欲しいんだ。"この人は昔まだ意識がハッキリしていた時、『無駄な延命はしないで欲しい』と確かにそう言っていました"ってね。だから頼む。今の話を忘れないでいてくれないか」ってね。大太、その時のお前が、それとまさに同じ状況だとオレはそう判断したんだ。女院長にキッパリこう言い切ったのも何を隠そうそういう考えがあったからだった。
「いえ、もういいです」ってね。
点滴の針とエリザベスカラーはすぐに外された。そして、オレとヒロミは、大太を連れて家に戻ったんだ。
帰りの道中、ヒロミからはこう言われたよ。
「他の病院に行かない?」ってね。でもオレはそれを断った。
「いや、もうやめよう。これ以上そんな事したって見てるこっちも痛々しいばっかりだし、それに大太もあちこち連れ回されるのはきっと苦痛だと思う」ってね。
家に着いた後、オレがこう言って泣いたのは大太も覚えていてくれてるよな?
「大太、ごめんな、オレ、自分の事ばっかりでお前を助けてやれなかった」って。むろん酒ばっかり飲んで療養食を買ってやらなかった事を心から悔やんでいたからこそそう言ったんだ。どうかそれだけは信じて欲しい。
次の日はちょうど日曜日だった。しだいに衰弱していく大太を見守りながら、ヒロミがこう言ったのも覚えてるかな?
「ねえ、やっぱり他の病院へ行かない?」って。オレはもう一度、
「下手に連れ回すより、このままで居た方が大太のためだと思う」って答えた。オレはきっとF動物病院も賛成してくれるだろうと思っていたから、「試しにF動物病院に聞いてみようか?」とも訴えた。するとヒロミはこう言った。
「じゃあ、外部スピーカーで私にも聞こえるように電話して」ってね。オレは言われたとおり外部スピーカーで話をした。すると女院長は案の定こう言ってくれたんだ。
「下手に連れ回すより家に居た方が静かに逝けると思います。でも、できるだけ暖かくしてやってください」ってね。
オレは大太を猫カフェ・Fの里親会でもらった時の話をしたよ。そうする事で、療養食を買い与えてやらなかった飼い主として失格な自分を少しでも良い人に見せたかったからさ。すると女院長はこう言ってくれたんだ。
「幼い時に母猫から引きはなれさた仔はどうしても弱くなりますからね」ってね。もちろん、オレが飼い主として失格だった事は、きっと女院長だって見抜いていたに違いない、でもその事には敢えて触れずにそう言ってくれているのは明白だと思った。その気遣いについ甘えてしまったオレは、更にさらに自分を正当化するような事を言って女院長にいい印象を与えようとしてしまったんだ。
「もう一匹のハッピーという名前の猫が、療養食の方が美味しいって事に気づいていたんです。それを大太にだけ与えるのはエコ贔屓をしてるみたいで可哀想だって気持ちになってしまって、それが理由で療養食を買い与える事をやめようと思ってしまったんです」ってね。
今だからこそ言えるんだけど、あの時のオレは、本当に、とんでもない偽善者だったんだよな。
最後に女院長は、
「至らぬ事ばかりで申し訳ありませんでした」って言ってくれたよ。だからオレも、
「いいえ、むしろ逆にとても良くしてくれたと思っています。本当にありがとうございました」って答えた。
その後、言われたとおりできるだけ暖かくしてやろうと、オレはタンスの肥やしになってた服をお前に被せてやった。するとヒロミも、「私ももうこの服着てないから」と言ってクローゼットからそれを取り出して被せてくれた。そのさらに後、オレはどうにもやりきれなくない気持ちになってしまって、それから逃げるためにコンビニで酒を買って昼間から飲んじまったよ。本当に最低だよな、飲んだからって悲しみが目減りするわけじゃないし、まして大太が生き返るわけじゃないのにな。
夜中に一度目が覚めた。大太の体に触ると、お前は明らかに、だけどどことなく固くなっていた。ああ、「お星さま」になったんだな、と実感した瞬間だったよ。オレはそんな大太を見つめながらもう一度目を閉じた。明け方になってヒロミが目を覚ました。だからオレはヒロミに報告した。
「大太、天国へ旅立ったよ」ってね。ヒロミは、当然覚悟はしていたんだろうけど、
「えっ?」っと大きな声を出したよ。
オレたちはお前の亡骸を部屋の中に残したまま、裏の空き地に穴を掘った。穴を掘るスコップは、先日すでに事情を説明し終えていた向かいの家のクーちゃんのおばさんに貸してもらっていた。しばらくするとヒロミも、
「私もやりたい」と言い出したんでスコップを渡した。そんなヒロミのやり方を見ているうちに、「ただ掘り返すよりも、スコップの先端をザクザク土に刺して
オレたちはお前の亡骸を土の中に入れた。先々日、病院からもらった試供品の餌と、「友達が居た方がお前も寂しくないだろう」って、大太にそっくりなターチャンのというキャラのぬいぐるみを一緒にしてね。
オレたちはしばらくその場に佇んだ。でも、もうこれ以上は現実逃避をしていられない、そう思ったオレたちは互いの職場に向かうための準備を始めたんだ。
……大太、お前が「虹の橋のふもと」へ逝っちまった後も、お前の事は何度となくヒロミとの間で話題になったよ。ヒロミは何度も、「大ちゃん、可愛かったね」って言ってくれてたしね。一度、オレは思わずヒロミにこう言っちまった事があった。「お前が餌をあげ過ぎたからこうなったんだ」って。そしたらすかさずこう言い返されたよ。「アンタが酒飲んでばっかりで療養食を買わなかったからだ」ってね。全くもってそのとおりだったから、オレ、反論できなかったよ。もし、せめて大太が「虹の橋のふもと」へ逝っちまった時に目を覚まして酒をやめていたなら、って今でもそう思うんだ。そうすれば、ヒロミまで失う事はなかったかも知れないのに、ってね。でも、それでもまだなお、オレはやっぱり、悲しいけど酒をやめられなかったんだ。
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