第13話

  13・運命のひと



 ヒロミと知り合った時、オレはエアコン用のモーターを作る工場で働いていた。

 扱っている物が手のひらサイズで軽かったから、女の人がたくさんいて、男女の比率は半々よりやや女性の方が多いくらいだったよ。腕力よりも器用さの方がはるかに必要とされる職場だったから体力的には楽だったし、工場としてはものすごく清潔で、エアコンも完備されているんでむしろ働きやすいくらいだった。

 その頃オレは自分のとある特性にハッキリと気がついていた、「オレは仕事に対する向き不向きがものすごく激しいタイプだ」って事にね。でもこの職場は自分に合ってたんだ。時給がものすごく低い、という点を別にすれば本当にいい職場だった。

 そんな職場にオレと同じ派遣会社を通してやってきたヒロミを見て、オレは一目惚れしてしまったんだ。まわりの野郎どももその事にはすぐに気づいたみたいで、「同じ派遣屋同士でカラオケに行こうって誘ってみたら?」なんて言って応援してくれたんだ(そのちょっと後に裏切られるんだけどね)。でもヒロミ自身は最初こんなオレの事を良く思ってくれてなかったみたいなんだわ。後になって本人の口から聞かされたんだけど、むしろ逆にオレがあまりにもアレコレ話しかけるもんだからいろんな意味で警戒していたらしい。

 ……小学校の先生になりたがっていた超がつくほど気の強かったヨシコ。

 ……同棲していたパチンカス女・ミカコ。

 別に見栄を張るつもりはないんだけど、他にも何人か付き合った事のある女がいたのは確かなんだ。まあでも、この二人のおかげで気の強い女とパチンコをやる女だけはもう絶対嫌だと思っていた、で、ヒロミは大人しかったし、パチンコもやらないと言っていた。それが理由でオレはゾッコン惚れ込んじまったんだよ。だからもうなりふり構わずに熱烈にアタックしてしまった、ってわけなのさ。

 これはまだ交際する前の事なんだけど、例の「みんなでカラオケへ行こうと誘ってみたら?」というアドバイスを受けて、

「カラオケでは何を歌うの?」って質問した事があったんだ。そしたら、

「ZARDとか」って答えが返ってきたんだ。まだ若そうなのに案外古い曲が好きなんだなと、オレは極めてシンプルにそう思ったよ。そうそう、「若そう」と言えば、

「私の事、幾つだと思います?」って聞かれて、

「幾つなの?」って聞き返したら、

「32」って、いともあっさり返答してきたなんて事もあったな。正直あれには面食らったよ。何せ普通、女は自分から年齢なんて言わないからね。これまた後になって本人の口から聞いたんだけど、その時ヒロミはオレに対し、「私から一刻も早く距離を取って欲しい」と思っていて、それが理由で自分から年齢を公開したんだそうだ。でもオレは諦めようなんて気にはサラサラなれなくて結局付き合う事になったんだけどね。……まあとにかく年齢を聞いた時にはいろんな意味でびっくりしたよ。なんでって、見た目よりも実年齢の方が五つほど上だったからさ、……つまりヒロミは、いわゆる若く見えるタイプだったんだよ。どうりでZARDを歌うわけだ、と妙に納得しちまったよ。オレもオレで実年齢よりも若く見られるなんてしょっちゅうだったし(男で若く見えたってナメられるばっかりで得な事なんてほとんどないんだけどね)、まわりの人たちも、「お若く見える同士でお似合いなんじゃない?」なんて言ってくれてたな(あ、大太、勘違いしないでくれよ、オレ別に当時の会社の人たちにヒロミの年齢を言いふらしたりなんかしてないからね)。横顔もZARDの坂井泉水にどことなく似ていたし、髪の毛もいつもすごくいい匂いがしてたしで、オレはもう完璧に惚れ込んじゃってたんだ。大太にも優しくしてくれてたし、この気持ち、分かるだろう?

 オレがヒロミに告ったのは、知り合ってからわずか一週間後の事だった。その日ヒロミは明らかにオレに対して距離を取っていて、

「嫌われているのかも知れない」

 本能的にそう思って不安になってしまったオレは、ダメなダメで構わない、言うだけ言ってダメだったら深追いはやめよう、……そう思って帰り際、思い切ってヒロミにこう訴えたんだ。

「ちょっと聞いて欲しい事があるんだ……」って。その日ヒロミは明らかにオレから距離を取ってはいたんだけど、とにかくその時だけはきちんと聞く姿勢を見せてくれたんだ。だからオレは覚悟を決めて言ったんだ。

「……オレがこれから言う事を迷惑だと思うんだったらそれはそれで構わない、もしそうならハッキリそう言って。ただしこれからも同じ職場の仲間として変わらずに接して欲しい。例えば、"そこの道具、とってくれないか?"とか、仕事上の話さえまともに出来なくなるなんて苦しいし、お互いのためにもならないから……」

 オレはそう前置きした上で、スパッと告ったんだ。

「……オレ、君の事が好きなんだ!」

 ヒロミの顔が見る見る赤くなったのをオレは今でもハッキリ覚えてるよ。

「前に話したよな、高校上がってすぐの頃、オレ、当時の彼女に自殺された事があるって。ああいう事を経験しちゃうと、どうしても恋愛する事に臆病になるんだよ、分かるだろう? 自分で言うのは何だけど、オレほら、おじいちゃんがアメリカ人だからスタイルだって悪い方じゃないし、……いや、むしろ良い方だし、顔だってどことなくそれっぽくて彫りが深いだろ? どんなに悪く考えたってルックスで損をする方のタイプじゃない事だけは確かなんだ。……じゃあなんで彼女がいないのかって? 恋愛が怖いんだよ。ま、オレが人と深く付き合う事、そんなに得意なタイプじゃなかった、ってのもあるんだけどさ。でも、アンタと知り合って心の氷がようやく溶けたような気分になっちまったんだ。だから頼む、オレと付き合ってくれないか? もちろん、さっきも言ったとおり、嫌なら嫌で構わない、それならそう言ってくれ。オレももう二度とこんな事言ったりしないから!」

 ヒロミはしばらく頬を赤らめたまま、ボーッとしたような顔をしていたよ。……んで、しばらくするとこう言い出したんだ。

「あの、私、実は色々とわけありなんですよ」

「話なら聞くけど?」

 オレは会社のすぐ近くにケンタッキーがあるのと、財布の中の全財産が幾らだったかをとっさに思い出しながらそう切り込んだよ。

「いや、今日はこの後ちょっと予定があって……」

「じゃあ電話は? 明日で良ければ番号教えるよ。ちょうど明後日は土曜日だし……」

 ヒロミは了承してくれた。だからオレは金曜日、速攻で電話番号とメアドを書いたメモ紙をヒロミに渡したんだ。

 ところがその週末、ヒロミからの電話はなかったんだよ。めっちゃ苦しかったよ。部屋の中で身悶えながら、オレ、友達に電話したんだ。そしたらその友達からこう言われたんだ。

「もしかしたら、何か重い病気、……例えば乳ガンでおっぱいがないとか……、とにかく何か重い病気を持っていて、それで向こうも躊躇してるんじゃないかな?」ってね。さらにソイツはこうも言っていたよ。

「もしそうだったとしても、好きなんでしょ? それならそれでいいじゃん。気楽に構えなよ。気長に待ちなよ」ってね。

 そのまま土曜日が過ぎて、日曜日も過ぎて、月曜日の朝、職場でヒロミと会ったんだ。ヒロミのヤツ、開口一番、

「あの、この前すみませんでした」って言ってくれたんだ。んで、オレもオレで、本当はめちゃくちゃ気にしていたのに、

「うん、いいよ、全然気にしてないから」、って返事したんだ。

 電話がかかって来なかった理由はこっちの想定とはだいぶ違ってて、なんかオレのメモ紙を会社に置き忘れてしまって、そんで、電話したくてもできなかったからなんだって言うんだわ。「ああ、なんだ、そういう事だったのか」、って、オレは胸の中で安堵のため息をついたよ。

「あの、知らない人から変な電話とかかかって来てませんでしたか? もしそうなら、ホント、すみません」

 なんだか微妙にズレた事を言うヒロミにちょっとばかし呆気に取られたけど、まあとにかく、イタ電がかかって来なかった事に違いはないから、

「大丈夫だよ」って答えたよ。

 ともかくその夜、ようやくヒロミと電話でゆっくり話をする事ができたんだ。

「あの、この話、会社のみんなには言わないでくださいね……」、開口一番、ヒロミはそう前置きをした上で、

「……私、実はバツイチなんですよ……」って言い出したんだ。その後ヒロミがなんて言うのかが聞きたくて、オレはしばらく待ったんだ。ところがヒロミはオレにちゃんと伝わってるのか不安になったみたいで、

「……あの? もしもし?」って、こっちの反応を確かめるような聞き方をしてきたんだ。だからオレはこう答えたんだ。

「もしもし?」ってね。

「だから私、バツイチなんです」

 オレはもう一度、その後なんて言い出すのかが聞きたくてしばらく待ったよ。そしたら今度はこう言い出したんだ。

「あの、私の話、聞いてます?」

「うん、聞いてるけど?」

「だから、バツイチなんですよ」

「それだけ?」

 まさに、本当に、「それだけ?」って感じだったから、そのままズバリ「それだけ?」って聞き返しちゃったよ。

「えっ? "それだけ?"って?」

「いやなんか、ものすごく言いにくそうにしてたから、"実は私、不治の病なんです(さすがに乳がんとは言えなかった、当然だよな)"とか、もっと深刻な事を言われるんじゃないかって想定してたんだけど、本当にそれだけなの? だって、別に今時バツイチなんて珍しくないじゃん。オレの友達でバツサンのヤツもいるし……」

 いや、オレは別に緩衝材として「バツサンの友達がいる」だなんて嘘をついたわけじゃないんだ、本当にいるんだよ、バツサンの友達が。兎にも角にもヒロミはバツイチで、話を聞く限りどうもその昔嫁いだ事のある家は、古風というか昭和的というか封建的というか、とにかく女性の地位を低く見るような風潮があったみたいなんだわ。そんで、

「それが理由で、私、うつ病になっちゃって、自分の子どもをどうしても可愛いと思えなくなっちゃった事があって、で、旦那に離婚を申し込んだんですよ」って話してくれたんだ。

「そっか。色々辛かったんだろうね。正直に話してくれてありがとう」

「えっ、てゆーか、気にならないんですか?」

「いやならない」

 オレは心からそう言ったよ。

 ヒロミはその電話で、離婚した後、自分がどんな風にして過ごして来たのかについて話してくれたんだ。

 ……いったん実家へ帰った事。

 ……でもやはり子どもが恋しくて、元旦那モトダンに連絡を取った事。

 ……元ダンが実家の比較的近くにアパートを借り、家具・家電を一式全部買い揃えてくれた事。

 ……そこで子どもと二人で暮らすようになった事。

 ……元ダンがそこへちょくちょく様子を見にくるようになった事。

 ……そして何より、ヒロミ自身にはそんな気はもう全くないのに、元ダンはまだヒロミとヨリが戻る可能性があると本気で信じ込んでいて、子どもをダシに再婚を要求してきている事。

「私、その元ダンに借り上げてもらってるアパートからあの会社に通っているんですよ」

 最後にヒロミはそう言って話を締めくくった。これまた後になって本人の口から聞いたんだけど、ヒロミはその時、これでもう自分の事は諦めてくれるだろうと思っていたらしいんだ。でも何度も言うように、オレには諦めようなんて気はサラサラなかった。むしろ逆にこう思っていて、それをそのまま、ストレートに口にしたんだ。

「いや、むしろ逆に少々のわけありだったんだと聞いて正直、安心したよ。オレだってかなりのわけありだし、もし君が良い家のお嬢さんだったとして……」

「……いやそんな事はないですよ……」

「……いや、もし仮にそうだったとしての話だよ……」

 頭の中でイメージしてした話の道筋を、途中で壊された事にほんの少しだけイラッとしながら言いたかった話を続けた。

「……君のお父さんから、"お前のようなどこの馬の骨とも分からんようなヤツに娘はやれん!"とか言われる方がよっぽど辛いよ」

 オレはおじさん役をやる声優のように、低い声でその台詞を再現してみせたんだ。するとヒロミは小さな声で笑いながら、

「まあ、確にそういう考え方もあるか」って答えてくれたのさ。

 その後もオレたちは一時間ぐらい長電話をし続けた。んで、その電話の中で次の週末、カラオケへ行く約束を交わしたんだ。

 週末、オレたちはブックオフで待ち合わせた、……理由はお互い本を読むのが大好きだったから。オレは、

「きっと今夜、部屋に来てくれるに違いない」と確信していたんで、それはそれは丁寧に部屋を掃除したんだ。後は大太も覚えているとおり、

「今夜きっと新しいお姉ちゃんが来てくれるだろうから、ちょっとだけ待っててくれよな」ってハッピーとお前に声をかけてから愛車ロードスターのエンジンをかけたってわけよ。また、ヒロミもヒロミで、

「元ダンには"今日はちょっと予定があるから、子どもを見てて欲しい"」と言ってから来てくれたそうだった。

 ヒロミは歌が上手かった。ビブラートも綺麗にかかっていたしね。ただ残念な事に、そのビブラートはいわゆる「喉ビブラート」と呼ばれているもので、本当のビブラートは横隔膜を揺らしてかけるものなんだよ。でも最初のカラオケでいきなりそんな専門的な事を言ってダメ出ししたって得な事は何もない、むしろ逆に相手をドン引きさせちまうだけだ、そもそもオレたちは素人で、カラオケは趣味で楽しんでいるに過ぎないんだ。だから、

「うん、歌うまいじゃん。ビブラートもちゃんとできてるし」って無難な事を言ってみせたんだ。

 昔、音楽をやっていた事もあって、実はオリジナル曲の漠然としたイメージがオレにはいくつかあったんだ。……オレの作った曲をヒロミに歌っもらう、そんなのもありかな? なんて事をボンヤリ思ったりもしたよ。でもその曲のほとんどは、いわゆるメジャー系の明るい曲ばっかりで、ヒロミの声はマイナー系の暗い曲の方が似合う感じがしたんだ。でもまあそれはそうとして、とにかくヒロミは歌が上手かった。失礼ながらさすが横顔だけとはいえ、坂井泉水に似ているだけの事はあるとも思った。かれこれ7時間ぐらい、オレたちはカラオケに籠もって互いの好きな曲を歌ったり、他愛のない話をしたりして楽しんだよ。で、夕方ごろ、

「オレの家の近くに、桜が咲いてる綺麗な公園があるんだ。一緒に行かないか?」って誘ったんだ。するとヒロミは、

「8時までには帰してくれます?」って聞き返してきた。で、オレはオレで、本当は帰す気なんてサラサラなかったくせに、

「うん、帰す、約束する」って返事したんだ。……ちなみにこの日の事はだいぶ後になってまで何度も何度も散々蒸し返されたよ、「"8時までには帰す"って約束したくせに」ってね。

 その公園に向かって、オレはヒロミを乗せた愛車を走らせた。その時乗ってたNAロードスターはテインの車高調を入れていて、サーキットを走っても問題ないぐらいに脚をガッチガチに固めていたし、シートもシートでレカロのセミバケットだったしで、ヒロミは、

「こんな乗り心地ごこちの車は初めて……」って少し戸惑ってたよ(レカロのセミバケは先代の愛車だったプレリュードからそのまま移植したんだ。でも、マツダの純正のシートレールとレカロの間をネジで固定するステーがなかなか手に入らなくてさ、車の解体屋をやっていた友達の所へお邪魔して自作させてもらったんだ。フラットバーをやれカットしたり溶接したりしてね。ネットに作例が載ってたからそれほど難しくはなかったよ)。オレはひらがなが振ってある事で大変有名な北関東のとある峠道で、ドリフトのきっかけ作りがちぃっとばかし早すぎたせいでガードレールに突っ込んでしまって、それが理由でNAのリトラクタブル・ライトが片方だけ閉じなくなってしまったって話をした。そしたらヒロミのヤツ、

「恐っ!」、と言ってたいそう驚いていたよ。

 オレたちはその後、桜の咲く公園の屋台でうどんや焼き鳥を買って二人で一緒に食べたんだ。

 ヒロミはその時、「自分は子どもを捨ててしまった母親なんだ」、と、悲しげにそうこぼしていたっけ。オレはそんな風にして罪悪感に打ちひしがれてるヒロミをいたわる意味でこう言ったんだ。

「仕方がなかったんだよ……」ってね。さらにこうも付け加えた。

「……仮にオレたちが付き合うようになったとしても、結婚したとしても、いいよ、子どもにはこれからも会いに行きな……」って。その後さらにオレはこうも言ったんだ。

「……時と場合によっては、オレ、ヒロミの子どもの父親がわりになってあげても構わないと思ってる……」ってね。でもそれに関してヒロミはハッキリとした返事をしてはくれなかったな。あの時ヒロミは何を思っていたんだろう、……今となっては永遠の謎だよな。ともあれオレはヒロミを部屋に誘ったんだ。

「……もし良かったらうちの猫たちに会いに来ないか?」って。ヒロミはOKしてくれたよ。だからいったんスーパーへ行って食材と酒を(……それとヒロミの目を盗んで避妊具コンドームをこっそり……)買った後、ヒロミを部屋に連れ込んだんだ。後は大太もよく覚えているとおりだよ。ドアを開けてすぐ、

「ただいま、ハッピー、大ちゃん、新しいお姉ちゃんが来たよ」って声をかけた、ってわけさ。

 ヒロミはオレの部屋に入るなり、「あっ、この部屋、なんかお洒落」って言ってくれたっけ。そりゃそうさ。オレはインテリアに凝っていて、いつか自慢のシャレ部屋に女を連れ込んで、んで、お得意の手料理を振る舞いたいって、前々からずっと夢に見ていたんだから……。

 ちなみに大太、お前はその図体に全く似合わない、警戒心が強く、臆病で、なおかつ人見知りの激しい性格をしていたよな。友達が来るといつも決まって「核シェルター」に避難してたしな。でも不思議と初めてヒロミが来た時はすぐに懐いてくれてたよな。あれには本当、感謝してるよ、おかげでヒロミの方もすっかり警戒を解いてリクライニングのソファーベッドでくつろいでくれたしな。ヒロミの手から受け取ったおやつをムシャムシャ食べてる大太を二人で眺めながら色々とお喋りをした後、オレはビールを飲みながら作ったご自慢のオリジナル料理「冷たいたらこパスタ」をヒロミに振る舞ったよ。これまた後になって聞いたんだけど、その時までヒロミのヤツ、オレが「料理が得意だ」って言うのを嘘だと思ってたらしいんだわ(失礼な話だよな!)。でもその冷たいたらこパスタを食ってヒロミの中での評価が完全にひっくり返ったらしいんだわ。その時まで全然知らなかったんだけど、たらこが実はヒロミの好物の一つだった事も幸いした。

 そんなこんなで、「8時までには帰す」って約束を、当初の予定どおりものの見事に完璧なまでに反故にしてみせたオレは、その夜初めてヒロミを抱いたんだ。……知り合ってから、たった2週間目の事だった。

 日曜日の朝、オレは冷凍庫で保管していた作り置きのハンバーグを焼いた後、それをおかずに得意料理のハンバーグ・グラタンを作ってヒロミに振る舞った。ヒロミはたいそう喜んで食べてくれたよ。食べ終えてひと段落した後、オレたちはいったん別れた。月曜日の仕事に備えて互いの部屋で休む必要があったから、ヒロミをロードスターで部屋に送ってやったんだ。

 その帰り道の途上、ヒロミを乗せた状態で2周ほど定常円旋回をしてみせてやったよ。ショッピング・モールのダダっ広い駐車場で、まわりに人や車がいないのを十分確認してからだけどね。ヒロミは後輪おしりをわざと滑らせている車に乗るのはそれが初めてだったみたいで、

「車が横方向に動くなんて初めて経験した」って言ってかなり驚いてたな。あまり長居するとやれ警備員やら警察やらが来るのは明白だし、オレはその後すぐにそこを後にしたよ。その逃避行の途上で、

「峠やサーキットで乗り潰す事、……つまり使い捨てにする事を前提に走らせる車の事を、走り屋の人たちは『ミサイル』って呼んでるんだ」って話をしたら、

「そんな話は初めて聞いた!」とも言っていたな。……これまた後になって聞いたんだけど、歴代の彼氏の中で一番不良性のある男はオレだったそうなんだわ。オレのような真面目な人間の一体どこを見て「不良性がある」と感じたのか大いに疑問なんだけど……。

 月曜日、会社に行くとオレたちに対する周囲の視線は微妙に変化していたよ。みんなもうオレたちが交際し始めたって事を察してくれたみたいで、オレたち二人が二人だけの世界を作ってニコニコ話をしても、その間に割って入ってくるなんて野暮な事をするヤツは一人もいなかった。



 大太も知ってのとおり、オレたち、しばらくはそうして二人仲良くやっていたんだ。ところがやっぱり来ちまったんだ、……そう、倦怠期ってヤツがさ。

 その頃ヒロミはメンタルが少しばかり弱くなっていた。事の発端は、ヒロミが元ダンに「彼氏ができた」と報告した事にあった。いずれは復縁できると固く信じて疑っていなかったらしい元ダンは、

「それは困る! それじゃ子どもが混乱するだろう!」って言い出したんだそうだ。「いや、混乱していたのは元ダン、アンタの方じゃないか!?」、オレは直ちにそう思ったよ。ともあれ元ダンはオレとヒロミの仲を引き裂こうと躍起になりだした。で、ヒロミが自分の思い通りにならないとなると、「子どもに会わせない」というカードをチラつかせてヒロミを恫喝し始めたんだ。

「俺の家族が嫌だというなら、このアパートで子どもと三人で暮らそう」

 そう言った事もあったらしい。でもヒロミは、元ダンの一族はもちろんの事、元ダンそのものが嫌だったから離婚して実家に帰ったんだよ。戻ってきたのはあくまで子どもが恋しかったからに過ぎない、それをどこでどう勘違いしたのか、元ダンはヨリを戻せるチャンスだと思い込んでいたのさ。きっと現実をキチンと受け止められずにいたんだろうね。ところがヨリはいつまで経っても戻らなかった、それどころか新しく彼氏までデキちまった、んで、どうにかして引き止たいと、それはそれは必死になっちまった、ってなわけだ。しかし離婚する前に言うんならともかく、離婚した後になって「三人で暮らそう」だなんて、遅過ぎるを通り越して周回遅れもいいとこだよな。挙句元ダンはこうも言い放ったらしい。

「お前は二度も子どもを捨てる事になるんだぞ!」

 いや、捨てられたのは子どもじゃなく、元ダン、お前の方だろう、……オレはそれを聞いて即座にそう思ったよ。だからオレはヒロミにこう頼んだんだ。

「元ダンに、"私の彼氏がお前はストーカーだって言ってた"って伝えてくれ」ってね。すると元ダンはこう言ったらしい。

「"なんで赤の他人にそんな事を言われなきゃならないんだ"」って。だから今度はこう伝えるようにお願いしたんだ。

「"分かれた女房にいつまでも執着するようなヤツは赤の他人からストーカーと言われなければならない義務があるんだ。分かったな、覚えておけ!"」ってね。それと更に「ついでにこの一言も伝えてくれ」と付け加えたよ。

「"もしどうしてもストーカーと言われるのが嫌なら、オレと直接会って対決しろ! お前が言いたい事を面と向かって言えるのは女が相手の時だけじゃない、男が相手でも堂々と対面できるという事を証明して見せろ! さもなくばオレにビビッてるんだと見なすぞ!"」ってね。

 聞いた話によると、元ダンは特に何も返事をしなかったそうだ。

 兎にも角にも元ダンは、その後「子どもが混乱するから」という理由で、ヒロミと子どもが面会する権利をいよいよ本気で剥奪しようとし始めた。たとえ離婚したとしても、親子が会う権利は憲法で保障されているのにも関わらず、だ。んで、ヒロミはどうしたかっていうと、あくまでも、それはそれは執拗にやってくる元ダンその人だけが嫌で嫌で仕方がなく、それが理由で断腸の思いで子どもを諦めたんだ。結果、元ダンから借り上げてもらったアパートからオレのアパートへと半ば逃げるような形でやって来た、と同時に、それがオレたちの半・同棲状態のきっかけにもなってしまったってわけさ。オレの部屋は大太も知ってのとおりワンルームとはいえかなり広かったし、オレが使っているセミダブルのベッドの他にリクライングのソファーベッドもあったから、ヒロミが睡眠を取るスペースはもちろん、生活にだってほとんどと言っていいほど支障はなかったしね。

 ところで、彼氏ができたと伝え聞いた元ダン一族はたいそうご立腹だったらしい。家を出た元嫁のその後のライフスタイルに干渉する権利なんて誰にもないと思うんだけど、とにかくそうとう怒り心頭だったそうな。ヒロミのスマホには一族からの大量のメールがやってきたらしい。見たわけじゃないんだけど(オレは他人のケータイを見るのは大嫌いなんだ)、元ダンの妹だかなんだかが、子どもの面倒を見るのを嫌がってそれはそれは長いメールを送ってきた、なんて事もあったそうだ。ともあれ、元ダンや元ダン一族のそうした一連の言動に、当然の事ながらヒロミのメンタルは次第に追い詰められてしまったんだ。

 会社の若いヤツが、ある日オレが歯医者で休んだのをいい事に、ここぞとばかりにある事ない事ヒロミに言いふらしたのはちょうどそんな頃の事だった。別に恨まれるような事をした覚えはないんだけど、どういうわけかソイツはあれこれ吹き込んだらしく、メンタルの弱っていたヒロミはその根も葉もない噂話を真に受けてしまった。んで、数日後いきなり「半同棲を解除する」と言ってオレの部屋から飛び出し、そのまま実家へ帰ってしまったんだ、と同時にオレたちが知り合った会社を突然、辞めてしまったのさ。しかも、オレには辞めた理由を、「手が痛くてこの仕事を続けられそうにないから」、とだけ言い残してね。

 それと前後して、派遣屋の担当から電話が来たんだ、……もちろんヒロミの事でね。

「彼女が会社を辞めたのは知ってますよね。なんでだか知ってます?」

 一体どうしたわけか、担当はいきなりそう切り込んできたんだ。

「手が痛いからだ、と言ってましたけど?」

「なんで知ってるんですか?」

 まるで警察の職質のようだと思ったよ。

「本人からそう聞いたからです」

「どうやって聞いたんですか?」

 担当の尋問はさらに続いたよ。

「部屋で聞きました」

「部屋ってどこですか?」

「僕の部屋です」

「僕の部屋ってどこですか?」

「僕の部屋は僕の部屋です」

「どういう事ですか?」

「僕らはついこの前まで一緒に暮らしてたんです。ヒロミのヤツ、今は一時的に実家に帰ってますけどね」

 そう答えると担当のヤツは、「聞いた話と違うな」って呟いた後、こう言い出したんだ。……ヒロミはオレに色々と話しかけられる事に困惑していて、それが理由で仕事を辞めた、って。オレは正直、かなり混乱しちまったよ、当然だよな? ともかくオレは、

「自分たちは確に一緒に暮らしていたし、男女の交際をしているんです」ともう一度訴えたんだ。でも話はまったく噛み合わないままだった。けっきょく担当は、「確かに"手が痛いというのもある"とは言ってましたけどね」と言い残して電話を切ったんだ。オレはすぐさまヒロミに連絡をつけたよ。するとヒロミは、

「担当にそんな相談してない」と言ったんだ。謎が謎を呼ぶばかりだった。何がなんだかサッパリ分からなかった。ところが次の日になってヒロミは撤回のメールを寄越してきたんだ。

「担当に相談したって話、実は本当だったんだ」ってね。

「最初の頃、ほら、私にいろいろ話しかけてきてたでしょ、それを相談したって事があったはあったの。でも担当の人が今さらそれを言い出すなんて思ってもなかったら混乱しちゃって、それで昨日あんな風な事を言っちゃったの。でももう過ぎた事だと思ってたし、今さらなんで? ってビックリしちゃって、それでつい嘘をついちゃったんだ。本当にゴメンね。でもこれだけは信じて。今ではあなたの事が本当に好きなんだ」

 次の日、担当はヒロミに「交際しているって本当なんですか?」って確認の電話をしたらしい。ヒロミによるとなんでも担当はその時、

「ストーカーされてませんよね?」とかなんとか言ったらしい。正直それを聞いた時はかなり気に障ったよ、「いくらなんでもストーカーは言い過ぎだろう」ってね。でも、もしオレがその事で、「ストーカーだと? テメェこの野郎!」とかなんとか担当を厳しく追求したら、最悪アイツは人間不信に陥ってうつ病になるかも知れないと思ってそれはしない事にした。んで、この問題はどうにか沈静化したんだ。

 ともあれヒロミは「手が痛いから」という理由で突然仕事を辞め、その後さらにまるで後出しジャンケンのように、実家に帰った理由を「実は家族に不幸があったから」と弁明し始めた。そう聞かされたオレは、最初のうちこそ、「しばらくすればまた会える、一緒に暮らせる」と思っていた。何せオレは正真正銘の天涯孤独で、ヒロミが居なくなったら本当に一人になっちまう、で、ヒロミもそれは理解した上で交際してくれていると信じていたからだ。でも、しばらくすると今度は今度で、「風邪を引いた」と言ってオレと会うのを拒否るようになったんだ。さすがにそれは不自然だと思ったオレは、前回の担当とのすれ違いもあったもんだから、いよいよヒロミに不信感を持ち始めてしまった。どこまでが嘘で、どこからが本当なのか、もうまったく分からなくなってしまったんだよ。それからも数日の間、オレたちは顔を合わす事なく、ひたすらスマホだけで連絡を取り続けた。

「何があったのかは知らないけど、オレにはお前に何かをしてしまったという心当たりがまるでないんだよ。それでももし知らず知らずのうちに何かをしちまってたって言うんなら頼む、ちゃんと話をしてくれ。でないとオレ、お前の事を一生信用できなくなる」

 そういう意味のメールを送った事もあった。ところが、担当の事で混乱し、しかもその若いヤツの言い分を固く信じて疑っていなかったヒロミは、まるで取り合ってくれなくなってしまったんだ。そうこうするうちに今度はこんな意味のメールがきた。

「今まで言えなかったんですけど、例の借り上げてもらったアパートで元ダンに体を求められて、私どうして拒めなかったんです。実家に戻ったのには実はそういった事情があったからなんです。ごめんなさい。私はやっぱり元ダンとやり直す事にします」ってね。この言い分に明らかなる作為を感じたオレはすぐさま電話をしたんだ。とにかくちゃんと話をして欲しかったからさ。でもヒロミはどうあっても応じてくれなくて、その夜、オレはこれでもかってくらい酒に逃げてしまったんだ。

 次の日の朝、二日酔いでグダグダしていたオレの元に、もう一度ヒロミからメールが来た。

「元ダンとしちゃったって言うの、実は嘘だったんだ。そう言えば私の事を諦めてくれるって思ったから」

 オレはそれを見てすぐにメールでこう返事をしたよ。

「"担当に相談なんかしていない"とか、"実家で不幸があった"とか、急に"風邪を引いたと"か、見えすいた嘘ばっかりついた人が、今度は何? "元ダンとしちゃっただなんて実は嘘でした"だって? 一体どこのお人好しがそんな話を信じるって言うんだよ!」

 オレはオレで、この一連の騒動で結構傷ついていたから、思わず心にもない事をメールしちまったよ。もちろん、「"元ダンとしちゃった"」という話の方が嘘だと承知の上で、ね。正直、そのメールを読んで、「ああ、やっぱりしてなかったんだ」って、本心では安心してたんだけど、つい意地を張ってそう書いてしまったんだ。夕方ごろになると、今度は電話がかかってきたよ。

「今、何してた?」

 それはそれは申し訳なさそうな声だった。

「いや、特に何も」って返事をした後、オレたちお互い、しばらく無言状態になっちまった。でも、しばらくすると、どちらともなくポツポツ会話が始まったんだ。で、オレはどうしても本当の事が知りたくて、

「今回の事なんだけど、どうしてこんなに言い分が二転三転したの?」ってストレートに質問したんだ。そうしたらその時になってやっと、「会社の若いコから色々と悪い話を聞かされたんだけど、それって本当なの?」って話してくれたんだ。もちろんそれは根も葉もない事だったから、「そんな事実はないよ」って否定したんだ。ついでにオレ、こうも付け加えたんだ。

「もしオレが電車の中で痴漢だって疑われたら、ヒロミもオレを疑うの? この話って、例えるならそういう事になるよね?」

「確かに、そういう事になるよね……」

 そこでようやく、ヒロミは正直に言ってくれたんだ。

「……ごめん、その子の話、本気で信じ込んじゃってた、まさか担当が例の相談した話を言うとも思ってなかったし、それに、やっぱり子どもの事で苦しかったから……。いっぺんにいろんな出来事が起こり過ぎてパンクしちゃってたよ。でもそっちからしたらわけの分からない事ばっかりだったろうね。変な事してばかりで、本当にごめんね」

 そうとう重度のメンヘラ女なんだな、果たしてこれから、オレたちちゃんとやっていけるのかな。……正直オレはそう思って不安になったよ。オレだって人の事を偉そうにアレコレ言えないくらいのメンヘラ野郎なのにね、事実、高校のときうつ病になってるわけだし、アルコール依存症でもあるわけだし。でも、その時にはもう好きだという気持ちにブレーキをかけられなくなっていたんだ、だからこう言ったんだよ。

「当の本人に確めもせずに、噂話を正しいって思いこむなよ。ソクラテスの"無知の知"って知ってるかい? 自分が何を知らないのかって事を知っている人の事を、本当の意味で頭が良いって言うんだよ。これからはきちんと確かめてから行動しようよ」ってね。ついでにこうも付け加えたんだ。

「何かあるんならちゃんと言ってくれよ。勝手な想像で突っ走らないでくれよ。これからは何かあったならきちんと相談してくれ。確かめてから行動してくれ。話ならちゃんと聞くから。事実、今までだってちゃんと聞いてあげたでしょ」って。



 …… でも、この時のこの言い分に、ヒロミはついぞ最後まで、きちんと耳を貸してはくれなかったんだよ。これはずっと後になって分かった事なんだけど、もう少しだけ正確に言うなら、ヒロミには「人の忠告に耳を貸さない」という、それはそれは致命的な欠点があったんだよ。

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