第6話
6・日雇い労働
派遣切りに遭うほんの数週間前まで、仕事はそこそこ順調だったんだよ。オレが働いていた班の人たちも、あの三国志のゲームオタクは別としてみんなオレにすごく良くしてくれたしね。ところがさ、派遣先はともかく、派遣屋の担当がこれまたいい加減なヤツでさ、アイツは本当に迷惑かけられっ放しだったよ。
実を言うと、その前にも一度派遣切りに遭いかけたんだ。ところが例のゲームオタクは切られなかったんだ。なんでオレが切られてアイツが切られないのかが不思議で仕方なかったし、それに何より屈辱だったよ。ともあれ派遣切りを言い渡された直後に会社の健康診断が始まったんだ。当然、今月限りと言われたオレは健康診断を受けられなかった。でもその直後、他の班が一人を一人欲しがっているという話が急浮上してきて、やっぱりオレは働けるという事になったんだ。だったら健康診断を受ける権利だって当然浮上するよな。だからオレは派遣屋の担当に言ったんだ。
「健康診断を受けさせてください」って。そしたらソイツこう言い出したんだ。
「ちょっと待って」って。言われたとおりちょっと待ったんだけど、あの野郎、ウンともスンとも言ってこないんで、オレ、もう一度言ったんだ。そしたらやっぱり、
「ちょっと待って」って言うんだよ。そうこうするうちに健康診断は終わっちまったんだ。派遣会社としては、検診を受けさせたら一人当たりいくらのお金を支払わなくちゃならないし、それが嫌で先延ばしにして逃げたに違いない、……オレはそう思ったよ。
ともあれオレは新しい班でベストを尽くして働いたよ。当然さ、だって
「お前はよく働いてくれているから、派遣屋に言って時給を100円上げてもらえ。オレの方からも上には言っとく」って言ってくれたんだ。オレはさっそくその話を派遣屋の担当にしたんだ。そしたらやっぱりこう言い出したんだ。
「ちょっと待って」って。ちょっと待ったはいいものの、やっぱりウンともスンとも言ってこないんで、オレはもう一度聞いたんだ。そしたらやっぱり、
「ちょっと待って」って言うんだよ。
「前もそう言って健康診断受けさせてくれなかったじゃないですか。もういい加減にしてくれませんか? ちょっと待てと言うなら、せめていつまで待てばいいのかはっきり言ってください」
「ちょっと待って」
「だからいつまで待てばいいんですか?」
「週末までにはハッキリさせるから、それまで待って」
オレは週末まで待ったよ。そしたら今度はまたこうなったんだ。
「今月いっぱいで契約終了になりました」ってね。
「例の100円はどうなったんですか? ネコババですか?」
「いや、それはないよ」
「嘘つけっ!」
オレは思わず怒鳴っちまったよ。当然さ。実際にはどうだったかなんて今となってはもう確かめようがないけど、でもきっと間違いないよ、たとえ違ったとしても、疑われても仕方がないような前科があるんだもん。しかもヤツらさ、解雇になった理由を無理やり「自己都合」にしようとしやがったんだ。さすがに業を煮やしたオレは、はっきり言ったんだ。
「いい加減にしろ! どこからどう見たって会社都合じゃないか! 今すぐに雇用保険を支払ってもらなきゃこっちは生きていけないんだよ! だから必ず会社都合にしろ! さもないと労働監督基準署に報告するぞ! お前が"ちょっと待って"と言って健康診断や時給の100円アップを先延ばしにして逃げた事も実名でチクるぞ!」ってな。相手は渋々会社都合にしてくれたよ。そのおかげでオレはすぐに失業手当をもらえる事になったんだ、と同時にその派遣屋の寮を出る事にもなったんだ。でもその頃にはもうそこそこの貯金もあったんで、派遣村へは行かずに住んだんだ、……そう、どうにかこうにかアパートを借りる事ができたんだ。ただし緊急避難的な引越しだったんで、決して納得ずくで選んだ物件じゃなかったんだけどね。
失業手当を貰えるようになってすぐに、オレは日雇い労働の会社を見つけたんだ。S物流と言う会社だった。建築現場に様々な資材を運び込んだり、事務所にある古い机や椅子を運び出し、そんで新しい机や椅子を運び込んだりといった仕事を請け負う会社だ。もう時効だし、そもそも「虹の橋のふもと」にいる大太にこんな話を打ち明けたって何か困る事もないから正直に言うけど、そこは給料を銀行振り込みではなく直接手で支払ってくれたんだ。そのおかげで失業手当を減額させられる心配なく働く事ができた(マイナンバーやインボイス制度が施行される前の話さ)。オレは、本を読んだりゲームをしたり、小遣いがなくなったらS物流で働いたりを繰り返して数週間を過ごした。「もうこうなっちまった以上、ジタバタしたって仕方がない、しばらくゆっくりして、そしていい仕事を探せばいい」、ぐらいに軽く考えていたんだ。……そんな風に考えてたせいでバチが当たったのかな? 困った事に、このS物流にはとんでもない食わせ者が二人ほどいたんだ。名前をサカタ、そしてもう一人はフジムラと言った。二人ともとんでもない大酒飲みだった。そして二人とも、人を束縛したり振り回したりする事がもう、天才的に上手かったんだ。
先に話しかけてきたのはサカタの方だった。やれヘルメットやら安全帯やらを運ぼうと持ち上げた時、
「大丈夫か?」と話しかけてきてくれたんだ。その一言でオレ、「あっ、この人優しそう」と思ってしまったんだ。今になって思うと、すでにもうその時点でオレは騙されてしまっていたんだよ。もっともサカタにはおそらく騙そうなんて気は全くなく、彼にとってはそれが全くもってしてスタンダードな態度だったんだろうけどね。ともあれ仕事中も親身になってくれたし、帰りの車の中でも色々と話かけてくれたんで、つい心を許してしまったんだ。
「お前、酒は飲むのか?」
何度も言うように、本心では「いつかはやめたい」と思いつつ、やめられずにいた当時のオレは、
「まあ、少しは……」、と曖昧に答えたよ。
「だったらこの後、一緒に飲まないか?」
「別にいいですけど」
「お前、自転車で事務所に来てるよな。家は近いのか?」
「まあ」
「だったらお前の家で飲まないか?」
「いいですけど」
「オレの仲間で一人、フジムラってやつがいるんだ。ソイツも誘っていいか?」
「はぁ」
かくしてオレは、そのサカタとフジムラの三人で飲む事になったんだ。ところが酒を飲むなり、この二人の態度が急変してしまったんだよ。とにかくうるさく騒ぐんだよ。なけなしの食材で作ってやったつまみにも、やれ「量が少ない」だの「もっと辛い方がいい」だのとケチをつけるし、屋主であるオレが非喫煙者なのにも関わらず、断りもせずに平気な顔してタバコに火をつけるしでね。
「あの、すみません、もっと静かにしてくれません? 下の階に住んでるヤツ、けっこううるさいんですよ」
と苦情を言ってもまるでダメだったんだ。静かにしてくれないんだ。
事実、下の階のまだ若い男は本当にうるさかった。例えば夜にいきなりこう言って怒鳴り込んで来たなんて事があったんだ。
「今さっきうるさかったぞ。あの音は一体何だ?」
「はっ?」
心当たりはまるでなかった。しばらく経って(それもそのアパートを去って)から、「あ、そういえばあの時、お風呂のゴム栓が内壁にぶつかったな、その時のゴンって音だったか」と、周回遅れの時間差攻撃で思い出した、なんて事もあったよ。また、明け方に乗り込んできた事もあった。
「何度言ったら分かるんだ。静かにしろ!」
やっぱりまるで心当たりがなかった。これまたしばらく経ってから、「あ、そういえばあの時、ドアの郵便ポストから新聞を抜いたな、あの時のパタンって音だったか」って、ふと思い出した事があった。
……つまり、まったくもってしてアンラッキーな事に、「"うるさい・うるさい"と言ってるお前の方がよっぽどうるさい」と言いたくなるようなヤツが階下にいたというわけなのさ。そんなこんなで当時オレは相当神経をすり減らして生活していたんだけど、そうとも知らずにその二人はとにかく騒ぎ散らすんだよ。しかもこれだけ迷惑かけておきながら、その事をこう言って正当化までしやがったんだ。
「うるせ〜! なんか文句を言ってきたならそン時はオレがガツンと言ってやる!」ってね。
ところがそれから数十分後、本当に下のヤツが怒鳴り込んできてしまったんだ。「ガツンと言ってやる」と言っていた割には、サカタは案外大人しかったよ。まるで枯れたタンポポのように急にしおらしくなってしまったんだ。今ではこう思っているんだけど、おそらくサカタは、相手を瞬時に、「わがままが押し通せるタイプか、そうでないタイプか」に区別する能力がものすごく高かったんだろう。ともかくサカタは、さっきまでの勢いがまるで嘘だったように急にシオシオ大人しくなって、その下の階のヤツの部屋に代表として拉致られてしまったんだ。しばらくして帰ってきたサカタは、その時の様子をこんな風に話し始めたよ。
「なんか変な部屋だった、家具・家電がほとんどなかった、布団だけだったよ」、ってね。
その後も二人はそのままオレの部屋に居座って、そのまま酔った勢いで寝てしまったんだ。当時は夏だったし、布団がなくても特に問題はなかった。ところがさ、朝になっても二人は帰ろうとしないんだ。いつまでもオレの部屋に屯して帰ろうとしないんだ。きっと家主のオレの許可なく勝手に「たまり場認定」しちゃったんだろうな。そうこうするうちにフジムラの方は家族からケータイに連絡がきて帰っていった。ところがサカタはいつまでもいつまでも部屋に居座って出ようとしないんだ。それも、
「ああ、この部屋は居心地がいいな」とほざきながら……。家主のオレはちっとも居心地がいいとは思えなかった。昨夜の騒ぎで精神的に参っていたし、何より一人になりたかった。だからそのまま思ったとおりの事を言ったんだ。
「あの、オレもう精神的に疲れました。一人になりたいです。悪いけど帰ってください」
するとサカタはとんでもない事を言い出したんだ。
「何が"精神的に疲れた"だ。その一言でオレは深く傷ついた」
「いや、傷ついているのはこっちの方なんですけど?」、と言いたかったんだけど、それよりも先にサカタはこう言い出したんだ。
「確にオレも一人になりたい時っていうのはあるよ……」
「嘘つけっ! お前にそんなデリカシーなんかあるわけないだろう!」、やはりオレはそう思った。でもやっぱり、それを口に出すより先にサカタはこう言い出したんだ。
「……でもな、常に一緒にいないとチームワークが乱れるし、阿吽の呼吸というものが乱れてしまうんだよ。だから常に一緒にいる必要があるんだ」
サカタは有無を言わさずそう言い切って、居座る事を見事に正当化してみせたんだ。これで分かってもらえたよな? ヤツが他人を振り回したり束縛したりする事が天才的なまでに上手かったというのが……。ともあれオレは、何せ相手は職場の先輩だし、下手げに反抗して心象を悪くするのは良くない、そう思ってただひたすら我慢したんだ。夕方ごろになってようやく彼は帰ってくれた。ようやく開放されたオレは、すっかりタバコ臭くなったカーテンを洗濯して、換気したよ。でもダメだった、タバコの臭いは完全には取れなかったんだ。カーテンもそうだけど、部屋そのものにタバコの臭いが染みついていたんだろうな。昔まだ喫煙者だった自分が他人にどれだけ嫌な思いをさせてきたのか、これほど強く実感したのその時が初めてだったよ、大太。
ちなみにこの時の事を、オレはずっと後になってヒロミに話した事があったんだ。するとヒロミはこう言ったんだ。
「その人、……アンタの事が、……あの、……その、……いわゆる、……『好き』、……だったんじゃないの?」
ちなみに昔の職場で仲の良かった別の女に同じ話した時も、やっぱりそっくりな意味の事を言われたよ。でも、「それ」はなかったと思っているんだ。サカタはただ単純に、「オレは面倒見のいい先輩で、弟分のコイツを事を自分の軍団に入れてやっている優しい男なんだ」という風に思っていて、しかもそのイメージに自ら酔っていたんじゃないかとオレは考えてるんだ。
ともあれオレは次の日、タバコ臭い部屋の中で一日中、「ああ、昨日・一昨日はホント、嫌だったなぁ、なんでこんな事になっちまったんだろう」と、ひたすらそれだけを心の中で繰り返しながら塞ぎ込んだんよ。つけっぱなしのテレビには甲子園の試合が映っていたけど、とてもそれを集中して見ようという気にはなれなかった。そうとも知らずに更に次の仕事の時、サカタは天才的なる手腕でオレを束縛したんだ。
「酒を飲もうぜ。仕事終わりには酒を飲まないと次の仕事が回らねーんだ」
サカタは再びオレの部屋に強引に上がり込んで、つまみや喫煙する権利を当然の事のように要求し始めたんだ。すると案の定、下の若い男から怒鳴り込まれてしまったんだ。そんなこんなでオレはもう、「こいつらだけはもう絶対に部屋には上げたくない」、強くそう思うようになった。かと言ってはっきり「部屋にはもう上げたくありません」と言うのも角が立つしで、悩みに悩んだオレは、二人にこう言ったんだ。
「大家と階下の人と三人で話し合いをしたんですよ。で、"もうその二人を部屋には上げないでください"と言われたんです。だからもううちでの飲み会は諦めてください」ってね。
そう宣言した日の仕事が終わった後、サカタは案の定、あの天才的なる手腕でオレを束縛し始めたんだ。
「仕事終わりには酒を飲まないと次の仕事が回らねーんだ」
別に飲まなくたって仕事は回ると思うんだけどね。しかもサカタはこうも言うんだよ。
「お前は本当に面白いヤツだよな」ってね。もしあの強引に誘われている時のオレの様子を客観的に見てる人がいたなら、間違いなく、「いや、この人明らかに嫌がってるよ。てゆーかこれの一体どこをどう見たら面白いヤツだって解釈になるって言うの?」と思ったに違いないだろう。
サカタの束縛は飲み会への誘いだけじゃなかった。あらゆる出来事においてオレを束縛しようとし続けたんだ。例えばオレが、
「ゆくゆくは社会保険に入れるキチンとした会社を見つけてそこに就職したい」と言うと、いつも決まってこう言うんだ。
「S物流を辞めるって言うな。そう言われると切なくなるんだ」ってね。恋愛じゃあるまいし、切なくなるもへったくれもないと思うんだけど、とにかくサカタは、オレの「職業選択の自由」という国家から認められている権利すらも決して認めようとはせず、S物流に居続けろと束縛し続けたんだ。
「就業のための勉強がある」と、遠回しに飲み会を断った時もそうだった。
「S物流を辞めるという前提で物事を考えるな」と言って無理やり飲み会に参加させられた事もあった。職安へ行くために車を運転していたら、その一時間の間に二十回ぐらい着信があったなんて事もあった。しかもその事を、
「着信に気づけなかったのは車の運転中だったからです」と言ってもダメなんだよ。
「オレはお前のためを思って色々と面倒を見てやっているのに、お前はオレたちとの付き合いからあからさまに逃げようとしている」って言うんだよ。……いや、そこまで分かっているんなら、オレの事はもうとっとと諦めて他の新人を束縛したらいいだろうに、あくまでも「面倒を見てやっている」と主張して聞かないんだ。いっそ、
「そう思うのならそれはそれで構いません。だからもう僕には構わないでください」と強く言えたら良かったんだけど、サカタにはそれを言いたくても言えない不思議な圧力があったんだ。こんな「圧」の持ち主を見たのは後にも先にもこの時だけだったよ。
仕事の真っ最中にしてもそう、サカタはそれはそれは事細かい事にまでいちいち口出しをしてくるんだ。HSP気質のオレとしては、すぐそばで見られていると思うと気が散って集中できなくなってかえってパフォーマンスが低下するんだよね。でもやっぱりサカタは言うんだ。
「面倒を見てやっている」って。ある現場で行く事になり、同じ車に乗った時もそうだった。
「ああダメだ、オレはコイツの教育係になった」と言い出した事もあったんだ。
「いや、それは違うと思いますよ、たまたま一緒になっただけですよ」と思ったけど、やっぱり言えなかったよ。
ある日、仕事が終わった後、やっぱりサカタはオレを飲みに誘いだした。その時はフジムラも一緒だった。さっきも大太に言ったとおり、オレは、
「大家と階下の人と話し合いになって、その二人を家にはもう上げないと約束した」と宣言していた。それでも飲もうと言うんでフジムラが住んでいる団地のすぐ近くにある公園で飲む事になったんだけど、フジムラのやつ、団地の階段を降りてくるなりいきなりこう言い出したんだ。
「悪いんだけど、今日お前の家に泊めてくれねーか?」ってね。オレは即座に拒否した。
「だから前に言ったじゃないですか。大家と下の階の人と三人で話し合って、その二人をうちにはもう上げないでくださいって話になったって」
するとフジムラは今度はこう言い出したんだ。
「その話、本当なの?」って。
一緒に考えて欲しい。
①「本当なの?」って質問してくるって事は、「嘘だと思ってる」、という事だ。……もちろんこれは大太にだって分かるよな?
②ま、嘘だった事に違いはないんだけどさ、でも、嘘をつくっていう事は、本音では、「部屋に上げたくない」と思ってる、って事だ。……これももちろん分かるだろう?
③ところがフジムラは、その事を分っていないはずがないのに、「部屋に泊めてくれ」って要求してきたんだよ。……んで、もしここで「泊めてもいいよ」と言ってしまったなら、「だったらお前の部屋で飲もう」となるに決まってるじゃん?
④そうなれば当然、部屋で騒がれて階下の男に怒鳴り込まれるに決まってる。……って事になるのも分かるよな?
その時オレの思考は光の速度よりも早く①から④までたどり着いたんだ。んで、こう結論したんだ。
「これからもあの部屋で生活しなくちゃならないオレの事なんか、コイツら少しも考えてないんだ、むしろ逆に自分たちの快楽のためにオレを利用する事しか頭にないんだ、……というよりも、頭にないという自覚それ自体がないんだ。……いや、もう少し正確に言うなら、この二人には他人の意思を尊重しようという発想がそもそも最初から1ナノグラムもなくて、その全部が自分たちの思い通りになって当然と思っているんだ。きっとそうに違いない。このまま行ったら自分が潰されてしまう。もうこの人たちとは完全に縁を切った方がいい」って。
だってそうだろう?
……何も毎回飲まなくたっていいじゃないか。3回に1回、いや、5回に1回でもいいじゃないか。
……何も一時間に何十回も電話して来なくたっていいじゃないか。
……何も人の仕事を逐一監視しなくたっていいじゃないか。
……何も「S物流をやめるって言うな」なんて言わなくたっていいじゃないか。
でも、そう言ったところでこの人たちには通用しないのは今までのやりとりでじゅうぶん分かっていたし、これはもう、逃げるしかないと思ったんだ。当然だよな。
「ちょっとトイレに行ってきます」
オレは嘘をついて飲み会を開いていた公園のベンチから離れた。そんでトイレの死角から、公園までの
オレはそのままS物流を辞めた。とは言っても、実際には自分の方から、「何月何日に仕事ありますか?」と電話しなければいいだけの話だったから、辞めるのは実に簡単だったよ。反対に、事務所から何度か電話がかかってきたけど、「その日は用事があるので働けません」と言えば済む事だったのでやっぱりそれほど問題はなかった。ただ、それからもサカタからは何回も何回も電話がかかってきたよ。でもオレはとにかくそれを全て無視した。電話がかかって来なくなるまで3日ぐらいかかったよ。
ところでこのサカタとフジムラには、あまり面白くない後日談があるんだ。
あれは新しい仕事に
「もしかして、ヤツもオレに気づいたはいいもののすぐに見失っちまったもんだから、それで出入り口で待ち伏せしていたのかな?」って、ところがどうやらそれは違ったみたいで、サカタはすぐに違う方へと目を向けたんだ。その瞬間、オレはこう思ったよ。
「ああ、きっと向こうはオレの事なんか完全に忘れているんだな」って。ヤツの頭の悪さには心の底から感謝したよ。また同時にこうも思った。
「もしもサカタに何かのまぐれで
またフジムラにもこのような笑えない後日談があるんだ。
S物流をやめてしばらく経った後、夜の8時ごろだったかな、ドアをノックする音が聞こえてきたんだ。
「どちら様ですか?」って誰何したら、
「オレ」って聞こえてきたんだ。でも「オレ」じゃ全く分からないんでもう一度誰何したら、やっぱり「オレ」って言うんだよ。ドアの覗き窓を見ても暗くてよく分からないし、仕方なく用心のためにチェーンを掛けてからドアを開けたら、なんとそこにはフジムラがいたんだ。
「久しぶり。遊びにきた」
手にはコンビニ袋を引っかけていたよ。中は見えなかったけど、ガラスとガラスがぶつかる音がしたのは確かだった。きっと酒だったに違いない。それにしても、どうしてフジムラはこうもオレの部屋に上がる事に拘泥していたんだろう。ますますもってしてわけが分からなかったよ。そもそも「オレ」と言っただけで自分が誰だか相手に分かると思っている、その発想がもう理解できなかった。オレはやっぱり嘘をついてヤツを追い払ったよ。
「これから夜勤なんで遊べません」ってね。
フジムラとのやり取りはこれが最後になった。
まるで宇宙人のようにしか思えないサカタやフジムラとの関係は、こうしてようやく終わりを告げたんだ。
……ともあれ、この一件があってS物流を辞めた後、オレはしばらく足が遠のいていた断酒会にもう一度アクセスするようになったんだ。酒飲みがどれだけ人に嫌な思いをさせているのかが嫌というほど理解できた、というのはもちろんある。でもそれよりも、やっぱり、なんだかんだ言って不安だったし、寂しかったんだよな。
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