〈番外編〉
コミカライズ完結記念SS
ビル群の眠らない明かりが水面に揺れる中、静かに鉄の門が閉められる。
東京湾を渡る風が、ライトアップされた庭園を抜けていった。
祝福のざわめきが消えた、結婚式場〝ブラン・マリエ・クラシーク東京〟は、静かに夜の闇に沈む――明かりの灯るオフィスだけを残して。
「あのー、佐久本さん、そろそろ帰りませんか?」
営業企画課課長・水坂の、うんざりしたような声に、ケーキデザイナー兼企画担当・佐久本晶は、はっとしてデスクから顔をあげた。上司とはいえ、年下の水坂は、晶の中では相変わらず威厳がなく……第一印象のまま、かわいいトイプードルのようだった。
「ケーキのデザインを考えていたら集中しちゃって……えっ、もうこんな時間! す、すみません」
時計の針は、すでに夜の九時を指している。申し訳なくなって、晶は水坂に頭を下げた。
「いいです、いいです、もう慣れていますから。とにかく帰りましょう。今日は社長もお疲れでしょうし」
「慧さん……社長が?」
マサキブライダル社長・柾木慧は、晶の夫でもある。
夫は妻の私から見ても、外見もさることながら、仕事にも抜かりのない、素敵な人で……。
晶は心の中で、こっそり惚気る。
「披露宴の最中に、酔っぱらいのお客様とスタッフの間にトラブルがあったみたいで、社長が出ていって謝罪されたそうです。悪いのは酔っ払って暴れたお客様ですけどねえ?」
水坂は声を落として言った。
「わ、私、すぐに帰ります」
ばたばたと鞄に荷物をまとめると、晶はオフィスを飛び出す。
「ま、待ってください。僕も送ってくださいよ」
慌てながら水坂があとを追ってきた。
「お疲れ様」
すると、帰り支度を済ませた慧が、すでに二人を待ち構えている。
「慧さん、平気ですか? 愚痴ならいくらでも聞きますから」
「えっ、愚痴?」
いきなり晶に詰め寄られ、慧は軽くうろたえている。
「お客様のクレームに対応された件で、社長が心労を抱えていらっしゃると、佐久本さんは心配しているようですね。もちろん、僕だって社長を心配していますが」
水坂はメガネを直しながら、事情を説明した。
「なんだ、そんなことか。俺はてっきり……」
「「てっきり!?」」
晶と水坂は声を揃えて聞き返す。
「いや、昨夜、新婚旅行の話の時、俺が海外より国内の温泉がいいと言ったから、疲れていると勘違いされたのかと……」
慧の説明に、晶は顔を赤くし、水坂はじっとりとした目になった。
「まさか、二人して仕事を休んで旅行に行く計画ですか? 最近人気が出てきて、式場の予約が埋まりっぱなしのこの時期に?」
水坂に追求され、たじろぐ晶だが。
「え、えっと……あっ、そうだ!」
すぐさま、ひらめいた。
「水坂課長、今日はお一人で帰っていただけますか? 私たち、寄るところがあるので」
「二人はどちらに? 僕だけ先に帰らせるなんて、ずるくないですか?」
「ずるくはないだろ。今日も一日ご苦労さま」
慧はぐずぐず言う水坂を、裏口に待たせてある運転手付きの高級車へと押し込んだ。
「だけど、寄るところ? どこに?」
「まあまあ」
晶は不思議そうにする慧の腕を取って、夜の道を歩き出した。
「ずいぶん、寒くなったな」
豊洲ふ頭をぐるりと囲む公園を歩きながら、慧は肩を竦める。
社長専用車で通勤する慧は、秋の気配を知らないようだった。
「温泉にちょうどいい季節になりました。そして、近くにいい湯があるんです」
「……もしかして」
インバウンドの観光客で賑わう複合商業施設を、二人は見上げた。
「ここに来るのははじめてだな」
慧の声色に、好奇心がにじむ。
「私たちはこの街に、働きに来ているだけですものね」
それでも晶は、情報をキャッチすることには熱心だった。
「夜は人も少なめなので、ここの上にある足湯に、入っていきませんか?」
これから向かおうとしている温泉施設は、都会にいながら温泉の癒やしを味わえる、憩いの場として人気のスポットだ。気軽に温泉が楽しめる足湯もある。足湯とは、膝から下だけを湯につける入浴法のことだ。
「足湯? いいんじゃない?」
慧はそう言って微笑むと、さりげなく晶の手を握ってきた。
晶は照れくさく思いつつも、まだ新婚みたいなものだから、と自分に言い訳して、手を離そうとはしなかった。
ほどなくして目的地につくと、まずは施設のフロントで受付を済ませ、上階へと向かう。エレベーターを降りるとすぐ、目の前には東京の夜景が広がっていた。
「改めて見ると、綺麗ですねえ」
レインボーブリッジは白くきらめき、ビルの狭間に見える東京タワーは温かな光を放っている。
「夜は静かだな」
慧は晶と違って、夜景にはさほど興味はないようだ。
さっそく、貸し出しの上着を羽織った二人は、冷たい外気を浴びながら、青い光に照らされた雰囲気のある足湯へと足を浸す。
「わあ、気持ちいい。癒やされるー」
晶はすっかりごきげんだ。
「意外とぬるめだな」
慧はまだ仕事モードが抜け切らないのか、どこか慎重になっている。
「慧さん、夫婦はぬるま湯くらいがちょうどいいんですって」
「えっ……?」
晶は「ふふっ」と笑みをこぼしながら、隣に座る慧の肩へと頭を乗せた。
照明は暗いし、人もまばらだし、このくらいはいいだろう。
「夫婦は、熱すぎても冷めすぎてもいけない。お互いを、ちょうどいい温度であたため合うのが、いちばん長続きするそうです」
「なるほど……」
慧は晶の頭をぽんぽんとなでながら、くすりとする。
「でもさ、それって……いつもの、おばあさんの受け売りだろ?」
両親を早くに亡くした晶にとって、自分を育ててくれた祖母は、人生のバイブルそのものだった。
「やっぱり、そう思いました?」
「違う?」
「実は、私が今、考えました」
晶は得意げになって答えた。
「適当だったのか」
慧が不満げに言う。
「だけど、そうかもなって思った?」
「ま、まあ……」
「私、慧さんのそういうところ好き……いつも私の話を真剣に聞いてくれるから……」
結局、こうして慧さんの隣にいる私のほうが、癒やされてるよね……。
晶はしあわせを噛みしめていた。
「何でも聞くから、何でも正直に言ってほしい。本当は新婚旅行、イタリアとかモルディブに行きたかったんじゃないか?」
するといきなり、慧が思い詰めたように言う。何事かと、晶は目を瞬いた。
「何で、イタリアとかモルディブ?」
「人気だから」
「さすが業界人……」
真剣な慧の顔を見て、晶はくすくすと笑い出す。
「慧さんは忙しいし、今は特にそんなに休めないだろうから、私はどこだっていいんです。熱海でも箱根でもどこでも……慧さんと一緒だったらどこだって楽しいから」
「そ、そうか?」
慧ははにかみながらも、まんざらでもなさそうだ。
「温泉がいいって言ったのは……おばあさんも一緒に行けるかと思ったからなんだ」
秘密を打ち明けるかのように、急に慧の声のトーンが落ちる。
「えっ! 新婚旅行におばあちゃんを? それは、ないない!」
同居する祖母を家に一人残して旅行に行くことが、慧は心配なのだろう。
「やっぱり、そうだよな……」
「慧さんの気持ちは分かってます。だから、すごくありがたいです。でも、さすがに新婚旅行までは……おばあちゃんだって気を使いますって。それに、今はおばあちゃんも元気ですし」
「だったら、いいけど」
「ですです」
おばあちゃんのことまで……いつもありがとう……。
慧は、晶にとって祖母がどれだけ大切な人かを知っている。だからこその、優しさなのだ。
ますます慧のことが愛しく思えて、晶は今すぐぎゅっと抱きしめたくなった。
しかし、公共の場であることから、気持ちを落ち着ける。
「いい加減、腹減ってきたな。せっかくだし、寿司でも食べて帰ろうか?」
「いいですね! あっ、でも、今日はおでんだから早く帰っておいでって、おばあちゃんに言われてたんだった」
「そんな大事なこと忘れてたのか! よし、帰ろう。寿司はまた今度」
慧はさっそく、濡れた足をタオルで拭きはじめる。
お寿司も食べたかったな……と、晶は少しだけ残念な気持ちになった。
「ねえ、慧さん」
もっと二人きりでいたくて、慧の上着をきゅっと引っ張る。
「……私たちって、ぬるめの夫婦になれそうですか?」
それから、ずっと一緒にいられますように……と、願いを込めて。
「ぬるめ……?」
慧は軽く首をかしげたあと、
「いや、しばらくは、もっと熱めでもいいかもしれない」
そっと、晶の耳元に囁いた。
「えっ……」
秋の夜風が、火照った晶の頬をやさしく撫でる。
星の見えない夜空の下で、二人は照れながらも見つめ合い、しあわせそうに微笑んだ。
(応援ありがとうございました! タカナシ)
御曹司に誓いのケーキを ビジネス結婚のはずが溺愛されてます タカナシ @birds_play
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