第86話

その言い方が、この戦乱の世を悲観しているように見えて。







…涙に揺れているような、気がして。







顔を見ようと起き上がろうとすると、片腕一本の強い力で抱きしめられた。








「…今だから言うが、いつか家督を継げと言われる気は、何となくしていた。…まさかそなたを娶るとは思っていなかったがな」










その表情が見えなくて、少し不安になる。







すると彼は小さく笑った。









「それもあって…だから最初からやけくそだったんだ。聚楽第で太閤殿下に謁見したときに、そなたをダシにしてあんなだいそれたことを言ったのも」









—————その姫は、我ら島津宗家の大事な姫にございます。…お忘れなきよう。











あの日の聚楽第で太閤殿下に久保様が言い放った言葉が、甦る。








「…もうどうでもいい。家の事など知らない。それで斬り捨てられるならむしろ全てから解放される。…そう思っていた」









その裏にあったその葛藤と苦しみに、唇を噛み締めることしかできない。








同じ人質ではあったけど、きっと女の私より何倍も重かったその心の軋轢あつれき









「家臣達が大事なのは、間違いなく心からそう言える。だから上洛した。





でも、あの頃はもう…ただ疲れていた…」










——————どうして自分に全てを押し付けるのか。








その誰にも言えない心の叫び。







全てが彼の肩にのしかかってしまったから。










顔が見えないからどんな表情をしているかわからないけど、きっと見られたくないんだと思ってそのまま彼の胸に頬を寄せた。








それでも。








「…失望、したか…?」










ふと我に返ったように漏らした久保様の不安そうな声に、あの謁見の日の言葉をもう一度思い出して、笑う。











「いいえ。…ちっとも」









驚いて緩んだ彼の腕の力の隙を見て、起き上がる。







久保様の目には、やっぱり薄く涙が浮かんでいる。








「あの時のお言葉は…貴方様から頂いた初めての贈り物。私の宝物です。…嬉しゅうございました。例え貴方様はやけくそでも…それでも私を守ってくださいました」





  




その頬に指先でそっと触れると、久保様は涙を堪えることなく目を閉じる。











「…お辛かったですね…。お許しください…。気付くことができず…不甲斐なく…」








気づいて差し上げられなかった。







あれだけ、京では近くにいたのに。








話す機会も、たくさんあったのに。








久保様は目を閉じたまま、ゆっくりと首を横に振る。








「…違う…。そうではない…。ただ…」









そう言ったその美しい顔に、一筋の涙が零れ落ちた。


















「……亀寿が私との婚儀を嬉しいと笑って言ってくれたあの日…







…私の世界が一瞬で色づいた…」

















その言葉に、私は泣きたくなる。








桜吹雪は止むことを知らない。







甘えるように久保様は私の膝に頭を預ける。







ふたつ歳下の夫の、心の奥の弱い所…初めて見ていると思う。






見せてくれていること、嬉しいと思う。




   





「…何の為に生きているのか…生かされていのか己でもわからなかったのに、こんな私と共に生きることを嬉しいと言ってくれるひとがいた。その笑顔に…







 …一瞬で心奪われた…」











下からそっとその大きな手を伸ばし、私の頬を撫でてくれる。







嬉しいと、言ったあの夏の日は鮮明に覚えている。






心から、嬉しかったのだから。








その思い出に、涙が込み上げてくる。









「…不思議だな。父上が豊臣に最後まで抵抗しなければ私は人質にならなかった。人質にならなければ亀寿とこうして出会うこともなかった。そなたと一緒になれると思ったら宗家の家督を継ぐことも…受け入れられた」









私の涙を、彼が指先で拭ってくれる。









むしろ家督でも何でも継いでやろうとさえ思えた。世界が変わった。色づいた。……それなのにそなたの帰薩だけが許されたと聞いた時は…どうしようかとさすがに焦ったが」







久保様の帰薩の許しが降りないから、私が帰る前に京都で祝言を上げてしまおうか、と父上や義弘叔父上に言われたのを久保様が固辞したのは覚えている。








それは、もしかして。








「あれは…そうしてしまうと、共に暮らせなくなるから…ですか?」








そっと尋ねると、久保様は小さく笑った。









「…それ以外にないだろ」








言い方が子供っぽくて、でも嬉しくて涙を堪えて笑う。









「…まぁ。なんてひと」








この戦国の世では、祝言だけ上げて形上は夫婦になり、別々に暮らすなんてありふれたこと。








それなのに…共に暮らす道を探してくれた。








「初めて色づいた世界を、逃したくなかった。どうにかして薩摩に帰ってやろうと…その時初めて父上に反発した。豊臣に許しを得なければ無理だと言われたから、ならば貰えばいい、と」








そんな貴方、想像できない。







そんなことを思って、小さく尋ねる。






「確かに…そのお話は聞いておりませんでした。どうなさったのです?」

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