第52話

今日、小一時間ほどかけて往診に来ていたここ…鹿児島市の皇徳寺台こうとくじだいとよばれる住宅街は、島津久保の菩提寺があった場所だと思い出して病院に戻る前にその跡地を通ってみることにした。



 







ハンドルをきって車を走らせるとすぐ、跡地が見えてくる。









今まで存在は知っていたけど、何だかんだ行ったことはなかった。












「…ここ、か」








脇道に車を止めて、運転席から小さな看板がある繁みの中を見つめた。









寺があったとは思えぬ風景だが、間違いなくここだ。











—————永谷山ようこくさん 皇徳寺跡。










島津久保の菩提寺だ。







彼は菩提寺の名前からとって、『皇徳寺殿』という敬称で呼ばれることもある。








ちなみにここ皇徳寺台は、もちろん皇徳寺という寺院があったからその地名になっている。








「なんで皇徳寺なんだろうな…」










島津久保の菩提寺は。









一人呟いて、考える。








墓所は他の島津家の当主たちと同じ福昌寺だけど。






歴代当主たちと同じように、菩提寺が別にある。







気になって素人なりに皇徳寺と久保を調べてみたけど、繫がりが見当たらない。









俺はさっきコンビニで買ったコーヒーを開け口をつけ、皇徳寺跡を眺めながらずっと不思議に思っていることをさらに考える。



 















————————島津家17代目当主は、誰なのかということを。














島津家の16代目当主は、かの有名な九州最強の戦国大名と呼ばれていた島津義久。






そして17代目当主は今現在、島津義久の弟であり、久保の父親である島津義弘ということが通説となっている。







その後の18代目当主は、久保の死後…久保の弟の島津忠恒が継ぎ薩摩藩初代藩主となり江戸時代に突入する。







これが島津家の家督相続の流れだが、俺はずっと違和感を感じている。








…義弘を一枚かませている意味がわからない。



  


 



そもそも義弘が17代目として正式に兄の義久から家督を継いだという正確な記録は…存在していない。






その通説は、九州征伐の後に秀吉から本国薩摩を与えられているのが義久ではなく義弘だから…という理由により江戸時代に立てられ、今では当たり前のように語られている。

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