第31話

深い藍色の直垂に身を包み、侍烏帽子をつけているその美しい姿は。








京で初めて出逢ったあの時と…同じで。











切なさを押し込めるように静かに足を進める。








前を通り過ぎても誰一人として顔を上げる者はいない。









…それを見た途端に、自分の生まれ落ちた境遇が恐ろしくなる。







これだけの数の家臣が女である私にひれ伏すのだから。













————————夫になる…その人でさえ。














上座までの距離は何よりも長く感じて。







久保様の横に立つと打掛を翻し、伏し目がちにそっと腰を下ろす。









するとふと、柔らかな香の匂いが鼻を掠めた。







いつしか覚えた、花のような甘い香りのそれに思わず顔を上げてしまうと。







体は平伏したまま、そっと私にだけ分かるように小さく顔を上げた久保様とばちりと目があった。







皆が平伏しているから、誰も気づかない。








あ、と思うと。








ふわりと優しく…微笑んでくれた。









最後に別れた時より。








…もっと大人に、秀麗になっていた。











ふ…と緊張が解け、私が小さく笑い返すと、久保様はもう一度頭を下げ直す。








そして私も同じように平伏すと、父上が入ってきた。











「…二人とも、面を上げよ」








静かな声に、久保様が顔を上げてから私も顔を上げる。








「…何と似合いの二人であろう。久保。亀寿」











父上の優しい笑顔に、子どもの頃から慈しんでくれたことを思い出して少し寂しさがこみ上げる。










「…これからは二人で手を携え、島津を盛り立てていってほしい。この義久…



————島津当主としての最後の願いである」




 





「…はっ」








綺麗に平伏し答えた久保様の横顔を見ると、彼と視線が絡み合う。








私に向けてくれたその優しい笑みに、私は小さく頭を下げる。








それを優しい顔で見ていた父上は、満足そうに笑う。






そして家臣達にも顔を上げるように促した。










「島津宗家にとって、この今日の良き日を迎えられたのも、ひとえに皆がいてくれてこそだ。…心から感謝する。




…そして…」











小さく呟いた父上は柔らかく皆を見渡すと、深く笑った。




















「……今日この日をもって島津宗家の家督を






————我が義息子むすこ…久保に譲ることとする」





















父上の言葉と共に、私達の後ろの上座に静かに一流ひとながれの軍旗が広げられる。







それに皆が一斉に平伏した。








—————————『時雨軍旗しぐれぐんき』。







そう呼ばれるこれは、島津家に代々伝わる家宝。






歴代の島津宗家の当主に受け継がれていくもの。








これが今宵、引き継がれる。








久保様は後ろに掲げられたそれに振り返ることなく、平伏す皆に静かに言った。











「…皆、面を上げよ」












それに、私もそっと彼に向き直った。







当主となった彼の正室としてその御言葉を聞くために、家臣の誰よりも先に。







そして顔を上げたこの場の皆に凛とした美しい笑みを見せた。




















「…先の戦では皆に苦労をかけた。


島津宗家の家督を引き継ぐ者として心から礼を言う。





————————ありがとう…」











ありがとう、と。






久保様は何の躊躇いもなくその優しい笑顔を皆に向ける。









「そしてこれより精一杯務めて参る所存だが…私はまだ若輩故、力不足なことばかりで申し訳ないと思っている」











そう言った彼は一瞬ふと目を伏せたが、すぐに凛と皆を見据えた。













「…だがこれだけは約束しよう。




今日この日より…皆のことは私が命に変えても守る。 





…例え何があったとしても。」













思わぬ言葉に、驚いて彼のその横顔を見つめる。






だがその瞳は揺らぐことはない。











「だからどうか…私に力を貸してほしい。




そして共に島津を盛り立てていってほしい」











穏やかに…だけど強い声で言う久保様の言葉に、皆が静まり返って聞き入っている。









臆することなく、堂々とした言葉。







彼は島津の当主に何の遜色もない。












「————————よろしく頼むぞ」













その凛とした美しい横顔での言葉に、誰よりも早く私が両手をついて平伏す。







島津久保様の正室として。








それを見た家臣皆がもう一度深く平伏した。











「「はっ!!」」











今ここに。










島津の新たな時代がやってくる。













——————17代目島津当主・島津久保様の誕生と共に。















「…さぁ、島津家の新しき門出ぞ。此処まで来る事ができたのも皆のお陰じゃ。皆の者、今宵は良き日にしよう」









全てを見ていた父上の明るい声に、家臣の皆がおぉ!と声を上げる。








今宵は、満月。








門出を祝ってくれるかのような優しい月明かりの中で、ただ美しい久保様の横顔をそっと目に焼き付けた。

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