「じゃあ、シャワーを浴びてくるよ」

「……うん」

 ベッドからゆっくりと起き上がり、すがるような目で、その輪郭をとらえるように雅久お兄ちゃんを見る。

“ねえ、行かないで”と引き止められないままに。

 洋服タンスの引き出しを開いて衣類を取り出し、それを小脇に抱え、シャワーを浴びるための準備に取り掛かる、淡々としたその姿を見つめているうちになぜだか泣きたくなった。

 こころが、泣きそうになった。

 けれども、こぼれそうになる涙をぐっとこらえる。

『詩子は面倒くさい』と思われて、もしも見放されたら……わたしは生きられず、わたしの存在価値がなくなる。

 ……ううん、わたしに存在価値なんて、ない。

「……詩子?」

「えっ?……」

 と、振り返り、訝しげな表情でわたしを見つめる雅久お兄ちゃんと視線が合う。

 わたしのこころを見透かすようなその眼光がわたしのかんばせに目を据えるとき、そのまなざしに気圧されて、押し竦む。

 ――五臓六腑を刺し貫く、槍のごとく鋭いその眼がわたしの思いを、ことばを、容赦なくズタズタに引き裂き、粉砕する。

『何か伝えたいことがあるのか?』

 そう言いたげな顔でわたしを見る雅久お兄ちゃんに不安を与えぬよう、笑顔で首を振る。

 けれども、上手に笑えないわたしは、彼に結局不安を与えてしまう。

 ――何をしてもうまくゆかない、うまくできない。

 うまくゆかない自分の人生が、うまくできない自分の不器用さがどうしようもなく歯痒くて、もしもこうでなかったら雅久お兄ちゃんをこうして悩ませることも苦しめることもなかったのに、と。

「大丈夫、だから……」

“大丈夫”という大丈夫でないことを裏づけるこの言葉が雅久お兄ちゃんを苦しめ、追いつめる。

 そして、この“大丈夫”に騙されたふりをしてくれる、雅久お兄ちゃんのその残酷なやさしさにわたしも苦しめられ、追いつめられる。

 わたしたちは苦しめあい、追いつめあう。

「……そっか」

 そう洩らし、微苦笑を浮かべ、わたしの“大丈夫”から距離を置いた。

「ごめんね、雅久お兄ちゃん……」

 やるせない、かなしみに充ちた表情で“ごめんね”を伝えた直後、雅久お兄ちゃんがわたしの頭にぽんと手を置いた。

 どきん、耳許でじかに響いた鼓動――。

 頭を優しくなでられ、脈が速くなる。

「っ……」

 そんなにもやさしくされたら泣きたくなるから、抑えている思いがとめどなくあふれ出すから、いまは、いまだけは寄り添わないで、いまは、いまだけは突き放して。

 ねえ、ねえ、お願いだから、お願いだから、雅久お兄ちゃん、雅久お兄ちゃん――。

 寄り添わないでほしいのに、突き放してほしいのに、よわいわたしは、雅久お兄ちゃんが差し伸べる手を振り払わず、それにすがりつく。

「謝らなくていいから、な?」

 わたしの顔をのぞき込み、やわらかな笑顔で気持ちを伝える。遊戯のときとは打って変わり、わたしの目の前にいる雅久お兄ちゃんはいま、わたしのことを遊戯の玩具としてでなく、ひとりの妹として見ている。

 その言の葉、やわらかな笑顔とあたたかな双眸がわたしの中のうつろをあたたかに充たし、ひとりの妹と、ひとりの人間と向き合う、その真っ直ぐな瞳がわたしをやさしく包み込む。

「……うん!」

 わたしの全てを受け入れ、抱きしめてくれる雅久お兄ちゃんのやさしさに安堵した瞬間、わたしのこころを支配する懊悩が消え、わたしのかんばせに心からの笑顔が浮かんだ。

「よし」

 わたしの頭をなでたあと、シャワーを浴びるための準備を再開する。そして、それを終え、洋服タンスを閉めたあと、衣類を手にし、ガチャリと開けたドアをバタンと閉め、寝室を後にした。

 ――こころの距離が縮まっては遠ざかる、こうしたわたしたちと重なるそれ。途端、何者かに満腔を支配され、強く押さえつけられるような圧迫感がわたしを襲う。

 近づいては遠ざかる、掴もうとしても掴めない、浮遊するそのこころがわたしを苦しめる、苦しめ続ける。

 ――暗闇が支配する、電気を消し、黒色の厚地カーテンを締め切った、光を拒絶するこの部屋はまるで深海のように暗い。

 部屋に漂う雅久お兄ちゃんの余韻と、水晶のように硬質な冷たさと静謐さ。いま、いま、あたたかに充たされたうつろが急激に冷えてゆくのを感じる。

 そして、からっぽになる。

 どれほど充たされても、充たしてくれても、すぐにからっぽになるうつろ。

 どれほど充たされても、充たしてくれても、雅久お兄ちゃんという拠り所がわたしの下を少しでも離れるだけですぐにからっぽになるうつろ。

 わたしは、よわい。

 ベッドに横たわり、布団を頭から被る。ベッドに身をゆだねたとき、これがわたしの全てを受け止めてくれた気がした。

 やわらかな羽毛布団、これに包まりながら、わたしを取り巻く現実が、世界がこの羽毛布団のようにやわらかく、やさしければよかったのにと不意に泣きたくなった。

「っ……がく、おにいちゃん……」

 この“つながり”は幸か不幸か。

 この“つながり”に苦しむわたしは贅沢なのか。

 この“つながり”にわたしだけが苦しんでいるのか。

“つながり”という枷と、真紅を共有するわたしたちの残酷な現実。真紅を共有するわたしたちの秘事。真紅を共有しながらも密事におぼれるわたしたちは、理性を捨てた、人道に反する生き方を選んだ哀しい生き物だ。

 制限の支配を易々と超える、超えてしまう魅惑的な咎。この咎は制限の支配を軽々と超える、超えてしまうほどの強い衝動と魔力を持つ。

 それを超え、確固たる意志を持ち、密事に耽る。

 に帰すべきこの“恐怖”をもとめるわたしたちにはいつか罰が下るだろう。

 ――こうした形でしか出逢えなかった、こうした形でしか出逢えなかったから、近親相姦という人道に反する過ちを犯すことでしかしあわせになれない。

 それでも、世間はわたしたちのことをきっと気が触れた男女と後ろ指を指すに違いない。

 けれども、解かってもらえなくても構わない。この禁忌を共有するわたしたちがこの咎を背負いながらもしあわせに生きられるのなら――。

「詩子」

 そのとき、雅久お兄ちゃんがバスルームの付近からわたしの名前を呼んだ。それに驚き、ベッドから跳ね起きる。それから布団を跳ね除け、ベッドの傍に落ちているバスタオルで胸元を覆い、スリッパを履かずに大急ぎで彼の下に向かう。

 足裏を通して体躯に伝わるフローリングの冷たさ。身震いするほど冷たいこのフローリングは、遊戯ののち、わたしたちの間に漂う、寒々としたわびしい空気に似ている。

 あたたかさとやさしさ、この中にすっと忍び込む冷たさ。これらが混ざり合うことで不調和が起こり、不幸が生成される。

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猛毒遊戯 七條礼 @ShichijoAkira

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