3-8:僕が助けてあげるよ
どうしたらいい。
何度も何度も、その言葉だけが頭の中をこだましていた。
ここで事実を話せば二人ともアウトだ。だから絶対に、時計を前に進ませてはいけない。
「少し、時間をください。どう説明したらいいか、わからないことなんです」
どうにかそれだけを口に出来た。
吉嗣は長く沈黙を続けていた。瞬き一つだって見逃さないほど睨みをきかせ、真意を探ろうとした。
「わかった」とやがて彼は肩を落とした。
その後はずっと無言だった。米山桜花だった人間のもとを去り、車で市街地まで送り届けてくれる。これからどうするかという約束も取り付けようとはせず、直斗を下ろすとそのまま走り去った。
どうしたら、いいだろう。
梅嶋家の私室に入ったあとも、ずっと同じことを考え続けていた。千晶が来たら相談するしかないと思う。しかし、千晶は今日もどこかに出かけている。
多分、答えはもうわかっている。それは既に、有明という人物がシステムとしても組み上げてきたもの。だからそれにならえばいいことなのだと、本当はわかっている。
でも、受け入れたくはなかった。
体に毛布を巻き付け、じっと体を温める。考えれば考えるほど、体の奥底から震えが走ってきた。目の表面が乾いてしまい、繰り返し瞬きをした。
どれくらいの時間が経っただろう。吉嗣の車を下りてから、ずっとこの部屋の中で怯えていた。ベッドの下段からでは部屋の時計も目に入らない。
桜花の住処に行った時には、まだ昼頃の時間だった。空は明るく、町にいれば日も照っていた。
でも今は、窓の外が暗く感じられる。遮光カーテンの隙間から見える空は、もう灰色に染まりかかっていた。
直斗は力なく手元を眺める。手の平からは血の気が去り、白く小刻みに震えていた。
そんな風に手の平を見つめていた時だった、
不意に、携帯電話が振動を始めた。
柔らかい布団の上で、黒い電話が小刻みに揺れ動く。液晶が紫に点滅するのを目にし、直斗は脳が急激に冷やされるのを感じた。
「はい」と手を滑らしそうになりながら、素早く電話を取る。
「やあ、元気かい?」
間もなく、電話の先から高い声が聞こえてきた。
意識がぼんやりとしていた。おかげで、声の主が誰なのかわからなかった。
そうする間も電話の相手はかすれた笑いを漏らす。「聞こえてるかい?」と含み笑いをしながら問いかけてきた。
「君、今困ってるだろう。良かったら僕が助けてあげるよ」
電話の主はそう言って、声に愉悦を滲ませてきた。
今は、ただ怖かった。
呼び出しの場所へは、自然と足が動いてくれた。町の地理ももう覚えていたし、何度も通った道なので今なら迷わずに向かっていける。
梅嶋家を出てから五分ほど走り、住宅街の一画へと入り込む。安いアパートの建ち並ぶ区画で、夕暮れにはもう人の通りがなくなっている。
「やあ、待っていたよ」
灰色の塀に背中を預け、宍戸義弥が手を振る。
「僕は君が心配だったんだ。君は数少ない友達だからね。この町に来た他の奴らみたいに、おかしなトラブルで転んで欲しくないと思っていた。だから、僕は君のことをちゃんと見ていたんだよ」
宍戸は自分の胸に手を当て、高らかに語る。
「君が血相を変えて家に入っていくのを見かけたんだ。だからすぐに見当がついたよ。君が何に苦しんでいるのか」
黒いシャツの襟元に触れ、柔らかく微笑んでくる。
「行こう、直斗くん。そんな不安そうな顔をしないで、今から自分の目で確認するといい。もう君は安全なんだって確認できれば、もう何も怖くないだろう?」
宍戸は手を差し伸べる。息を切らせた状態のまま、直斗は相手の背後を見つめる。
灰色の塀の先には、見慣れた木造アパートがある。宍戸は軽やかにきびすを返し、そこの鉄階段へといざなった。
カンカンカン、と不快な金属音が響いてくる。宍戸はステップを踏むように階段を上り、手すりも拳でノックしていく。直斗は力なくその後に続いた。
「さあ、この中だよ。見てごらん」
一番奥の部屋の前へ行き、宍戸はドアを開ける。エスコートでもする感じに、ドアノブを持ったまま手招きをした。
走った疲れはもうないはずだった。それなのに、息の乱れは収まってくれなかった。
まだ街灯がつく時間ではない。空は灰色だが、それでも遠くに淡い夕日は見えている。それなのになぜか、目の前の全てが真っ暗に見えた。
アパートの中は灯りがついていた。奥の引き戸が開いており、そこから光が漏れている。
「さあ、行こうよ」
直斗が戸口で立ち竦んでいると、宍戸はそのまま奥に進んだ。構わずに土足のままで奥の部屋まで進もうとした。
頭に鉛でも詰められた気分だった。頭蓋骨が破裂しそうな痛みがして、油断していると吐き気も込み上げてきそうになった。
直斗は呆然と相手に従い、台所の床を踏みしめる。宍戸もそれ以上は進もうとせず、直斗の背中に手を回した。
そっと肩を押され、直斗はゆっくりと奥の部屋を覗き込む。ずっと目を見開いているため、白い照明がひどく眩しく感じられた。
畳敷きの和室。片隅にはパソコンデスク。中央には卓があり、かつてはそこで穏やかにビーフシチューを食べた。貧しいながらも、温かさの感じられる部屋だった。
心音が高まっていく。息を吸い込むのが苦しくなり、背筋にじんわりと汗が浮いてくる。そうする間も宍戸には背中を押され、前へ進むことを強要される。
一度大きく空気を飲み込み、部屋の奥へ向けて足を踏み出す。
その先で、目を見開かされた。
一瞬、頭の中が真っ白になる。耳鳴りがするような感じがし、一切の思考がかき消える。
次の瞬間、「うあ」と無意識に声が漏れた。それを皮切りに、心の中で何かが切れる音がした。
両手で顔を包み込み、直斗はその場で声の限りに叫びをあげた。
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