2-8:アカがスキ? アオがスキ?
頭がぼんやりしてしまった。
ここ数日は精神的なショックも受けたし、不安も恐怖も怒りも心労も、今までにないくらい味わっていると思う。
でも、切迫した危機感というのは、また別格の衝撃があった。得体の知れない存在と薄暗い部屋で一対一で遭遇する。その強烈さは他とは比べようがない。
そして、その後の大きな落差。あっけらかんと正体を明かす千晶の言葉に、全身から力が抜けた。
とぼとぼと家までの道を歩く。秋に近づいたのもあって、午後の五時の段階でかなり日が落ちるようになってきた。地面に落ちる影も輪郭がぼやけ、妙なけだるさも覚える。
有明のマンションを出たあと、千晶は改めてどこかへ出かけて行った。彼の用事がなんだったのか、また聞きそびれてしまった。
ふと自動販売機を見かけ、千晶の助言を思い出す。少し気分が楽になるかと考え、コカコーラを一本だけ購入した。その場で飲み口を開け、爽やかな炭酸の音を聞く。
口の中いっぱいに流し込むと、わずかに目が覚める思いがした。たしかに気持ちが沈んでいる時にこれはいいかもしれない。
深々と一息つき、冷たい缶を手に持ったまま再び帰路についた。とにかく今日はもう寝よう。芙美たちに有明の件をどう報告するかも考えねばならない。でも今はとにかく、あの部屋で得た毒気を体の中から出しきりたい。
町の中は静かだった。ゆっくり歩いていると眠くなりそうになり、またコーラを一口含む。頭上を仰いでみると、電線の上には何羽もの鳩や雀がとまっているのがわかる。自分はもう慣れてしまったが、この鳥の数の多さについて住民たちは何も思わないのだろうか。
そんなことを考えている最中、ふと目の前の塀の上に、異物があるのを見つけた。
一羽の鳩だった。教室で自分を見ていたのと同じ、灰色のキジバトだった。
相手は微動だにせず、両目で見据えてくる。目が合ってしまうのが嫌で、直斗は向かいの塀へと目を落とす。
千晶からも言われている。当分はこいつらとは関わりたくない。今日は疲れているし、とにかくもう何も起こらないで欲しい。
でも、どうやらそれは許されないようだった。
少しだけ早足になろうとしたところで、背後からも足音がついてくるのに気づいた。ひたひたとした調子で、ずっと後をつけてくる。
背中に汗が滲んできた。コーラを飲んだ時とは別種の刺激が、舌先から脳へじわりと伝わってくる。頭の中に淡い痺れが走り、目の前が一瞬揺らいだ。
振り向いてはいけない、と本能的に理解できた。尚も歩調を速めようとする。
だが、それも出来なかった。
もう少しで角を曲がれると思ったところで、手前の地面に黒い影が現れた。サッカーボールくらいの大きさで、完全な黒一色となっている。向かいからの夕日を受けて、ぼんやりと長い影を伸ばしてきていた。
相手は黄色い瞳でこちらを見てくる。道を塞ぐように道路に座り込み、黒猫はかすかに尻尾を揺れ動かしていた。
仕方なく足を止め、その場で停止する。
背後の足音が追い付いてくる。すぐ真後ろで足を止めたのがわかった。
直斗は手に持った缶を握りしめる。さっきよりも表面が冷たく感じられた。
背後の影が身じろぎする。ジャリ、と小さく地面をこする音がした。
「オメデトウ、ゴザイマス」
いつも通りの『挨拶』が口にされる。気持ちが沈みそうになるのを抑え、直斗はゆっくりと背後を振り返った。
真後ろにいたのは、床屋だった。
腰までの長さの白衣を身に付け、右肘にはカラスを乗せている。頭の頂にだけキュウリのへたを思わせる髪の毛が茂っていて、眉毛も薄くてしょぼしょぼとしている。
「アナタに、シツモンです」
ボッティチェリの言葉が再生される。直斗は肩を縮ませ、床屋とカラスを交互に見る。
昨日の今日でなんなのか、とうんざりする思いがした。
床屋の男が頭を小さく揺すってくる。そして、厚めの唇をゆっくりと動かした。
「アカがスキ? アオがスキ? それとも、シロがスキ?」
直斗は何度も瞬きをした。息を呑み込み、眉根を寄せてカラスを見やる。
今、なんと言ったのか。
「アカがスキ? アオがスキ? それとも、シロがスキ?」
答えないでいると、再度質問が発せられる。直斗は息を吐き、平静を保とうと試みる。
こんなことを聞いて、何を知りたいのだろう。
でも、答えるべきことは決まっている。
直斗は一度大きく両目をつぶり、床屋たちの姿を視界から消す。
「それは、哲学的な問題だ」
再び両目を開け、千晶に教わった受け答えを口にする。
とにかく追い払い、質問自体を拒否したい。
だが、思ったようには事が運ばなかった。
「アカがスキ? アオがスキ? それともシロがスキ?」
床屋は三度目の質問を口にする。「それは哲学的な問題なんだ」と直斗も再度言うが、相手は動じない。
それからも更にどの色が好きかを問われる。付近の塀の上にも別の鳥たちが集まってくる。先程の黒猫も床屋の足元へと移動し、感情の籠らない目で見上げてきていた。
逃げられない。
漠然とそう悟ることができた。ここで質問を拒否し続けていたら、彼らに対する『反逆』と捉えられるかもしれない。
そっと手元の缶を見やる。でもすぐに首を振った。感覚的にだが、この『色』を選ぶのはまずい気がする。血とか炎とか、ろくでもない物しか浮かばない。
頭の中で鐘でも打たれたような心地がしていた。ともすると体が揺れ動き、眩暈で倒れそうになる。
直斗は呼吸が乱れるのを必死に抑え、一度大きく息を吸い込む。
「白だ」
迷った末、そう選択を口にした。
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