2-7:押入れの中の管理人
有明拓郎は学校近くのマンションに住んでいた。
存命中にはその立地を生かし、よく下校途中の千晶に声をかけてきたという。胡散臭さを覚えていたため、千晶はそれが嫌で仕方なかったとこぼしていた。
そんな有明の自室は、今でも彼の名義のままで契約が続行している。
(どこに証拠が残ってるかもわからないからな。あくまでも念のためだ)
賃貸料はどうしているのか、と考えたが無意味な問いだと気づいた。この町の動物たちの力を使えばマンション契約などどうとでもなる。
直斗は合鍵を見つめる。コカコーラのロゴの入ったキーホルダーが付けられている。
(俺も後から行くから、良かったら先に行って現場検証しててくれよ)
マンションは学校のすぐ近くのため、放課後に行ってみようという手筈になった。
午後三時五十分。高校の昇降口を出てから十分ほどで、真っ白な五階建てのビルに辿り着く。夕暮れによってほのかに赤く染め上げられ、市街地の一画に佇んでいた。
千晶はいつも、放課後になるとどこかへ出かけていた。用事はなんなのかと気になるが、聞いてもいいのかどうか気にかかる。
でも、今はそれより先に確認すべきことがある。
雑念を振り払い、合鍵をしっかりと握り締めた。白いコンクリートの階段を上って行く。
四階まで登り、一番奥の部屋の前に立つ。灰色のドアには表札が付けられていなかったが、電気メーターはかすかに動いているのがわかる。迷わずに鍵を差し込んでみると、すんなりと回った。
そっと左右を見回し、ドアノブに手をかける。見たところ監視カメラもないし、他の部屋の住人が出てくる気配もなかった。
ドアを開けるとすえた臭いがむっと襲ってきた。覚悟を決め、直斗は玄関に足を踏み入れる。すぐ横に曇りガラスの窓があるため、室内は暗くない。入ってすぐに台所のスペースが広がっている。靴下が汚れるのが気になったが、靴は脱いで上がった。
この場所で、有明拓郎はかつて殺された。
聞いた事実を反芻し、台所の流しや靴箱を眺める。
(有明は台所の近くで倒れてた。正面から刃物で心臓を一突きにされてな。すぐに絶命したらしいってことだけわかってる)
さすがに掃除はされているのか、床に血痕は残されていない。鑑識によるテーピングなども残されてはおらず、具体的にどこが死亡現場かわからなかった。
洗濯機や冷蔵庫などの家具もそのまま残されている。コンセントだけは抜かれているのか、作動している様子はなかった。
白い引き戸の先に、絨毯の敷かれた居間がある。カーテンは閉められているが、かすかに隙間から日の光も差し込んでいた。
室内はさっぱりしたもので、部屋の隅に机がある以外、一切の家具が存在しなかった。すぐ近くに押入れの襖があるのみ。
念のためにと、部屋の照明部分に目を凝らす。電気傘のついたライトが天井の中央から吊るされていて、直斗は軽く手を触れ、上に何かが隠されていないかチェックする。
そんな風に、捜索を始めた時だった。
ふと、背後から小さな物音が聞こえてきた。
そっと振り返るが、何かが転がった様子もない。青い絨毯が敷き詰められているだけで、他には何も置かれていなかった。
なんだろう、と思って薄闇の中で目を走らせる。たしかに今、『ドン』と何かがぶつかる音が聞こえた。壁に頭でもぶつけるような、そんな柔らかい衝突音が。
押入れをじっと見つめる。静かに息を呑み、音の方向を探ろうとした。
そうする内に、またかすかに音が鳴る。同時に押入れの襖が小さく揺れるのがわかった。
まさかね、とあえて口元を緩めようとする。たしかに鍵はかかっていたし、このマンションは千晶たちの手で管理されている。
だが、期待とは別に部屋の物音は続いていった。
再び押入れがわずかに振動した後に、小さく隙間が開くのが見えた。そこから数本の指が覗き、静かに押入れの戸が引き開けられていった。
さすがにもう、笑っている余裕はなかった。
直斗は一歩後じさり、隙間から覗いたものを直視する。
生きた人間の顔がそこにあった。開いた襖の隙間から、人間の顔が半分だけ覗いている。押入れの上の段の部分に誰かがおり、じっとこちらを窺っていた。
どうしよう、と肩を上下させながら思った。自然と呼吸が荒れてくるのがわかる。なぜ、という思いばかりが頭の中で反響し、どうしても体が動いてくれなかった。相手の正体もわからない。逃げる動作に移るにも、相手の間近に行かねば引き戸から外には出られない。
どうすればいい、と再び頭の中で考えた。
そうして成す術もなく、奇妙な人間と睨み合っていた時だった。
「悪い、大事なこと説明するの忘れてた」
突然、玄関のドアが勢いよく押し開けられた。体をビクリと震わせ、直斗は咄嗟に台所のスペースに顔を向ける。
ドタドタと音を立て、千晶はせわしなく上がってきた。「悪い悪い」と顔の前で右手を掲げ、苦笑いを浮かべてくる。
「そう言えば、『こいつ』のこと説明するの忘れてたんだよな。ニアミスしてたらまずいと思って、急いで走ってきたんだ」
肩で大きく息をしながら、千晶は明かりのスイッチに手をかける。途端に頭上のライトが白く輝き、直斗は眩しさに目を細める。
「説明するの忘れてたけど、別にこいつは無害だから、怖がらなくていいからな」
千晶も瞬きを繰り返しながら、迷わずに襖を引き開ける。先程の顔の主が姿を現し、無表情に見つめ返してくる。
押入れの中には鬚面の男が入っていた。髪も長く伸び、薄汚れた白いTシャツを着ているのがわかる。手前にいる千晶には反応せず、一心に直斗のことだけを見てくる。
「……誰、その人」
「こいつは『管理人』だよ。この部屋の」
千晶はにべもなく答える。意味がわからず、直斗は顔をしかめた。
悪かったよ、と千晶はまた苦笑いし、男の入っていた襖を再び閉める。全部閉めようとするとまた中から引き開けられるが、千晶はしつこく襖を閉めようとした。
「大体想像はつくだろ。こいつはこの押入れの中に住んでて、誰かがこの部屋に入って来ないか監視してるんだ」
「どういうこと?」
「言っただろ。有明の部屋には何か残されてるかもしれないから、部屋だけ留めておいたって。でも、俺たちが知らない間に誰かがここに入り込んだらまずいからな。だから監視する奴が必要だと思ったんだ」
直斗は更に目を細める。千晶は気まずそうに頬を緩めていた。
「実を言うと、この押入れの中は隣の部屋と繋がってるんだ。こいつは普段隣の部屋で生活して、誰かが近付いたのが察知できたら押入れの中に移動して隙間から監視するようになってる。そうやって、有明のことを調べに来る誰かが現れないか、逐一報告するように命令されてるんだ」
「なんでまた」
「念のためだよ。有明が何で殺されたのか、今でも謎だからな。犯人みたいな奴がいて、またここに探りに来る可能性がないとも言えない。だからトラップとして配置してるんだ」
千晶は更に手振りを加え、この男が何者なのかも話してきた。
「こいつは元々ホームレスだったんだが、とてもタチの悪い変質者でな。小学生の女の子が大好きで、一人で道を歩いている子供を見つけたら、体を触るとかの行為を繰り返していた。それを止めるためにも、俺はこいつに『仕事』を与えたんだよ」
ん、と喉を鳴らすしかできない。
「あとはまあ、エコノミー症候群にならないよう、こいつは普段隣の部屋をぐるぐるとひたすら歩き続けている。食事に関しては、同じく命令を下されたマンションの管理人が、定期的にこいつの部屋に弁当を届けるようになっている。そうやって実質二十四時間の体制で、この有明の部屋を監視させてるってわけだ」
何も言えなかった。
残酷なことをしているか、と思ったが、男の素性を聞いたら同情はできなかった。食糧も定期的に与えられているようだし、健康にも気を遣っている。
「びっくりさせて悪かったよ」と千晶はごまかすように笑う。直斗もそれ以上は何も言わず、首を横に振ってみせた。
有明拓郎の死には謎がある。そして千晶たちもそれに警戒している。
彼を殺した何者かは、今もどこかに潜伏している可能性がある。それが何者かはわからないが、もしかするとその相手は『事実』に気づいている可能性がある。
有明や千晶たちの体制にはどこか漏れがあり、そこから事実を掴んだ何者かが、有明を殺害した可能性も考えられる。
そんな人間を放置しておけば、いずれ足元をすくわれかねない。
そのためにずっと、この部屋には『罠』が仕掛けられているのだそうだ。
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