2-2:転校生、瑞原直斗

 東京にいる父は市役所の職員だった。そのため、企業勤めの他の父親たちと違って、転勤も単身赴任の心配もなかった。三鷹にある自宅だって子供たちが生まれる前に建てたものだし、新しく引っ越さねばならない事態は人生の中で一度もなかった。


 だから、『転校生』として紹介されるのは初めての経験だった。


「吉祥寺の高校から編入してきた瑞原直斗くんだ。家庭の都合で今はこちらの親類に引き取られることになったそうだ」

 担任教師が黒板の前で紹介をする。四十を少し過ぎたくらいの男性教諭で、頬骨が出張った顔をしている。頭は角刈りで、伸びきった感のあるトレーナーを着ていた。


 直斗は笑顔を作り、簡単な自己紹介をする。窓側の前から二番目の席に千晶がいるのを見る。彼は見向きもせず、頬杖をついて窓の外を眺めていた。


 これは、彼が決定した方針だった。


(おかしな状況に追い込まれた時こそ、日常的な時間は確保した方がいい)


 異常事態だから学業をおろそかにするというのは、『敗北』を認めることに繋がるのだと。動物たちに支配されるから勉強をしなくていいと決めることは、イコールで『もう元の日常に戻れない』と諦めることに繋がるのだという。


「では、そこの空いている席に座ってくれ」

 担任教師が指示をし、直斗は窓際の一番後ろへと歩いていく。


 十月に入ったので、今は黒のブレザーを羽織っている。赤紫のネクタイに黒の学生ズボン。


 自分用の席に腰を下ろす。机は用意されているが、教科書の類はまだ持っていない。ノートと筆記用具だけを鞄から出し、机の上に並べる。


「教科書、必要だよね?」

 隣の席は女子だった。直斗が準備を整えたのを見ると、自分から声をかけてくれる。「ありがとう」と直斗は言い、相手の方へと机を近づける。


 結構可愛らしい少女だった。顔立ちは少し幼い。目は円らで、頬がほんのりと赤く染まっている。髪はショートでボーイッシュな雰囲気がある。


「わたし、笹原ささはら芙美ふみ。よろしくね、瑞原くん」

 芙美は顔を覗きこみ、朗らかに微笑んでくる。「うん、よろしく」と直斗もつられて笑顔になり、芙美の姿をまじまじと見る。


 現金なものだな、と我ながら思ってしまう。学校など行かず、一刻も早く状況を打開すべきだと決めていたのに、やはり日常も大事かもしれないと今は考え始めている。


 でも、浮かれていられる立場ではない。

 ふと、窓の外へと顔を向ける。


 ベランダの方を見てみると、銀色の手すりの上に異物があるのがわかった。

 滑らかな光沢を放つ鉄の棒の上に、灰色の生き物がとまっている。どこにでもいるキジバトの一羽。それがじっとその場に留まり、まっすぐに顔を見据えてきていた。


 監視されている、と直感で察せられた。


 頭の中にあった淡い空気が急速に霧散していく。

 何も期待するな、と直斗は自分で自分に言い聞かせた。





 千晶には悪いが、忠告を無視することにした。


 この町に来て初めて、一人になる時間がやってきた。


 もう町の地理も大まかには頭に入っている。

 午後の三時半。ほのかに赤みがかった空の下、直斗は電線の上を見上げながら、帰り路を進んで行く。


 現在の自宅である梅嶋家への道の途中に、公営の運動公園がある。


 中央には陸上競技場があり、その傍らには屋内プールのあるスポーツジムが設えられている。競技場の近辺には噴水のある憩いのスペースが用意されていて、犬の散歩に来た老人などが腰を休めている。


 千晶からは、ここが『交信』の主な拠点であると伝えられていた。


 街路樹の植わった敷地内を闊歩し、頭上へくまなく目を走らせる。公園内にはチョコレート色の街灯が何本も立てられており、その真上に鳥が何羽かとまっていた。


 三分ほど歩いた段階で、ようやく目当てのものを見つけることができた。


『彼』は高所には身を置かず、木製のベンチの真上に体を置いていた。


 直斗はショルダーバッグを右手で押さえ、じっとカラスの姿を見下ろす。


「少し、話をしないか」

 間近に人の姿はない。ベンチの数歩先まで歩み寄り、直斗はカラスに声をかける。


 カラスは小首をかしげてきた。いつものように使者を寄越してくることはない。


「今もよく、状況が飲み込めてない。だから、もっと詳しく話を聞かせて欲しい」

 まずは理解が大事だと判断した。


 こいつらは結局なんなのか。なぜ特殊な力を持つに至ったのか。

 彼らは人間を管理すると言っているが、それは動物全体の総意なのか。


「どうして、人間を管理したいと思うようになったんだ?」

 意味がしっかりと通じるよう、ゆっくりと一語一語を噛みしめる。


「お前らは、人間が憎いのか? 人間が動物を殺すから、その復讐をしたいのか? 人間を管理するっていうのは、これから自分たちが世の中を支配したいってことなのか?」

 続けて疑問を投げかける。


「どうなんだ? どうして、人間は管理されないといけないんだ?」

 静かな口調で問いかけ、あとは黙って睨み据えた。


 カラスは身動き一つせず、ただまっすぐに見つめ返してきた。頭の中で何を考えているのか判断できない。


 だが、少しして変化は起こった。


 ボッティチェリはいつもと同じく黒い羽根を広げてみせた。そして小さくひと声鳴く。

 やがて、ゆっくりと足音が近付いてきた。


 夕日を受け、長く伸びた影がアスファルトの上に投影される。影はゆらゆらと近づき、直斗の影と重なり合う地点で立ち止まる。

 背後に誰かがいるのがわかる。だが、あえて振り向かなかった。


「カンリは、ヒツヨウです」


 今日はあの奇妙な挨拶は発せられない。


「なんで、管理が必要なんだ」

「アナタたちが、マチガッテいるからです」

 カラスは嘴を揺らし、質問に答える。


「どうして、間違っていると思うんだ」


 ボッティチェリは首をかしげた。


「ソンザイそのものが、オカシイ。だから、カンリが、ヒツヨウです」


「どう、おかしいんだよ。人間の存在のどこがおかしいのか、ちゃんと言ってくれないと対処のしようがないだろう」

 声を荒げないよう気をつけつつ、カラスに更なる問いを投げかける。


 だが、相手はまた不思議そうに目を向けてくる。


「オカシイものは、オカシイ、です。ワタシたちも、それがシリタイです。なぜ、アナタたちは、オカシイのか。それを、アナタたちに、オシエテほしい、です」


 笑いたい気分になってきた。


 人間がおかしいから、管理して正していくと言っている。

 でも、何がおかしいのかわからない。それを人間に調べてくれと言う。


 矛盾しているにも程がある。


「ワタシからも、シツモン、です」


 直斗は鞄を握る手に力を込める。しっかりと地面を踏みしめ、たしかに立っている感触を得ようとした。


「ワタシたちと、アナタたちは、いったい、ナニが、チガウのですか?」

 質問を発し、羽根を広げてくる。


 何、と呟きながら直斗は一歩相手に踏み寄る。無機質な瞳を覗きこみ、相手の真意を探ろうと試みる。


 動物と人間の違いは何か。


 それはおそらく、先程の会話と同じ内容の問いだ。人間は何かがおかしい。でも、それが何かはわからない。


「それは」と直斗は口を開こうとする。

 ボッティチェリは身じろぎをした。興味深そうにまっすぐ瞳を覗きこんでくる。


「それは多分、感情があるかどうかだよ。怒ったり、悲しんだり、誰かを大切だと思ったり。そういうところが、お前たちとは違うんだ」

 迷った末、そう答えた。


 直斗は瞬きもせず、ボッティチェリと睨み合う。カラスもまったく目を閉じようともせず、黒一色の目を見開いてくる。


 やがて、相手は小さく嘴を揺すってきた。


「リョウカイ、しました」


 言うなり、相手は小さくいななきを発した。それに連動し、背後の影が揺らめくのが感じられる。


 これで話はおしまい。

 そう告げるかのように、カラスは大きく羽根を広げ、空へと飛んで行った。

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