第一章 人類代表
1-1:カラスを拾った
どうしても、空ばかり見てしまう。
午後の四時半を回っても日はまだ明るい。薄い橙色に染められた雲を見上げつつ、
何度も電線の上を見上げ、鳥の姿がないか探してみる。朝方は雀やカラスがちらほらと見られたが、この時間にはまったく姿を見かけない。
JR吉祥寺駅の間近に辿り着いたところで、ようやく数羽の雀の姿を街路樹の上に見つけられる。ピチャピチャとせわしなく、枝の上でさえずり合っているところだった。
のどかな光景だと思う。直斗は脱力し、ぼんやりと鳥たちの姿を見上げる。
どう見ても、この雀たちが人間に悪意を持っているようには思えない。虎視眈眈と人間に反逆する機会を狙っているとは見えないし、そんな能力もあるとは思えない。
でも、できれば彼らと話がしてみたい。
動物と会話できる人間がいたら、きっと便利だろう。
もしもそんな人間がいたら、自分の代わりに聞いてみて欲しい。町で生活する動物たちに、『何か異常はなかったか』と。
彼らの周りにいる鳥の中に、異常な何かは混ざっていなかったかと。
邪悪な何かが紛れ込んで、良からぬことを企んではいないかと。
「ただいま」と玄関のドアを開けながら言う。
返事は聞こえない。でも気にはせず、リュックを玄関マットの上に置き、洗面所でまずうがいを済ます。明かりは点けていないので廊下は薄暗い。手ぶらのまま奥のドアへと進み、リビングに顔を覗かせる。
「ただいま」ともう一度言うと、「おかえりなさい」と二つの声が応えてくる。
この部屋も明かりは点いていない。遮光カーテンは明け放たれ、レース越しにオレンジの日の光が差し込んでいる。それだけを照明とし、母と妹はテーブルの前でくつろいでいるところだった。
広さ十畳の洋風リビング。中央には白いテーブルクロスのかかった四人掛けのテーブル。床には薄い黄色の絨毯が敷かれ、カーテンの色もベージュ色と、全体的にあっさりとした色合いで統一されている。部屋の隅にはガラス棚が配置され、母のコレクションしている紅茶のカップや皿の類が並べられている。
その部屋のテーブルを挟む形で、妹の
「今日も図書館寄って来てたの?」
母がティーカップを手にしたまま聞いてくる。直斗は努めて表情を和らげ、軽く頷きを返してみせる。
「生物のレポート、調べるのが多くてさ」
「ふうん」と母は興味もなさそうにまたカップに口を付ける。向かいの妹も無言のままミントの香りを満喫している。
妹は中学二年にしては大人びた顔をしていて、身長も百六十五センチと平均より高い。日本人離れした鼻筋の通った小顔で、黒髪のストレートヘアー。目はぱっちりとして見栄えがし、最近では隣を歩くのも気後れするようになってきた。
「今からまたちょっと出かけてくるよ。三十分くらい、本屋行ってくる」
冷蔵庫を開け、冷えた麦茶をコップ一杯飲む。
「じゃあ」と短く言い、腕時計を見やりながらリビングを出る。現在で午後の五時少し過ぎ。素早く部屋で制服からTシャツに着替え、直斗は玄関から外に出る。
自転車にまたがり、三鷹の街を走る。途中の信号で止まったところで携帯電話のメールをチェックする。
五分ほど自転車を走らせ、目的の公園に辿り着く。敷地に入ったところで自転車を降り、中の方へと押して進んで行った。
「直斗、遅いぞ」
半ばまで歩いたところで手を振られた。直斗も相手に気づき、軽く手を掲げて返す。
薄暗くなってきた公園の奥に、ひょろ長い影が浮かび上がっている。真っ白なシャツに薄茶色のハーフパンツ。足元はサンダルという出で立ちで、相手は直斗を迎えてくる。
「何やってんだよ。今日も実験するって伝えといたじゃんか」
芳市は相変わらず血色が悪い。頬がこけ、唇も薄い。天然パーマ気味の髪は目元まで伸び、ほとんど両目を覆う長さになっている。
「少し、調べ物してたんだ。カラスのこととか」
言い訳をし、芳市の背後に目線を走らせる。
「まあいいや。それより、今日も凄いこと思いついたんだ。直斗が来る前にも少し実験してみたんだけどさ、やっぱり『ハーブ』は凄いよ」
薄い唇を吊り上げ、芳市も背後に目線を走らせる。彼の背中には青いペンキの塗られたブランコがあり、無人の状態でかすかに風に揺られているのが目に入る。
そのちょうど真上の部分に、一つの黒い影が佇んでいた。
「ハーブ、降りてこいよ。少し散歩に行こうか」
芳市の呼びかけに応じ、青いポールの上でカラスが大きく羽根を広げる。すぐに羽音を立てながら滑空し、芳市の肘の上へと降り立ってきた。
「まずは見てくれよ。今日は、ここでガキどもが駆け回っててうるさかったんだ。だからちょっと『どかして』みた。幼い年齢でも通用するのかわからなかったから、これもまた『実験』としてはいいデータになったな」
カラスをとまらせたのとは別の手で、芳市は公園内を示す。
日は落ちてきているものの、公園内はまだまだ明るい。この公園の広さは中程度くらいで、小学校の体育館くらいの広さはある。いつもならここで小学生くらいの子供がボール遊びをしており、夜遅くにならない限りは人の声が絶えない環境になっていた。
だが、現在は敷地を見回してみても、自分たち以外の人の姿が見当たらない。
「また『やってみた』のか」
「そのためにここにいるんだろ。まあ、とにかく出発だ。やりたいことあるんだよ」
言って、芳市は公園の入り口へと進んで行く。直斗は眉を下げ、自転車に手をかける。スタンドを上げ、芳市に続きながら自転車を押して歩いていった。
敷地を出たところでカラスは電線の上へと飛び移った。芳市はしきりと目線を上へやりながら歩き、目的地へ向かっていく。カラスはそれに従う形で電線の上を移動してくる。
「お、今日もちゃんといやがったな」
通りを一つ抜けたところで芳市は足を止める。道路の先へ目をやり、向かいのコンビニエンスストアの方に注意を促してくる。
特になんの変哲もない風景だ。夕暮れの中でコンビニエンスストアの店内だけが煌々と光を放っている。
その手前の駐車場で、数名たむろする人間たちの姿があった。
年齢は二十歳前後だろうが、見るからにガラの悪い連中だった。坊主頭の男や長く伸ばした茶髪の男。地べたに座ってカップ麺か何かを食べており、道路を挟んだ場所からでも大声で騒ぎ合っているのが聞こえてくる。
「あいつら、いつもあそこいて迷惑なんだよな。俺、ここのコンビニ結構来るんだけど、あいつらいると入りづらくてさ。平気でゴミとか捨ててくし、近所の人も迷惑してるんだよ。あいつらの食ってるラーメンとか頭の上からぶちまけてやりたいと思ってたんだ」
忌々しそうに鼻を鳴らし、芳市が頭上へ顔を向ける。それに反応するようにカラスが彼の肘へと再び降り立ってきた。
「だから、ここで実験。俺が思ってることがちゃんと実行できるのか。学術的な発展にも寄与できるし、迷惑な奴らも排除できて一石二鳥だと思うんだ」
だろ、とかすかに目線だけを向けてくる。直斗は頷くこともできず、ただ目の前の集団を凝視する。
直斗は自転車のハンドルを握りしめる。ぎゅっと手に力を込めて、歯噛みしたい思いを抑え込む。
「じゃあさ、やってくれないか。ハーブ。今、俺が言った通りにしてほしい。あいつらが持ってる物を、お互いの顔にぶちまけ合わせてやってくれ」
愉悦の色を滲ませながら、芳市はカラスに語りかける。カラスは了解した、とでも言うように小さく羽根を広げてみせた。
そして間を置かず、「カァ!」と甲高くいななきを発した。
特にもう、なんの感慨も覚えない。『実験』という名目の趣味の悪いイタズラ。
すぐに、目の前の男たちに反応が出た。
集団の一人がおもむろに立ち上がると、隣の男の頭の上でカップラーメンの容器を引っくり返す。やられた男は湯の熱さに驚き、咄嗟に尻餅をついていた。
男が反応するより先に、また別の男が動く。今度は持っていたカップ焼きそばを直接目の前の相手の顔に押し付ける。かつて見た『パイ投げ』の光景を連想させられた。
あとはとにかく、針で突いたような騒動が広がった。
「てめえ、何してんだよ!」と通りの反対まで怒声が響いてきた。カップ麺を顔面に食らった男はすぐさま立ち上がり、大声を上げて相手の胸倉を掴んでいた。顔に焼きそばを食らった方も同様で、頭の麺をどかしながら唸り声を発する。
実際に麺を食らわせた本人たちは状況が飲み込めないようで、自分がさっき何をしたか、なぜ今責められているのか、何もわからずに首を左右に巡らせていた。
そこからはひたすら、揉み合いが続くのみだった。
「すげえ! 本当にやったよ」
芳市は肩を震わせ、目の前の光景を指差す。こちらの方を振り返り、「見たかよ、今の」とニヤニヤした笑みを見せた。
いつまでやる気だ、と内心で溜め息をつきたくなる。
直斗はそっと傍らのカラスに目を向ける。全ての張本人は我関せずという顔をして、じっとあさっての方へと嘴を向けていた。
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