運命の交換士

滋賀列島

運命の交換

 東京の路地裏に、夜の闇が濃く垂れ込めていた。


 佐藤翔太は、スマートフォンの画面を不安げに覗き込みながら、ゆっくりと歩を進める。青白い光が14歳の少年の顔を照らし出す。掲示板に書かれていた地図と、目の前の風景を何度も見比べては、ため息をつく。


(ここで合ってるはずなんだけどな…)


 翔太の足が、濡れたアスファルトの上をこつこつと鳴らす。その音が、妙に大きく感じられた。


 中学2年生の翔太にとって、この数年は決して平坦な道のりではなかった。両親の離婚、父との別れ、そして母との二人暮らし。慣れない環境の中で、翔太は必死に日々をやり過ごしていた。そんな中で学校で始まったいじめは、彼の心を更に蝕んでいった。


 ネットの掲示板で見つけた噂。


「東京のとある路地裏に、運命を交換してくれる男がいる」


 普通なら信じない。そう、普通なら。


 でも、毎日続く鈴木大介からのいじめに耐えかねた翔太には、これが最後の望みだった。


 路地を曲がると、そこに人影が見えた。


 街灯の下、スーツ姿の男が佇んでいる。20代後半だろうか。端正な顔立ちで、どこか儚げな雰囲気を漂わせている。


 翔太は緊張で喉が渇くのを感じながら、男に近づいた。


「あの…」


 声が震える。


「運命交換士…ですか?」


 男はゆっくりと顔を上げ、翔太を見た。その目には、底知れぬ深さがあった。


「そうです」


 簡潔な返事。それでいて、確かな存在感がある。


 翔太は、緊張で汗ばむ手のひらをズボンで拭った。


「えっと…僕の運命を、交換してもらえますか?」


 男は黙ってうなずいた。


「交換したい相手の名前を言ってください」


 翔太は一瞬躊躇したが、すぐに口を開いた。


「鈴木大介です」


 男は腕時計を見て、少し考えるような素振りを見せた。


「もう少し考えてからの方がいいですよ」


 その言葉に、翔太は首を横に振る。


「いいんです。お願いします」


 男は翔太をじっと見つめた。


「二度と元には戻せません。それでもいいですか?」


 翔太は深呼吸をして、決意を固めた。


「はい」


 男はうなずくと、右手を上げた。


 パチン。


 指を鳴らす音が、静寂を切り裂いた。


「終わりました」


 翔太は目を丸くする。


「え…これだけですか?」


「そうです」


 男は そっけなく答えた。


「夜も遅くなってきました。気をつけてお帰りください」


 翔太は半信半疑のまま、男に頭を下げると、来た道を引き返し始めた。


 帰り道、翔太の頭の中は混乱していた。本当に運命が変わったのだろうか。あの男は本物だったのか。それとも、ただの詐欺師だったのか。


 自宅に着いた翔太は、玄関で靴を脱ぎ、「ただいま」と小さな声で呟いた。


 リビングに向かう途中、ふと違和感を覚える。いつもなら聞こえるはずのテレビの音が、今日は妙に大きく感じられた。


 リビングのドアを開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。


 ソファに座り、テレビを見ている父の姿。


 何年も見ていなかったはずの父が、まるでそこにいて当然のように、くつろいでいる。


「お、翔太か。遅かったな」


 父が翔太に向かって言う。その何気ない一言に、翔太は言葉を失った。


 頭の中が真っ白になる。


 まさか、本当に運命が変わったのか。


 ◇◇◇◇◇


 翌朝、目覚めた翔太は、昨夜の出来事が夢だったのではないかと思った。しかし、リビングから聞こえてくる父と母の会話が、現実を突きつける。


「夢じゃない…か」


 翔太は深呼吸をして、ゆっくりとベッドから降りた。


 朝食の席には、いつもと違う雰囲気が漂っていた。父が新聞を読みながらコーヒーを飲み、母が笑顔で翔太に朝食を出す。この日常が、翔太にはまるで別世界のように感じられた。


「翔太、今日も学校だろ? しっかり勉強するんだぞ」


 父の言葉に、翔太は思わずどきりとした。


「あ、はい…」


 慣れない状況に戸惑いながらも、翔太は学校への準備を始めた。


 通学路を歩きながら、翔太は自分の中に湧き上がる奇妙な感覚に気づいた。今までとは違う自信。そして、どこか高揚した気分。


(これが、大介の気持ちだったのかな…)


 学校に到着すると、クラスメイトたちが翔太に次々と声をかけてきた。


「おはよう、翔太!」


「昨日の約束、忘れてないよな?」


「放課後、一緒に帰ろうぜ!」


 人気者になった自分に、翔太は少し戸惑いを覚えた。そんな中、教室の隅に一人佇む姿が目に入った。


 鈴木大介。


 いつもは自信に満ち溢れていた大介が、今は肩を落とし、誰とも目を合わせようとしていない。その姿に、翔太は複雑な感情を抱いた。


(やっと立場が逆転したんだ。でも、なんだかすっきりしない…)


 授業中、翔太は新しい立場に戸惑いながらも、周りの期待に応えようと必死だった。

 昼休みになると、クラスメイトたちが大介に近づいていった。


「おい、大介。また宿題忘れたんだってな。いつものことだけど」


「先生にチクられたぞ。お前のせいでみんな怒られちまったじゃねーか」


 翔太は、自分がされてきたことと同じ言葉が大介に向けられているのを聞いて、胸が締め付けられる思いがした。


 その時、クラスの中心的存在の山田が翔太に声をかけた。


「おい翔太、いつもみたいに大介のやつ、どうする? お前が仕切るんだろ?」


 翔太は一瞬躊躇した。しかし、今までの屈辱的な記憶が蘇り、気づけば口が開いていた。


「ああ…そうだな」


 翔太は大介に近づき、みんなの前で鞄をひっくり返した。教科書やノートが床に散らばる。


「ほら、みんなで探してやろうぜ。大介の宿題がどこにあるのか」


 クラスメイトたちが笑い、大介の持ち物を蹴散らし始める。大介は怯えた表情で壁際に追いつめられていく。


 翔太は自分の行動に戸惑いながらも、周りの期待に応えようとする自分がいた。そして、心の奥底では、かつて味わった屈辱を晴らしているような、歪んだ満足感を覚えていた。


「やめろよ…」大介の震える声が聞こえる。


 その声に、翔太は一瞬我に返りそうになる。しかし、周りの笑い声に押し流され、翔太は意地悪な笑みを浮かべた。


「何言ってんだよ、大介。俺たちは宿題を探してるだけじゃないか」


 教室は歓声と笑い声に包まれ、大介の悲鳴はかき消されていった。


 このいじめの渦中で、翔太の心は複雑な感情が交錯していた。快感と罪悪感、復讐心と同情。そして、自分がかつてのいじめっ子と同じ道を歩み始めているという恐ろしい現実。


 放課後、翔太は友人たちと楽しそうに下校する一方で、独りぼっちで帰る大介の後ろ姿を見つめていた。


(これでいいのか? 本当に俺は…幸せになれたのか?)


 その疑問が、翔太の心に重くのしかかっていた。


 翌日、翔太は複雑な心境で学校に向かった。昨日の出来事が頭から離れない。


 教室に入ると、大介の姿が目に入った。机の上に落書きがされ、「バカ」「ウザい」などの言葉が踊っている。大介は肩を落とし、誰とも目を合わせようとしない。


(昔の俺みたいだ…)


 翔太は大介に同情を覚えたが、周りの友達に声をかけられ、すぐにその感情を押し殺した。


「翔太、今日も大介をからかおうぜ!」


「そうだな、昨日は最高だったよな」


 翔太は曖昧に頷いた。心の中では葛藤が渦巻いていたが、新しく手に入れた人気を失いたくない気持ちが勝った。


 昼休み、いつものようにグループで大介に近づく。今日は大介の弁当箱を奪い、中身をゴミ箱にぶちまける遊びが始まった。


「おい大介、お前の弁当なんて虫けらにでも食わせとけよ」


 翔太は自分の口から出る言葉に驚きながらも、周りの笑い声に酔いしれていた。大介は黙って耐えているが、その目には涙が光っていた。


 ◇◇◇◇◇


 そんな日々が1週間ほど続いた頃、翔太は学校の屋上で一人の時間を過ごしていた。


 突然、ドアが開く音がして振り返ると、そこには大介が立っていた。


 大介の目は虚ろで、手には何かの紙切れを握りしめている。


「翔太…なんで俺なんだ?」


 その声は震えていた。翔太は言葉につまる。


「何で俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ?お前に何かしたっけ?」


 翔太は息を飲んだ。自分がしてきたことの重さが、今になって押し寄せてくる。


「大介、俺は…」


 言葉が出てこない。大介はゆっくりと翔太に歩み寄り、手の中の紙切れを広げた。そこには「さよなら」の四文字。


「もう、限界だ」


 大介の声が風に消えそうだった。翔太は恐怖に駆られ、大介に手を伸ばす。


「待て!大介!」


 しかし、大介は翔太の手を振り払い、フェンスに向かって走り出した。


 翔太は必死に大介を追いかける。フェンスを乗り越えようとする大介を、翔太は渾身の力で引き戻そうとした。


 しかし、その力が逆効果となり、二人は絡み合ったまま、屋上から転落してしまう。


 落下する中で、翔太は目を閉じた。


(大介のつらさは、俺が一番わかっていたはずなのに…)


 地面に激突する直前、翔太の意識は闇に包まれた。


 ◇◇◇◇◇


 静まり返った葬儀会場。遺影の前に花が供えられている。


 参列者の中に大介の姿があった。うつむいた表情で、時折体を小刻みに震わせている。その隣に立つ母親は、硬い表情で正面を見つめていた。その目には悲しみよりも、不安と恐れの色が濃い。時折、周囲の冷ややかな視線に気づくたびに、肩をすくめる。


 会場の前方には、悲しみに打ちひしがれた翔太の両親が座っている。父親は肩を落とし、母親は涙が止まらない様子だった。


 空気は重く、張り詰めている。


 参列者たちの間で、小声の会話が交わされていた。


「亡くなられた翔太くんは可哀想だけれど、大介くんを虐めてたらしいわね」


「私も娘から聞いてたわ。ある意味自業自得かもしれないわね」


 その言葉が、張り詰めた空気の中に冷たく響く。


 大介は、その言葉を聞くたびに体を縮こませた。彼の目に光はない。


 会場の最後列の席にはあの男が座っている。


 運命交換士の男だ。


 誰も彼に違和感を感じている様子はない。


 葬儀が進む中、運命交換士は無言で式を見守っていた。


 式が終わり、参列者たちが去り始めると、彼はゆっくりと立ち上がった。


 誰もいなくなった会場で、運命交換士は翔太の遺影の前に立ち、小さくつぶやいた。


「The grass is always greener on the other side.」(隣の芝生は青く見える)


 そして、小さくため息をつきながら付け加えた。


「少し待った方がと忠告したんですけどね。交換しなくても大介くんのいじめからは解放されていたのに。」


 運命交換士は静かに振り返り、会場を後にした。


 運命は誰にも予想できない。ただ、与えられた運命の中で必死に生きるしかないのだ。

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