第3話C.――卯月――


 忍が篭もってから四日が過ぎた。忍は、操子に対し唐突に、姉さん、あたしちょっとだけど休みが欲しいの、と〝宣言〟して、それから自室に入ったきり出て来なくなった。いつもの抑鬱症状の始まりとはここまでは一緒で、そうやって〝お籠もり〟の情態に這入ると平生は一日六、七時間程度の睡眠で自足する筈の忍の睡眠サイクルはまるで一変し、一日九時間でも十時間でも寝ているようになるのだが、此度の忍の〝お籠もりさん〟は一日七時間から八時間も寝ていると大体寝臭い自分の床の空気に辟易してでて来るような感じであって、それを見た操子は、これは今回の〝お籠もりさん〟と云うのはひょっとして内因性のもの、つまり精神神経科領域の原因があるものではなくて、外因性、つまり心理臨床の領域に因のあるものなのでは、と考えた。そう考えた操子は、ある朝ぼうっとした顔はしているがどうにかこうにか起きて来た妹をつかまえて、

「今日はあたし、一日オフを取ろうと思うの」と言った。「先月もけっきょく、何だかだで一日も休みがなかったしさ。忍さん、助手席に座ってていいから、ひとつドライブにでも行かない?」

 と誘ってみると、忍は案外素直に頷いて、

「いいね。仙石原もきれいだろうし、湖畔のあのレストラン……、あああたし、おフロ入ってないんだっけ」

「おフロならいつものとこで済ませればいいわよ。その代わりあと一、二時間で出なきゃならないけど」

「あたしは大丈夫よ。母さんはどうする?」

「母さんは行かないみたいよ」

「そう、じゃあ、決まりね」

 と云う訳で、ふたりは午前九時過ぎには早々に車上の人となったのであった。国道一三四号線から西湘バイパスに入り、おんぼろのカリーナは制限速度ぎりぎりをキープして走った。この道路も時おり覆面パトカーが出没するのだ。操子は走行車線にはり付いて走らせたので、せっかちな大型トラックや颯爽としたスポーツ・カーはどんどん速力を出して追い抜いてゆく。操子は橘料金所をETCのレーンで抜けると、湘南サービスエリアで一服し、再び車を駆った。そして石橋料金所には行かず左手に入ると、国道一号線に流れ込んで走ること十キロほど、宮ノ下を過ぎて小涌園や彫刻の森の近くにその温泉はある。その日も浸かっている客は姉妹のほかにたれもおらず、操子は忍の背中を流してやった。操子は忍の顔色を窺ったが、ふつうに抑鬱の強い時とはやはり違いがある。操子はふむ、と考えても余り気に留めぬようにして、アクセルを踏み込み、国道一号線の最高地点を抜けて、っと大芝の交叉点に来た。ここで右折して北上する。そう容態はわるくなさそうだが、むっつりとして中なか口数が多くならないので、操子は会話を諦めて音楽をかけた(このカリーナは、六連奏のCDチェンジャーがディーラーのオプションで付けられたクルマとしては最終世代のものだろう、と操子は考える)。大芝の交叉点からは箱根湖尻など遊覧船や大涌谷のロープウェイの発着場を幾つか過ぎると道は少しく山道になり、それから尚も進むと視界が開ける。

 仙石原は車の数も尠なく、いい天気だった。春先のことで、空気も清々しい。

「ちょっと降りてみる?」

「そうだね…」

 操子が車を後にすると、忍も土の上にスニーカーを履いた足を下ろした。イグニション・キィは抜いた操子は、忍が車外に出るのを確かめるとリモコンのドア・ロックを掛け、まだ穂の出そろわないススキの原を山の方に向かって歩きかけたが、すぐに忍が、そろそろ戻りたい、と言い出したので車に戻った。

 湖畔のレストランは予約外だったが何とか這入ることができた。待たされたけれども食事もでき、きっちりデザートまで平らげる妹を見て、双子の姉は思わず心の中で眉を上げていた。

 一と足遅く車に戻った操子はイグニションを回した。 

「まぁ、元気なようだと分かったわ」ハンドルを回しながら操子は言った。「心配した甲斐はあったみたいね」

「元気そうに見えるみたいだけど」と忍。「あたしにもいろいろあるのよ。これでもさ」

「病気のこと?」

「ン、まあね。その他あれこれ」

「何かあったの?」

 こう直截に問うと、

「――うん…」

 と言葉尠なながら返答はする。いきおい操子は、

「なあにッ!?」とたつんのめってしまい、「しかして復た痴漢に遭ったとか?」

 忍は薄く笑って、

「違うちがう、そんな殺伐とした話じゃないよ」

「――じゃあ、一体何なの?」

 忍はじっと操子の顔を見た。忍の顔は思ったより顔色が悪く、目は白目が大きく見える――、これは操子が、気鬱くんご来駕らいがの兆候の一つとして数えている要件に該当していた。ムリにつれ出さない方がよかったかな、と操子は内心で密かに後悔した。

「あたしね」と忍。「どうも人を好きになっちゃったみたいなのよ」

「だっ誰?」操子は三度つんのめる。「しっ施設のひと? 朝倉さんとか神部さんかい?」

「違うわよ」と忍。「あたしにだって美的感覚はあるわ」

「じゃ誰?」

「そんなの言う必要ある?」

 忍にそう出られると操子には返す言葉がない。忍の言うとおりだった。忍も一応社会人の端くれ、自立した成人として扱ってやってもどこからも異議は出まい――、いな、そう扱うべきなのだ。忍が今誰に恋していようが、それは忍の勝手だ。

 操子はいっぽん取られたが、一、二度咳払いすると、

「それあ、誰を好きになられようがああたの好き好きよ。だけど、ああたちょっと辛そうみたいだから、それで今日はちょっと声を掛けてみたってワケなのよ。話したくなかったらいいわ。遅くなる前に帰りましょう」

 とエンジンを掛けた。

 操子が黙しているとどうやら忍の方が我慢しきれなくなったものとみえて、

「あのね」

 と声を発したので、日除けのサングラスを掛けた姿で、操子は忍の方をちらと確認して、

「うん」

 と促した。

「鈴之木さんなのよ」

「あらあ」と操子。「上智で一緒だった? 哲さんかい?」

「いいえ」忍は根気よく続ける。「そちらでなく」

「こないだ会ったとかいう方?」

「そうなのよ」

「んーっ」操子は言葉にならぬ声を発する。「そうするとォ。あたしの存じ上げているほうの、鈴之木常さんのことね?」

「そういうことになるわね」

 すると、豈図あにはからんや、操子はいきなり笑い出した。何とか車は狭い路肩に停めて、ハザード・ランプをつけたが、その後はハンドルに覆い被さるようにつかまって痙攣するようにして、必死で笑い声を肚の底からしぼり出している。

「ご免なさい」

 一頻り笑った後で、操子はステアリング・ウィールにかかった長い髪を除けて、笑いの間歇的な発作とともに眼球の涙腺で産生され頬をつたう涙を手の甲でぬぐい、口許はまだひくつかせながら言った。

「どうかしたの?」

 怪訝かいがの表情をうかべる忍に対し、操子はもう一度謝ってから、

「常さんのことは……、あたしも表面上のことしか知らないけど、まあ変わった方だと思うわ」

「それが……」

「うん、あなたが好きになったならそれはそれだけど、先方があなたのことをご指名になって来る場合ならかく、オミットした方がいいと思うんだけど…」

「合わない、って言いたいの?」

「――ん、必ずしもそう言いたいワケじゃあないんだけどね、忍ちゃんってホラ、どっちかと言うと常識的なタイプじゃない。常さんはそういう感じって余りしないし」

「例えばどういうとこが?」

 操子は方向指示器を操作して車を出した。

「例えば、少し前の話になるけど、こないだも」と言って操子は運転しながら〝電話アナログ・シンセサイザー事件〟のことを搔い摘まんで話して聞かせた。「――まあ、こんなこともあったしね。これ、話さなかったっけ?」

「いいえ」

「そうお。それなら心のどこかに留めておく価値はあるわね」

「うん。変人なんだ?」

「いえいえ」操子は否定する。「必ずしもそう言いたいワケじゃあないんだけど。ただ……」

「ただ?」

「四角四面、ってひと、物堅いひと、って感じではないわねえ」

「ふうん」

 それからふたりは来た道をほぼ逆に辿って自宅に帰った。操子はこの日の疲労感が妹に与えるダメージを慮って半ばびくびくしていたのだが、忍は忍で感得するところがあったものと見え、翌朝は平常通り起き出してもりもり朝食も食べ、いつも通う時間に家を出たので、母親もほっと胸をなで下ろして、

「昨日出かけたのはどうやら成功だったみたいだねえ、忍は」

 と言った。


 鈴之木常はちょっとした〝地獄〟にいた。仕事上のことで、こうまで追及されることは生まれて初めてだったのだが、同時に二重もの疑獄におかれて毎日の通勤が囹圄れいぎょにでも這入りに行くようなものとなった今、どうしてこの痛苦を心やりするか、大いに悩んだのであり、ふだんズンドコ運転でやっているC調な常には大いに堪えたのである。

 事件は初手、単純なものであるかに思われた。常の勤務する業界では中堅どころの翻訳会社で起きた、コーディネイターによる二〇〇万ほどの使い込み。ふだんなら、その女コーディネイターをチョン首にして弁済がなければ警察に被害届を出し、というコースを辿るべきもので、じっさいそうなりかけたのだ。ガバナンスの問題などもあるかも知れないが、まずこれで落ち着くはずだった。

 コーディネイターが自身の妊娠を表明し、しかのみならず、相手は他ならぬ常だ、との旨をほのめかす発言を残すまでは。

 常は孰方かと言えば(いや、決定的に、か)いい加減な人間、と見られることの方が多く、それで時どき損をして、十回に一遍の具合で得もしたが、今回この件では常は熟々「もう自分が自分であるのは厭だ」との積極的な感慨を抱くようになったものだ。常は然しながら、意地のない人間ではなかったから、簡単に屈服したりはせず、弟の哲にも相談はせず、もち堪えていた。常は楽天家だったから、話は間もなく沙汰止みになるのでは、と思ったのだが、然しながら精確には五月の七日に巻き起こった本件は、いわゆるゴールデン・ウィークという冷却期間を挟んで一週間を経ても一向に沈静化する気配を見せなかった。社の同僚はと言えば、男性社員は一部で距離を置いて付き合うものがいる程度だったが、女性社員となるともっと露骨で、まともに常と言葉を交わすものはいなくなってしまった。常が偶に外回りで外出し、用向きが済んだ後で外出先から架電すると男性社員がでた時ならまだいいのだが、女子事務員が出た場合などは、下手をすると一と言も交わさぬ前から電話をその場でガチャ切りされることも往々にしてあった。これには常はほとほと困じ果せ、往復の電車に乗るときなど、偶さかプラットフォームに入線してくる電車にとび込んでしまおうか、などと常らしからぬことを考えたりしていた。こんな時、いちばん得がたい聞き役は母親である筈だったが、母は数ヶ月前から自分から入る、と言い出して施設に入居してしまっていなかったし、哲は哲で最近は「おK《けー》っすの会」とか云う新宗教団体とトラブっているとの話をちらりと聞いているし、元よりドライなたちなので痛苦を偲ぶような〝お言葉〟は期待できない。同情の言葉が聞きたいなら、臨床心理士に相談してくれよ――と云う言葉が聞こえて来そうだ。

 常は時おり心中で、先日電車の中で遭遇した青山忍という女性のことを思い起こし、とても床しく懐かしい思いを味わったが、その思いは間もなく泥のような現実生活にとって代わられてしまう。

 ――やれやれ、オンナという生き物も付き合ってそう悪くはないものかも知れないが、ちょい注意が要りそうね。

 常はこれを堅く自分の魂に彫り込むのであった。

 そんな夕刻、社を後にして新橋駅まで歩く常のスマートフォンが鳴った。相手は着信メロディ――、ブルー・オイスター・カルトの〝お前に焦がれて〟で分かるが、哲だった(自宅の番号である)。

「お疲れ」

 と哲はいつものようにぼそぼそと言葉を口にする。それは情を通じると云うよりは単に電話機を必要事項を連絡するための装置としてしか看做みなしていない、と云う人間の態度である。

「ああお疲れサン」

 常は上機嫌を装って返辞をした。

「あの、兄貴、明日の夜は空いてる?」

「もち」常は即答した。「おいらはしがないサラリーマン。週末以外なら夜は大抵空いてるヨン」

「あそう。四ツ谷駅に午後六時、どう?」

「うん、〝OKっす〟…、おっと、口が滑った、あい失敬」

 が、哲はどこ吹く風で、

「うん、じゃあそういうことで…」

 と言ってそれ切り通話を切った。

 その晩、常は哲とは顔を合わせなかった。哲は音楽雑誌に載せる原稿が〆切りに近くなると時おりこういうことがある。が、この日の常はやはり平生と変わらず帰宅したのだが、と云うのも夕食やそれに続く体育系の部活はまだ先で、ほっけの開きを焼いたの、あとはサラダくらいだ。それを感知すると、常は階下でひとり晩餐を済ませ、先にシャワーも浴びると、冷えた缶ビールを開けた。二階からはかすかに弟の哲がPCのキィボードに向かって打鍵する軽く鋭い音が聞こえて来る。常は明日の約束に就いてなど、いくらか確認しておきたい事項もあったのだけれど、それは断念して先に休むことにした。兎に角この所、日中に受けるストレスが大きすぎて、胃がキリキリと痛んで仕方がなかった。常はウィスキーもロックで一杯飲んだが、胃袋のことを考えて酒はそこまでにした。                 

 翌朝常が起き出したとき、哲は既に起きていたのか、家にいたのか、はたまた既に外出した後で蛻の殻だったのか、常には定かに言うことはできない。人気がしないことだけは慥かだが、それは即ち哲が不在だということではない。哲はどうやら自分の気配を完全に消すことができる技術を身に付けているらしかった。常はその人気のしない家の中でグレープフルーツ・ジュースを飲み、珈琲は薄めにつくり、トーストと卵を仕度して、食慾はまるでなかったけれども、どうにか朝食をしたため、歯を磨き顔を洗って他出の準備をした。

 常は午前九時三〇分の列車に乗り、例によってグリーン車に席を占め、行きがけにドトールでもとめたアップル・ジュースを飲みながら、仕事で必要な書類に目を通していた。しかし、ともするとその思念は今の自分を取り巻くどす黝いもの――、それは単なるいじめと云うよりはもう少し陰険な陰謀だと云えそうだった、兎も角その問題の方に向かってしまう。ここはるかるか、自分がこれまで肉體関係を持ったことがあるのは弟の哲だけだということを正直に言ってしまい、カムアウトしてしまおうか、とも考えたが、それはそれでまたリスクがあるようだったので、軽々になすことではないと判断して、結句当面は何もせずただ拱手して傍観するより他に手はないことに落ち着いたのだった。

 その日は定時で上がれたので、常は仕事が退けると真っ直ぐに中央線に乗り換えて四ッ谷へ向かった。四ッ谷では過去にも哲と何度か待ち合わせをしたことがあったが、孰れも待ち合わせ場所は上智大学方面の出口近くで、ということだったから、今回もそうだろう、と踏んで改札口近辺でぶらぶらしていた。哲は非常にパンクチュアルな人物で、滅多に遅刻はしない。それはこの日も同じことで、待ち合わせ時刻の午後六時の五分前には哲は姿を見せた。

「よお。おつかれ」

 哲は一つ頷いて、

「じゃあ行こうか」

「どこへ? 予約でもしてあるっての?」

「ああ。――その前に、ひとがもう一人増える」

「へえ。知り合い?」

 青になった横断歩道を渡りながら、

「ああ、もちろん」

「こんな方角にいるんだ?」

「うん。ぶっちゃけた話をすると、大学で教えているんだよ」

「あ、そうなんだ」学歴混じりの話になると常はヨワい。「おれ、神大の出身だけど、顔を出していいっすかね?」

「もちろんさ」哲は常をちらりと見て、「今夜は別に、学歴と酒を飲む訳じゃあない。安心して来てくれ給え」

「くれ給え、ときたか。だば、拙者もせめて正々堂々と助太刀してつかまつるべえよ」

 常がへんな表情をうかべて見せると、哲は真顔で点頭してみせたので、常はずっこける。

「哲っちゃん、チミはちょいテンポが合ってないようじゃけん」

「ああそう、ご免」哲は素っ気なく返す。「――ああ、そっちじゃない、こっちだよ」

 上智大学の四ッ谷キャンパスは敷地が狭い。いきおい建築物は亭々ていていと上層へ伸びることになるが、それに立ち後れた恰好のビルディングが幾つかあり、代表格は現存する建築物の中でも最古参の一号館であるけれども、それに勝るとも劣らぬのが講堂を擁する十号館である。哲は足早に十号館へ向かうと、エレベーターのはこを呼んで上階へ向かい、外国語学部ドイツ語学科の教員の研究室が並ぶ一廓いっかくへと兄をつれて行った。常は、

「何でえ。哲っちゃんの出た学科に呼び込むワケ?」

 とぶつぶつ言ったが、哲は、

「兄貴の願いを叶えるためにここへ来たのさ。まあ文句は言わずひとつ付き合ってくれよ」

 と珍しく下手に出るので、常は哲を立てて黙ってついて来た。

 哲は、品良く並ぶ研究室の一つ――「高橋亮」と名札がついているドアをノックした。間もなく中からどうぞと言葉があって、哲はドアを開けた――、常も続けて中に這入はいったのだが、二人はそこで固まってしまった。書類、書類、書類、プリント、プリント、プリント、和文わぶん横文おうぶんの書籍、書籍、書籍。これらが凡そ四畳半乃至六畳ほどの広さの研究室兼教授室の床一面、デスク一面に散らばって収拾が付かなくなっている。そしてその机の向こうで完爾として客人を迎えるのがこの研究室の主つまり高橋亮なる男らしい。顔立ちは細い目元が気になるが全体としては唐沢寿明に似ていなくもない。高橋はたち上がると、

「ああ、どうも久しぶりだ、鈴之木くん。成る程、さすが一卵性双生児だ、こうやって並べてみると孰方どっちがどっちだかてんで分かりやしない」

 哲は、

「妙な理解の仕方は止めてください。しゃべり方をみれば直ぐ分かるはずです」

「そ、そ、そうそ」常は続ける。「出身大学を聞いても直ぐケントー付くはずっしょ」

「ああ、成る程ね」高橋は笑った。「直ぐに分かるね」

「そうよお」と常。「何せこちとら、神奈川大学の出身ですから」

「一応間違いのないように言っておきますがね」と哲。「慥かに神大なんですが、給費生でしたからね」

「へえ」と高橋。「そりゃ大したもんだ」

「それじゃあそろそろ行きますか」哲が言った。「早くしないと、予約時間を過ぎちまいます」

 三人は十号館を出て、ぶらぶらと北門の方角へ向かって歩いた。哲と高橋亮は常の知らない人間の消息や月旦を取り沙汰している。常はむろんこの辺りは不案内で、ふたりの交わす人間に関する情報もこれからたどるべき道筋も全く知らないから、ふたりの後について歩くほかない。若しどこで左に折れるとか分かったら、いきなり駆けだして一と足先に曲がり角を曲がってそこで白目をむいてひっくり返っており、ふたりのことを待ち構えていてびっくりさせてまた同時に三人で大爆笑のような仕儀に至るような〝作戦〟もないでもなかったのだが、大学教授と音楽評論家みたいなお堅いのが相手ではちょっと勝ち目がない。詮方なしに常はふたりの後についてぶらぶら歩いた。常の察するところ、どうやらふたりは何やら魂胆話こんたんばなしの最中らしいので、妙な言動で注意を惹くのは却って逆効果だろう。

 そうして自分の平生とは逆人格――、つまり沈黙を強いられて、常がもうこれ以上は拷問に等しい、頼むからひと思いにばっさりやってくんろ、と泣いて懇願しようと思ったその時、哲がふり向いて、

「兄貴、お待たせ」と言った。「着いた、ここなんだ」

 と弟の差す手指の先を見ると、豪壮な欧風建築が、狭い通りにも拘わらずでんと構えて建っていた。

 弟の哲を先鋒に、兄の常をしんがりにして三人は中に這入はいった。

「ここはドイツ料理店なんだよ」哲は常にささやいた。「ソーセージでビールを一杯やると、堪らんよ」

 弟の言葉通りだった――、常はソーセージにもビールにも一発で参ってしまい、間もなく醺々くんくんぜんとなってしまった。それとみた哲は、高橋教授を促して、

「なあ兄貴、こないだ言ってたひとの件なんだけど」

「ぬぁあにぃい!? こないだ言ってた野郎だとォ? それはコイツか、ソイツか、それともあそこのアン畜生のことかよおぉ!?」

 常は平素酒乱ではない。ふだん酒はごく綺麗な方である。ただこの時は、勤務先で由なくいじめに遭っていたことなどが重なって悪酔いしてしまったものらしい。それを見て取った哲は、高橋を促して、

「ほら高橋さん、例の人の件を」

 と言った。言われた高橋は脇に置いていたアタッシェ・ケースを開けて、中から革装の書類を一冊とり出した。

「何だね、そりゃ?」と常。「卒業アルバムかね?」

「ご明察」と高橋は言うと、ページを開いて常の目の前におし遣った。「これ、この人だろ?」

 常は目をこすって卓子の上を眺めるのだった。

「こりゃあああ……」ボソッと言うと次の瞬間、「要するにだ、哲っちゃんとこの仁をくっ付けたいワケだ。それでおれの助太刀が必要になった、と……そうやろかいッ!?」

「違う、ちがうから」

 と高橋と哲は異様なくらい熱を込めて否定する。哲は、懇々と、

「ホラ、兄貴、ちょっと前に話してくれたじゃないか、電車の中でちょっと……、それとも〝かなり〟かな、気になる女性と行き逢った、って。これ、その人だろ?」

 常はそう言われて、「ン?」呟くと、酔いで赤くなった目をしきりとこすって写真のひとを眺めた。

「違うかい?」

 高橋教授に問われて、

「ああ、いや、多分この人で間違いないけれど」言って、気味悪そうに。「一体どうやってこの人だと特定できたのよ?」

 哲はなかば得意げであるのが岡目傍目にもみてとれる。

「それはね」と高橋教授。「この写真の女性に会えたら、直截聞いてみるがいい」

 哲も、

「この忍さんがすっかりご承知だから」

「ふむ」鼻を鳴らして常はヴァイセン(淡色)のビールを一と口飲んだ。「――で、きみらはこの女性を」

 高橋教授と哲は口をそろえて、

「もちろんあなたに紹介しようと言うんですよ。付き合えるように」

「先方はそれ、ご存知なの?」

「いえ。これから知らせます」

 常は神妙に、

「そうかい」

 とだけ言って、サラミ・ソーセージを一片つまんで考えるそぶりを見せたので、哲は、

「おい、おおい。〝そうかい〟でなくてさ」

 常は咀嚼して嚥下し、ビールをもう一と口啜ると、

「うむ」と言った。「きみらぁのご厚意ぃには、まことにぃかたじけなくぅ礼のぉ言葉もぉなぁい。然るにぃ拙者とぉしてはぁ……」

 常はそこで固まってしまったので、哲はその脇腹をつついて、

「ホラ。まだ話が途中だろ」

 常はうつむき加減になって続ける。

「……拙者ぁとぉしてはぁ、拙者をぉ取り巻くぅ昨今の事情にぃかんがみぃ…」

「何か変だよ、今日の兄貴」哲は低声で言った。そして、常の顔を下からのぞき込んで、「どうかした?」

 そこで常は到頭おいおい泣き出して、

「どうかしたもこうしたもないんだよぉ」

 とビールをごくごく飲み干して突っ伏してわあわあ泣いた。

 いきなりの急な展開に哲も高橋教授も息を吞んで見守るだけだったが、軈て哲が卓子の上で突っ伏する常の二の腕に触れて、

「なあ、兄貴、何かあったのは分かるが、説明してくれないと分からんよ」

 そっと言ったので、常もっと涙をこらえて、顔を上げると、時おりしゃくりを立てながら訥々とつとつと話して聞かせた。話し終えると、復た悔しさがこみ上げて来たのか、ビールを啜っては涙に暮れる。

「大体問題は分かったよ」と高橋教授。「でも、この程度の問題なら、この人が何とかしてくれそうなものだけどなあ」

「そうですねえ」と哲。「こないだの列車内で示した慧眼けいがんと云い、ぼくもそんな気がしますよ」

 高橋は常の肩を叩き、

「鈴之木くん」と話し掛ける。「きみの悩みは分かった。が、その程度の話なら、この青山忍さんという女性が力になってくれる……、あいや、解決に至る道筋を示してくれると思うから、是非一度会ってみたまえ。ここではうまいことは中なか言えんのだが」

「胃炎はおいらの方ですよ」と常は顔を上げながら言った。「青山忍さんね。慥かに、こないだの電車の中で、初対面に違いないのにボクらが双子の兄弟だと云うことを立ち所に看破してしまったしね。ある意味で傑出した才幹さいかんの持ち主だと言えるのかも知れない」

 哲は、

「じゃあ兄貴、高橋先生に細かいところはお願いすることにして、この人と会ってみるよね?」

 常は黙したまま点頭した。

「じゃあ、話は決まりだ」高橋は嬉しそうに言った。「じゃあ、青山さんにはぼくの方から声を掛けてみるから、然るべき時に連絡するよ」

 哲は顔の前で手を合わせると、

「まことにかたじけないことで」と言った。「よろしくお願いします」

 それから哲は机の下で常の足を蹴飛ばして促し、ふたりで雁首がんくびそろえて、

「よろしくお願いします」

「……お願いします」

 と頭を下げたのだった。

 それからも三人はワインを飲みながら愈々いよいよ元気のよいおだを上げた。常もそれ以後は泣いたり暴れたりすることはなく、和気藹々とのこりの二名との会話に興じていた。軈て高橋教授が明日の下読みをしなくてはならぬと言ってこの珍妙な〝会〟はお開きとなった。

 帰途、哲は駅前からタクシーを拾おうと言ったのだが、グリーン車があるなら鉄路で大丈夫だ、と主張したのでそうすることになった。

 乗り換えの東京駅でふと哲が、やれやれ、めでたいね、と口にすると、常はそれをきき咎めて、

「めでたい、だとぉ? めでたいのは哲っちゃんの頭の中じゃないかね」

 と言った。哲は、

「なに? じゃあ、めでたくないとでも言うの?」

 すると、常はやや引っ込んで、

「うむ、めでたい……、めでたくはある。然しね、本音を言えば、〝めでたさも中くらいなりおらが夏〟とでも言うべきものでね」

「さっきの話の女性のことかい?」

「うむ、それもある。だけど、それだけじゃあない」

「それだけじゃあない、って後は一体何があるんだよ?」

「それが、うまく言葉にできないから厄介なんだよな。ちょうど、宇宙空間にあると言われる、ダーク・マターと似ていてさ、あると思えばない、ないかと思えばある、そんな感じのものでね、いやそれよりも宮沢賢治による座敷童の描写の方が当を得ているか、十二人いるところで数えてみるとなぜか一人多くて十三人いる、けれども顔ぶれをみると知った顔ばっかりだ……」

 哲はそんな御託にはきき飽きた、とでも言いたそうで、その時列車がごとりと動き出したのでそれをいいことに車窓の外に目をやってそれ切りまともにとり合わないのだった。常はその後もアリュージョンを用いて哲を説破せんと試みるのだが、どのような引喩を用いても弟の注意を惹くことは能わなかったのである。

 常もその日の疲れがあって軈て寝てしまい、自分とうり二つのその寝顔を見た哲をして、

「やれやれ、兄貴ったらやっぱり仕合わせなひとなんだなあ」

 と呟かしめたものである。


 青山家で捷報をうけ取ったのは、母親の鏡子であった。高橋亮、鈴之木常、哲の一行が会合を持ってその翌日のことで、高橋亮がじぶんの研究室から架電したのだった。高橋教授は現在学科の三、四年生を中心に講義をもっているので、この二学年の学生たちが必修科目を持っていて、質問をしたり或いは駄弁りに亮の教授室を訪うことのないように意図して時間を選んだのである。

「はい、青山でございます」といかにも淑やかに電話に出た鏡子だったが、「ああ先生、いつぞやは忍が大変お世話になりまして」からだんだん亮のペースに乗せられるようになってしまい、間もなくその口調は、「はい、まあ左様でございますけれど……、とんでもございません、滅相もない……、ええ、まあ、うちのはそうなんですけれど……」と段だん怪しげで胡乱な口調、ちょうど搭乗した飛行機が実はそれまで聞いたこともないLCCの路線だったことに気がついてできればフライトの前に降りたいのだが、と言い出しかねている乗客の語気になって行ったのだが、最終的には高橋教授の弁口に押されるようになり、到頭なし崩しの形で教授の言を容れる恰好になったのである。

 電話が済むと、鏡子はえず、相談事がある時のいつもの癖で、姉の操子を呼び(この姉妹は、年齢差はたかだか二〇数分に過ぎないのにも拘わらず、なぜか周囲のものはとかく姉の操子を頼りにして、妹の忍のことは、「まあ、妹だから」という風にしか見ないひとが多かったのであるが、果たしてそれはいかなる訳合いによるものであろうか)、かくかくしかじかなのだが、一体どんなものか、と半ば否定的な返辞を期待して高橋亮の言葉を伝えた。じっさい、鏡子はその返答の際に大っぴらに誇示する予定だった、〝否定的な言辞をうけた際のためのムード〟なるものを準備よく前もって眉宇に漂わせていたのだが、それは当てが外れた、と云うものである。なぜなら操子は、その話を聞いてすぐ、「ええ、それ本当? 若し本当なら忍さん、きっとよろこぶわよ」と言ったからだ。

 鏡子としては、忍をよろこばせることよりも、まず忍は病身の娘であるから成る丈この話はなかったことにして貰いたい、それにこんなことに〝長幼の序〟があるとは思わないけれども、忍には操子という立派な姉者がいるのだから、健康体であることだし、できればこの操子の方を先に嫁にやりたいものだ、との頭があるらしかったが、操子はその話を聞いて早速気もそぞろになったらしく、浮き浮きと歩き回り、就労支援B型の施設に出て不在の忍の帰りを待つのだった。

 鏡子は、忍の帰宅の前に火を鎮めておきたいらしく、「ねえ操子さん、あなた本気なの?」と問うたが、操子は「ええ、もちろん本気よ、忍さんにとってもいい機会じゃないかしら」と答えるのであった。

「わたしはねえ、どうにも……」

 とまだ渋る鏡子に操子は、

「そりゃあ母さん、不安になるのはよくわかるけどね」と操子。「こういうことって、タイミングの問題だからね。それに別に先方だって。いますぐお嫁に来て欲しいなんて言ってる訳じゃあないですもの、取り敢えずどこかでゆっくり話ができれば、ってことなんでしょう? 断るのなら、それの後にしたって遅くはないわよ」

 と言うので、鏡子も一応不承ながら了解したのだった。

 やがて忍も帰宅したので、お茶を入れ旁々かたがた鏡子が話を切り出すと、忍はややうつむき加減になって筋を聞いていたが、一と言いいわよと返辞をした。鏡子はいいって言っていったいどっちなのよ、と更に追及したが、その時操子がダイニングに降りて来て、その場の雰囲気からそれと察してみたものらしく、

「よかったわね、忍さん」

 と声を掛け、忍もあかくなりながら「うん」と答えたので鏡子にも娘の意思が伝わった次第である。

 鏡子は尚も、

「いいこと、忍は健康が第一なんですからね。成る丈なら病勢によくないことはさせたくないのよ」

 とぶつぶつこぼしていたが、忍が、

「母さん、あたしは大丈夫だからそんなに心配してくれなくていいよ」

 と言ったので鏡子も漸っと静かになった。

 その晩、夕食の後で焙じ茶を飲みながら操子が、

「どうお?」

 そっと問うと、双生児の妹は、

「うん、嬉しいな」

 と返辞をしたのであった。それを聞いて、操子も手放しで喜ぶ心がけになったものである。

 翌日、木曜日は就労継続支援B型は休みなので、忍は直接大学の恩師の教授室に架電して礼を述べた。

 高橋亮は、

「まあ、ぼくは月下げっか氷人ひょうじんあたりが適当な役どころですから」

 と笑っていた。そして、その上で、面晤めんごの日取りに就いては希望があったら言いなさい、と述べたので、忍は、じゃあ次の日曜がいいです、と伝え、

「分かりました。鈴之木くんにも伝えておきましょう」

 と言って通話を終えたのであった。


 いっぽう、珍しいことに常は愈々口数が尠なくなっていた。

 日取りが決まったと高橋教授から連絡を貰い、それに対して応諾する返辞はしたものの、それを契機に衰退するかと思いきや、常の不機嫌はますます以て盛んになるので、弟の哲も少しく気にしてあれこれと気を遣ったのだけど、孰れも著効を示すものではなかった。

「何なんだい、兄貴? 最近ふさぎ込んでることが多いみたいだけど」

 常は暫く黙していたが、大蛇はもう疾うにバスルームの隙間から侵入を果たしているとの報を受けて、では屋内どこから捜索を行うか、それを決める段になって大揉めに揉め、すったもんだの末に居間から始めることに一決して、ふたりで手分けして捜索したところ、大型だが大人しいボアのようなやつが常の寝室に這入り込んでいることがわかり、まずそいつを外に出るよう促して、小一時間ほどの格闘の末にどうにかそれを外に出したのだった。常は冷蔵庫からプレミアムモルツを二本とって来て、一本を弟に渡し、ふたりは黙然とビールを飲んだ。

「不安なんだよな、端的に表現すると」

 常は白みかける窓外の景色を見ながらぼそりと言った。

「不安?」

「ああ。話じたいは悪くない。しかし、どうもこう、とんとん拍子に行き過ぎている感が否めない。これは兇兆だぞ、とおいらの中で誰かが叫んでる。お蔭でこの所厭な夢ばかりみるよ。美女と結婚したはいいが、肝腎な時に役に立たず、その結婚相手が〝鈴之木常はホモセクシュアルです〟というプラカードを掲げて大っぴらに行進する……、とか何とか、そういう夢ね」

「ああ」哲にも思い当たる節があるらしい。「気になるなら、テストしてみれば?」

「テスト?」

「そう。幾ばくかカネを払って、果たして役に立つのかどうか……」

「お前さんは非常に実践的なんだな」常は蒼白い顔にうっすらと微笑を泛べて言った。「おいらにゃそんなことは思いも付かなかった」

「むろん、余り褒められたやり方ではないよ。それに、ビョーキになるリスクだってないではない」

「……うん」

「ま、よっぽど気になるなら、ってことだけどね」

「うん。――えと、日取りはいつだっけ?」

「四日後だ」

「そうだったっけ」常はたち上がった。「今朝はまだ早いからおれはも少し休むよ」

 哲は寝室へひき取る兄者のどことなくうら寂しげな後ろ姿を見送った。


「お兄様の方は明るいご性格のようでね」

 と月下氷人を買って出た高橋教授が常をそうやって紹介した。

「いやあ」と常は鼻の頭を搔いて、「ぼくのは〝明るい〟と云うよりは〝あ、軽い〟と云った方でして」

 そう述べると一座は笑いに包まれた。

 藤沢駅のほど近く、釣具屋やダイビング・ショップやサーフ・ショップの並ぶ一廓にこのクラブはあった。そこのオーナーと哲が知り合いで、そんな訳で個室の予約も造作ないことだった。

 教授は牡蠣をとり分けながら、

「常さんは神奈川大学の外国語学部を給費生として然も主席でご卒業しているんです。……だが、なかなか悩みも多いようで。最近も……、ね?」

 常は話を振られたが、珍しく今夜は訥弁になっていてなかなか饒舌に舌が回らない。

 そこでジントニックのグラスを卓子においた忍が、

「何かおありだったのですか?」

 常は、

「いやあ、あったも何も野暮な話で……」

 とはっきりしないので、哲が代わって説明の労を執らねばならなかった。

 一と通り話を聞いた忍は、一と口冷たいカクテルを含むと、宙を見つめるような、少しばかり遠くを見るような目つきをして数秒経ってから、

「その女性は、今は福島県にいるわね。どこか病院――、閉鎖病棟、精神科病棟に入っている筈です。大きな病院だわ、そうね大学病院みたいなところ」

 一座は水を打ったように静かになった。

 常はビールを啜り、

「どうして分かります?」

 と酔いかけた目で問うた。すると姉の操子が、

「妹はとっても勘が鋭いんです」と言った。「もう十年も前の話ですけど、あの頃飼っていた猫がいなくなったことがあって、友だちにも応援を頼んでさがしたんだけどどうしても見つからなくて。それでいなくなった二日くらい後に、急にこの子が近所の家の庭木の桐にいる、と言い出して、半信半疑で行ってみたら木の股に挟まれて動けなくなっていて…、ひとを呼んで手伝ってもらって降ろしたんですけどね、まあそんなことがありましたよ」

 高橋亮教授は興味を惹かれたらしく、シーフード・リゾットを食べながら、

「おもしろいですね。何でも分かるんですか?」

 と問うた。

「いえ」と忍。「必ずしもそういう訳ではないんです。感情的な繋がりがない人のことは、曇りガラスを通して眺めるみたいによく分からないことが多いんです。――感情的繋がりと言いましたけど、好悪(こうお)関係なく孰(いず)れかの感情で繋がっていればたちどころに分かりますね。今回もそうですが」

 教授はそこで納得したらしく、

「じゃあこの鈴之木常くんとはもうお似合いのカップルだ、ってことだね」

 と言ってリゾットのお代わりをとった。忍はみるみる耳まで赧くなった。

 食事会が終わったのは、午後九時半である。哲はタクシーを呼んだ。車の中で、哲は双子の兄にむかって、そっと、「どうだった、兄貴?」

 と問うた。常はバックシートのヘッドレストに頭をあずけ、目はねむったまま、

「いいんでないの。――結婚しておいた方が何かと体裁もいいしさ」

 ぼそりと答えた。

 

 一方、青山家の姉妹は、帰りの道中、お互いの腹中を探り合うような感じだったが、鈴之木家はどうやら素封家なので丁度いいのではないか、と云うあたりの話で落ち着いたのだった。


 常は週明けから四日間会社を欠勤した。名目上は有給の消化ということだったが、自宅でノンビリする傍ら、電話を駆使してあちらこちら数カ所に架電した。

 まず、近しい親族に警察庁の幹部がいるという同僚を選んで午前十時の休みに電話した。それを筆頭に、会社の幹部やOBらにも掛けた。春眠暁をとは云うが、日頃の疲れが出て常は三、四時間ばかり華胥(かしょ)に遊んだ。それから起き出した頃に折り返しの電話が掛かってきた――、その電話のシュリンクのない返答に出ると、常はだいぶ気が軽くなったとみえて、幾らか口数が増した――、とは言っても哲は今鉄道路線の取材で富山県婦負郡に出かけていたので、孰れのギャグも独り言であったが。兎も角、ふたりは早めの夏休みと云った風情の休暇をそこで過ごした。

「電話では何て?」

 と休憩してソフトクリームを舐めながら哲が問うと、常は久々に哲に見せる笑顔を泛べて、

「警視庁の高島さんには福島県警に問い合わせて貰ったのよ。果たしてそんな名前の患者がいるのか、若しいたら果たして臨床心理士の世話になっているか、ってね。そうしたらドンピシャ、って感じだったァ。同姓同名で年齢も一緒のオンナのクライアントがいます、って来たもんさ。それで今は反省して、できることなら謝りたい、と言ってるんだとさ。会社の小倉クンにもその旨伝えといたから、後ほど確認して折り返す、と言ってたけど、もう問題はないんちゃうかな。いやあ、今回は胃の腑が煮えくり返るような思いをしましたわ、こんな思いはもう懲り懲り、ですね、正直なところ。しっかし、あのオンナはまたとんでもないタマですわ。もう信じられん」

「けど、最終的に解決したみたいだし、いいじゃない。よかったじゃない」

「ま、ね。でもね、いっときは死んじまうんじゃないか、という思いをしてね」

「まあ、命あっての物種だからねえ」

 この後、常から同僚たちを通じて会社の方にもこの話の〝真相〟が伝わって、常に対する非人道的な処遇は速やかに収束したそうである。

操子と忍は成る丈お互いに時間を作ってふたりでゆっくり話し合う機会を持つようにしていた。その中では、常は兎も角として、哲は繊細で線が細く、生きづらそうだ、ということになって落ち着いた。操子は微かに赧(あか)くなりながら、自分は哲の方に関心を抱いているのだと珍しく正直に告白した。

 ある夕、ふたりがそうやって駄弁っていると、不意に忍が「あ」と小さく叫んでカウチの上でのけ反った。これだけで操子にも、忍の側にまた〝ヴィジョン〟すなわち幻視が訪(おとな)ったのだということが明らかに知れ、操子はいつもの機転で咄嗟に妹が舌をかまぬように口の中に右手を突っ込んでやって、あとは白目をむいた眼を閉じてやり、それからは静観していた――、コロリとそちらの側へ行ってしまった忍は小一時間で〝戻って〟きた。その忍の謂いによると、常と哲のふたりの内どちらか……、蓋し恐らく哲の方が、いまちょっと複数名の構成員がいる団体とのトラブルに巻き込まれ掛けていて困っているのでは、とのことだった。操子は、それはこないだ常の方が言ったことなのでは、と問うたが、忍はきっぱりとあちらは既に解決済みよ、と主張して譲らない。

 忍がうるさく言うので、試みに操子が哲のスマートフォンに架電すると、哲はその話をあっさり認め、実はこないだから御茶ノ水の辺りで〝おKすの会〟の信者たちに囲まれて二進も三進もいかない状況にあるのだ、と述べた。

「いま現在そういう感じなのですか?」

「そう。――もうそろそろウチに帰りたいんだが、簡単には帰して貰えないみたいなんだ。実に困ったことに」

 忍はそこで、〝力〟を発揮・行使することに決めた。

 忍はじぶんのフィジカルな三次元での筋力とはまったく別箇に一種のパワーを発揮することができ、相手が少数であろうが多数であろうが関係なく三次元的な力を行使することができた。

 今回も忍は、額にそっと右手を触れると、次の瞬間にふっと大息を吐き、操子に済んだわ、と言うた。操子は、もう一度哲に電話をしたのだが、哲は大いに安堵したといった感じで、信者たちは皆水の中に落ちて行ってしまったよ、それも瞬息のうちに、ひとり残らずね、と言ったので、操子も病身の忍の秘める霊力というか魔力には大いに畏怖の念を新たにしたのである。


 操子は、哲を救ったのは偏に忍の有する一種の霊的な膂力(りょりょく)によるものだと告げたので、哲は是非ともひと言お礼が言いたい、として、その二日ほど後になって青山家をひとりで訪れた。

「先日はどうも失礼しまして」

 忍が挨拶すると、

「こちらこそどうもありがとうございました」

 と哲は控え目に言った。そして、あの時はあの妙ちきりんな宗教団体の下っ端の平信徒どもに囲まれて、入会するとのサインをして拇印を捺せ、と迫られてまことに困っていたんですよ、と付け加えた。

 操子がそこで割って入って、こんな玄関先で立ち話ではなんだし、上がって貰ったら、と言ったので哲は一階のリビング・ルームに通された。

 操子はココアでも淹れるわね、と言って室を去り、ふたりは居間に残される形になって、暫しふたりとも黙した。

 しじまを破ったのは哲の方で、常はあなたのことはじぶんには過ぎたお嫁さんだと言っていますよ、と言ったので、忍は片えくぼを泛べて微笑んだ。

「そう言えば、こうやってさしで話をするのは大学のとき以来だったわね」

 忍のことばに哲は頷き、

「またく、あの頃はまさかこんな形で、こんな関係性で再会するなどとは夢にも思わなかったな」

 哲の言葉に忍はくすくす笑った。

「あなたたちって、いっぷう変わったご兄弟よね」

 その言辞をうけて哲は簡単に頷き、

「ええ。だってゲイですから」

 と言った。忍はまだ片微笑みしていたが、その表情は不意に凍り付いたようだった。

「ゲイ?」忍はそっとおうむ返しに問うた。「同性愛者だ、ってこと?」

 哲はうなずく。

「そうです」

「まじ?」

 復(ま)た点頭する。

「――え、それって、あたしたち承知してないんだけど」

「そりゃあ、お伝えしていませんでしたから」

「それ、ふたりで、ってこと?」

「はい。ぼくと兄貴の常とで。――間違いのないように言っておきますが、第三者の介入してきたことはありませんので」

「――でもそれ、重要なことよ。まあ、まだ結納をとり交わす前だから、破棄するのは簡単だけど……」

「その判断は、あなた方にお任せしますよ」

 その時熱いココアのマグ三つを載せた盆をもって操子が室に這入って来たので、ふたりは咄嗟の判断でしぜんな感じに話頭を転じた。操子も何かあったらしいことは勘付いたようだが、肝腎の内容は既に雲散霧消しているのでつかみ所がない。けっきょく、哲はゆっくりとココアを味わって飲み終え、十五分ほどしてから青山家を辞去したのだった。

 操子が問い質すまでもなく、哲がいなくなると間もなく忍はそのことを話した。操子もさすがに驚いたようだったが、カップを静かに卓子におくと、

「うちのあたしたちだって似たようなことをやっているんだし、お互い様じゃないの」と言って、果ては、「せっかくあちらさんがカムアウトしたところで丁度よかったんだし、あんたもあたしたちのことを話せばよかったのよ」

 と半ば詰るようなことまで口にした。忍はそれはちょっと下唇をかんで(しまった)といったような表情を泛べたが、

「――でもお姉さん、あたしは納得よ。だって、鈴之木哲くんって、いつ会ってもひとりでいたんだもの。仲のいい友だちって、いなかったんじゃないかしら」

 と言って締め括った。


 哲はその晩、夕食をとりながら兄の常に話をした。

 常もさすがに吃驚したようだったが、

「――んで、先方の反応はどんなだった?」

 とビールを飲みながら聞いた。

「反応も何も、驚いたことは驚いたみたいだったけどね、ぼくが予想したほどの驚愕とかではなかったね」

「そうか。――んま、どうせいつかは話さなきゃならなかったはなしなんだし、早いほうがいいかね。これで結納の前までにあちらさんからキャンセルの話が来ないかぎりは安心できる、ってワケだ」

「……ううん」

「どした?」

 哲は首をひねって、

「うん、うまくは言えないんだけどさ、ウチのこの関係の話をして、もっともっとびっくりされるんじゃないかな、へたするとドン引きされるんじゃないかな、って事前に予想していたんだけど、はるかにその辺りが軽微だった、つまり驚きの度合いが小さかったんで、ぼくはちょっと意外な感じがした。ま、誤差の範囲内だったのかも知れないけど」

「うん。ひょっとすると今どきそう珍しくはないのかも知れんぜ。兄弟でオカマ掘り合う仲、ってのも」

「それはどうかねえ」と小首をかしげ、「ところで兄貴、自信はついた?」

 常は特定の気分の時にしか吸わないたばこの箱を出して、ウィンストンの一ミリに火を付けながら、

「うむ。半々、だねえ。――んま、お前さんがうまく、って言ったらおかしいけど、カムアウトしてくれたから、気軽に〝失敗〟できるわな」

 そう言ってあまり面白くなさそうに笑った。

 哲は晩餐ののち、珈琲を淹れてVSOPのブランデーを少し注ぐとそれを持って二階の自室にひき取り、スリープに入れてあったデスクトップPCを起こして仕事を始めた。まず、仕掛かり中だったインタヴュー記事の翻訳・文字起こしを済ませ、書きかけだったCDアルバムのライナーノーツも分厚い資料集やレファレンス、辞典などと首っ引きで仕上げると、それぞれメールに添付して納品した。これで先方からクレームやリライトの要請が来ない限りは仕事が済んだことになる。

 ブランデーが適度に溶け込んだ珈琲を飲んで気分がメロウになった哲はコンピュータのモニタを見ながら、そうだ最近はPC一台で仕事が完結するんだよな、ということをおもい出し、それなら久しぶりだし、今夜は時間があるし、いっちょ行ってみるか、と考えて、〝とぶ〟ことにした。

 じぶんが〝とべる〟ことは双子の兄にはまだ話していない。抑も、〝とべる〟ことそのことにしたって自分で気付いてからまだ三月も経っていないのだ。最初の頃、〝とぶ〟のは非道く恐ろしかった。ごく初めのうちは、窒息してしまうのではないかと思うほどだった。じぶんがいま這入(はい)っているのは一体どこの何という空間であるのか、そういった基本的な事柄からしててんで分からなかったのだ。それが、じぶんはどうやら〝電脳空間〟、すなわちインターネット空間に入り込んでいるらしいこと、自分の思念に応じて自在に空間内を行き来できること、這入るのも出るのもまったく自分の恣意に応じてオンとオフが可能なこと、などなど基本的な〝とり扱い方〟が体得されるのに従ってだんだん哲のふる舞い・挙措(きょそ)も大胆になって来て、そこでは哲は無限と言ってよい電子の流れる道筋をたどり、無数にあふれている情報の渦のなかを渉猟してまわり、情報の波を呼吸して新規の知識を得て、そうしながら脇目を振ると聯関する情報にいとも簡単に触れることが可能なことを知ってますます熱中し、ふと気付くと三時間も四時間もこの特殊な空間に沈湎(ちんめん)・滞在していることがあった。五時間も浸かっていると、さすがに頭が痛くて眩暈がした。哲としてはもう少しひとりでこの現象を追及してメリットやデメリットがあるならそれをきっちり把握し、充分な準備ができたら常に話すことに決めていた。

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