第2話B. ――弥生――

 少しずつ朝の時間も暖かくなってきた。忍の鬱した結ぼれも春の気配の到来とともに少しずつ緩んで来たようである。青山の一家で経済を預かる操子は母親にも気を遣い、妹の 忍の体調をみてはドライブや日帰りできる小旅行に出かけた――、トヨタ・カリーナでのドライブは兎も角、電車に乗って出かけた日には、そっくり似ている美人のペアという存在は厭でも人目を惹いたから、その辺を気にする忍の気分は重ねて問うて負担の掛からぬようにせねばならなかった。時おり忍は正直にじぶんの体調のことは言わず、見診によってじかに姉が判断する方が的確だったりした。車に乗るときは、必ずレギュラーのガソリンを満タンにして多く箱根方面へ出かけた。塔ノ沢に穴場の温泉が一つあって、そこは昼間出かけてもがらんとして無人のことが多く、銭湯のような感覚で使えてのんびりくつろげたので、ふたりはおんぼろのカリーナを駆ってよく出かけた。カリーナはむろん既に生産中止になった車だが、操子は「まだあと十年は乗れるね」と言って車検も頑強にディーラーにもち込んでいた。  そんな三月のある朝、忍はB型に行く、と言って玄関先へ向かった。敷台に腰をかけて靴を履く妹の背中に向かって、操子は、本気なの、と問うた。忍はふり向いて、うん、今日は元気だから、と言うた。だって、朝は食べたの? うん、カロリーメイト食べたから。 じゃ、行って来るからね。忍は軽く手を振ると、元気な証左に片頬笑みをしてみせた。操子は右の耳に挟んだ赤えんぴつをとって前髪を搔いたが、どうやら妹の忍には異状がなさそうであることを見て取ると、じゃあまあ気を付けてね、と言った。操子は在宅勤務でする仕事なので、どこへも出勤する必要がなく、以前会社員をしていた(いや、やろうと考えていた)頃にそろえたスーツの類はワードローブの奥で埃を被っている。操子としては、本格的に会社勤めをしても構わないのだが、妹の忍が体調の優れぬときは母親の鏡子ひとりではどうにも手に負えぬこともあり、また炊事に掃除、洗濯と家事をいちぶ負担せねばならぬこともあるので、伝手を頼って職を転じた次第である。本人としては〝危ない橋を渡った〟思い・印象が強かったが、なかなかどうして、美事な軟着陸だったと言えよう。収入の方はむろん平均的な会社員のもらうサラリーよりは目減りするものの、操子には翻訳という異能があったものか、順調に翻訳料は上げて貰えており、いまは幸甚にも不満の種にはならないだけの実入りがあった。妹の忍のほうは就労継続支援B型の施設に通っている。バイトしながらB型に通所することは允可いんかされない。又、途中でゆくりなくも体調を崩したことが数度あるため、こちらも目が離せない。

 操子としては、た就活をして会社員をしても一向に構わないのだが、妹の忍が体調の優れぬときは母親の鏡子ひとりではどうにも手に負えないこともあり、また鏡子も高齢になりかかり、炊事に掃除、洗濯と家事をいちぶ負担しなければならないこともあるので、父親の伝手を頼ってありついた今の仕事で満足している次第だった。曲がりなりに就職活動をしていた頃の意識と較べると、順調にレート(翻訳料)も上げて貰えており、今は幸甚にも顎が干上がる心配のないだけの実入りがあった。妹の忍のほうは就労継続支援B型の施設に通っている。

 忍は作業所へ出る際、いつも北鎌倉の駅から横須賀線に乗ってとなりの大船駅で降りる。それがいちばん近道のコースだった。北鎌倉駅までは普通に歩くと十二、三分の距離だ。体調が芳しいときの忍はあちこち自然を愛でながら歩くのが好きだ。今日も気分のよかった忍は、あらここの白い沈丁花はいつも綺麗ね、とか、あらこれ芝桜よね、桜もまだなのにもう咲いてるわ、などと足許に目をやりつつ二〇分ほどかけてゆっくり、のんびりと歩を進めた。遅刻が気にならないのか、と言われそうだが、慥かに忍の通う作業所では朝九時始業と決まっていたのだけれど、通って来るのは健常者のスタッフを除くと皆精神障碍者ばかりであって、定時で出たい者はそれでよし、遅れてマイペースで出たい者は又それでよし、何かの用事で(例えばレコード屋へ行きたい、とか或いはイヌの散歩があるから、といった恣意的で自分本位な事由でも一向に構わなかった)定時より二時間早く午後二時に早退けしたい者もまたそれでよかった。給金は工賃として時給に換算すると一時間の労働に就き百円から二〇〇円にしかならなかったが、時間的な面ではずい分融通が利くのがこの種の施設の大きな特色である。利用者は精神面での問題があるという共通項を別にすればそれこそ多種多様で、青山忍のように比較的裕福な家庭の子女がいれば、一人暮らしで生活保護を受けて精神障碍者年金と合わせてかつかつの暮らしを送っている者もいた。

 青山忍は速歩すれば十二、三分で着く道程をたっぷり二〇分かけて歩いて駅へ向かった。実のところ、忍は電車と云うとつい身構えてしまうのだ。それは既に七、八年も遡る前のこと、忍と操子がまだ高校生だった頃のことだが、ときに忍が一人で(つまり姉妹ではなく単独で)電車に乗っている時、決まって接近してくる破廉恥な痴漢がいたのだ。混み合う電車の中で、痴漢は決まって忍のすぐ背後に陣取ってそっと固くなった下半身を押しつけ、手を制服の胸や股ぐらに這わせて、しかのみならず大胆不敵にも忍にあることないこと低い声でささやいた――、曰くこの世で青山忍のことをいちばん愛しているのは自分だということ、だから忍は操子のことなどすっかり忘れて自分に付いて来るべきだということ、自分なら忍にこの世の憂さなど統べて忘れてしまうほどの快楽を与えてやれること、云々かんぬん。コトの終焉は簡単だった。忍は操子に相談し、取り敢えず両親には黙って警察に通報することにして、結果的に破廉恥漢はあっさり逮捕された。残念ながら、警察からは取り調べの詳細は教えて貰えなかった。従って、どうして男が操子と忍とを見分けることができたのか、どうしていつも忍と一緒の時間に電車に乗っていたのか、と云う肝腎な点が謎の儘残された。だが結果として、忍はやや男嫌いの傾向を有する性向きに育ち、それがいっそう操子との関係を熱いものにしたことには疑問が挟まる余地はない。いずれにせよ、くだんの男は他の女性にも同様の行為を働いていたとかで懲役に行った。それから忍は電車に乗るときは成る丈操子と一緒に乗るようにした。B型の作業所へも乗れるときはたけバスに乗った。バスの方が割高だったが青山家と作業所それぞれの近傍にバス停があったので余り歩かなくても済んだし、田舎道のバスだったので遅延も滅多になかったのだ。又、年度初めにきちんと申請さえしておけば、バスに乗る運賃も交通費として毎「はくつる」号とすれ違うこのルートの分が無事支給されたのだった。それでもその日、忍はどういう訳合いでか自分でもよく理解に苦しむのだが、北鎌倉駅から電車に乗った。

 ゆっくりと花を愛でながら歩いて駅へ着くと上りはいま一本出たところであって、次の電車までは十数分時間があった。駅のプラットフォームには暗いところと光の射しているところと斑になっていて、化学で習うチンダル現象のように埃がコロイドとなって黄金色に輝き、忍はそれに神々しいものを見て取って――、因みに操子も忍もミッション・スクールの出身であってカトリシズムの薫陶はそれなりに受けたものの、生憎あいにく入信する、というところまでは行かなかった――、一瞬自分も聖画の世界の中に迷い込んだような気になった。

 そうして、この一種類い稀なる〝神聖なる〟体験こそが、後刻のあるちょっとした遭遇のプレリュードを為していたのではないか、と後になって忍はつくづく考えるのである。

 電車は〝線路に人が立ち入った〟とかで数分遅れてやって来た。忍はまだプラットフォームのお告げから惑い醒めず、半ば恍惚としている。銀色の車体に青とクリームの帯を巻いた電車は滑り込んできて停止すると、ドアを開けた。北鎌倉は乗換駅ではないし主要駅という訳でもないので、降車する客はすくない。忍の近くに開いたドアからもでて来る乗客の姿はなく、忍は半ばぼうっとして吸い寄せられるようにドアに足を掛けた。車内を見ると、千鳥にボックス席が設けられている車輛で、忍は少し奥に這入ってそこでつり革に摑まった。そこに来て忍は初めてこの日はなぜだか大事なマスクをつけ忘れて来てしまったことに思い至った――、バスに乗るときはマスクは付けないのだが、どうやら同じ気分で家を出てきたものらしい。今更仕方がないのだが、忍はあの時の痴漢との遭遇を思い起こして、フラッシュバックとでも言うのか、頭の芯が白熱するような気がして、初めは弱く動悸がして手のひらが汗でじっとりして来た。忍は一つ大息してジャケットのポケットを探ってハンカチを出し、それを馬手に握ってからつり革に手を伸ばした。軽く目を閉じると電車が動き出した。車内に改めてアナウンスがあり、やはり電車は五分か六分ほど遅れているらしい。

 ――忍は胸がわくわくして来たが、僅々数分乗って次の駅で降りることだし、どうにか凌ごう、と思って確り目を閉じていた。

 と、その時、忍の足許でばささっ、という鳥の羽ばたきのような音がして、足の上に紙のようなものが落ちる感触があった。驚いて目を開けると、目の前のシートに座っていたスーツ姿の男性が持っていた書類の束を落としたらしく、書類封筒も含めてその辺りに派手に書類が散らばっている。どうしようかと一瞬だけ迷ったが、忍は詮方なしにつり革から手を離してバランスを崩さぬように気を留めながらしゃがんで散らばった文書を拾っている男性に一臂いっぴ貸した。

「どうも済みません」

 と男性はもぐもぐした声で言った。その声にどことなく聞き覚えのある響きを感じて、いいえ、と答えながら忍はそっと声の主の方を覗った。と、忍は反射的に、

「やだ、鈴之木くんじゃないっ」

 と叫んでしまった。すると、男も忍を見て、

「あら、平素お世話様です、青山さん……、でしたね?」

 挨拶をする。忍は先日のことをおもい出したが、そこにどうも言うに言われぬ微妙な雰囲気の違いを感じ、二の句は継がずに目の前の男性を見守った。

 すると男性は、

「青山…、操子さんですよね?」

 と頓珍漢なことを言い出す。忍はそれで何となく察せられ、

「操子はわたくしの姉で、わたしは双子の妹の忍と申します」

 すると男性はピシャッと自分の額を平手で叩いて、

「ああ、そうですか。双子の妹さんでしたか。――それにしても、よくぼくの苗字がお分かりでしたね?」

 とじろじろ忍をまもった。忍はそこで、

「あなたは鈴之木哲さんではいらっしゃらないようですね?」

「ええ。ぼくは哲の双子の兄で常と申します」

「あらあ。じゃあ双子どうしがばらばらに再会した訳ですね」忍は思わず大きな声を出してしまった。「奇遇ですこと」

「まったく、奇遇ですねえ」常は尚もじろじろと見ながら少許皮肉っぽいとも言えなくもない笑みをうかべて忍を見た。が、間もなく忍が降りる予定の大船駅に到着してしまって、忍は、

「どうも失礼しました。どうか弟さんに一と言よろしくとお伝えして下さい」

 と聞き方に拠れば珍妙な挨拶をした。すると鈴之木常の方も同じ思いだったのか、

「いいえ、何もお構いしませんで失礼しました」

 とおかしな返辞をして来て、それで二人は分袂ぶんべいしたのだった。

 その日は忍は一次登録と云ってPCに向かって古本マーケットに出す予定の本の基本的な書誌情報を登録してゆく作業に当たったのだが、いつもなら一時間に五冊は捗るが、その日に限って二冊しか捗らず、しかのみならず幾つも細かなミスをした。その原因は自分でもよく分かっているが、どうにもならないと云うものである。けっきょく、その日忍は目ばかりしょぼしょぼと赤く腫らしたようにして、コンピュータに向かってぽきぽきと手首をならしてばかりいた。痴漢の恐怖に怯えて分泌されるアドレナリンが、どうやら今度は別の方向へ行ってしまったものらしい。忍はこれはもう仕方がないのだ、なるようなるしかないではないか、と我と我が身に言い聞かせるのであった。然し、こんなこともあるものだ、と忍は半ば自分自身に対し惘れながら思う。忍は元来惚れっぽい人間ではない、お堅い方だと自分では思っている。一目惚れなどとてもとても。だが、鈴之木常とのことはどうなのだ。出会って五分間しか一緒にいない、それも二た言三言言葉を交わしただけだというのに、もう忘れられなくなっている。それもオトコだ、男性にである。こんなことは、今までなかった。

 忍は鈴之木常の弟の哲とは上智大学で同窓だったから顔は知っていたが、別にこれと云ってとり立てて特別な感情を抱いたことはない。また、哲とは特別に款語かんごしたこともなかったから、双子の兄がいることも今日が今日まで知らぬことだった。それにしても、双子であれだけ印象が変わるものか。じぶん達――、操子と忍の姉妹は細かな仕草までそっくりらしく、〝うり二つの美人姉妹〟として幼い時分から有名だったのだ。忍と操子、哲と常……、どこかでボタンの掛け違えでもあったのだろうか。考えれば考えるほど、高等学校の生物で習ったDNAの二重螺旋のように並行した二つの存在が果てしもなく連なってゆく様を思い描くようになって頭が痛くなって来る。眩暈さえしてくるほどなのだ。それだと言うのに、あの鈴之木常さんも今頃自分同様の複雑な感情なるものを抱いて翻弄されているのだろうか? どうしてあんなに冷静でいられるのだろう。忍は記憶の中にある哲の姿を思い泛べた……、慥かに恰好いいと云えば恰好いい、二枚目の部類に入る人体であって、忍の周りの女子学生の間では割とうわさの的になり、それなりに人気もあったはずである。けれども……、そう、双子の兄弟が、一卵性双生児の兄弟がいることは誰も知らなかったのではあるまいか。忍の方は割と早い内にじぶんには双子の姉がいることを明かしてしまい、ふたりで撮った写真を見せたり、又は長期休暇中に操子が東京に戻って来るようなとき……、北大の夏期休暇は、一応七月末から九月末までとなっているのだけれど、前期試験を休暇中の八月末に実施するため、実質的に休みがとれるのは九月いっぱいだった、そうして九月に操子が帰省してから愛山学院時代の朋友なども交えた形で青山家に集まってちょっとしたパーティをやったり、或いは自動車で遠乗りをしたりしたもので、上智大の友人たちの間にもしぜんと青山操子&忍、というペアーの形でじわじわと浸透していったものだと思われる。尠なくとも操子はよく周知されている存在だった。

 ――まあいいわ、家に帰ったら操子姉さんに聞いてみよう。

 そう心に留めておいて忍は作業所に出た筈なのだった。


 常はその日、午後四時頃に帰宅した。肉屋の包みを片手にぶら下げている。家に這入ると、慮外にも弟の哲は在宅していた。自分の部屋でコンピュータに向かっているらしく、キィボードをタイプする音が玄関まで聞こえて来る。そろそろ暖かくなって来たので、自分の部屋のドアは開けたままにしているらしい。

「テッちゃん、ただ今」

「――ん、よう兄貴」

「今夜の夕食は、ナカムラ精肉店謹製の豚カツとコロッケ」

「――ああ、ああ、……いいね」

 半ば上の空だ。

「あのさあ」

「―――んん?」

「忙しそうだから要用だけ言うけどさ、おれ今朝、青山忍さんに会っちゃった」

「ふん。――――んんッ!?」

 哲は手を止めた。

「驚いたろ?」

「……あ、ああ」

 哲は漸くふり向いた。目玉がぎょろりとしている弟の顔は、日頃端整に纏まっている分、非道ひどく滑稽にみえる。

「青山さんとは、ガッコで一緒だったんだよね?」

 哲は言葉もなくうなずく。卓子の上のミネラル・ウォーターをグラスから一と口含んで気が落ち着いたのか、怖ず怖ずと口を開いて、

「然し、兄貴、どうしてそれが…」

 と問うた。常は得意げに鼻をうごめかし、

「ま、いわゆる直感的理解というヤツかな。あのう、ユングとかアドラーが言うところの……」

 と滔々と講釈を始めたが(常はまた、妙に弁口が立つ男で、一旦喋らせれば眠る暇もなしに五〇〇〇時間だってべらべらしゃべり立てることができた)、哲はそれを遮って、

「いいから真っ当な神経で理解できることだけ話してくれよ」

 と言うのでっとだまり、哲のミネラル・ウォーターを少しだけ分けてもらって喉を湿すと、

「いやあ、マジメな話をすると、おれ実はあの……忍さんだっけか、その双子の姉の、青山操子さんつう女のひとと、仕事で付き合いがあんのよ。きょう偶々電車ン中で一緒になってさあ。でも操子さんとはどうにも雰囲気が違うしさあ。何かこう、きょうびどうにも控え目、っつか大人しい印象があって、ホンデモッTV「DTI」なら分かるんちゃうか、思ったからさ、『フランスなんですけれどね、クリスティアン・ヴァンデのマグマって言って、お分かりになりますか?』とやったらもうドンピシャリだった、ってワケ」

 哲はあきれ果てたような表情を泛べて、

「ほんとか? ホントにそう言ったの?」

「いやあ、それは言ってみれば所謂ひとつの理想気体の呈する振る舞いに就いてのお話でさ」

「お姉さんのほう……、操子さんと云ったね、そっちとは会ったことあるのかい、兄貴?」

 常はしげしげと考えながら右手指は額に這わせて暫し沈思黙考する態であったが、

「いや、哲っちゃん、実のところはね」

 哲はもう一と口水を含み、じろじろと双子の兄を見守った。

「素直に、かつ正直に言わないと、身のためにならないよ、兄貴」

 その哲の言葉を受けて、常は、

「うん、慥かにそうだが、哲っちゃん、実は電車の中ではぼくのが話し掛けられたんだ、うんそうだ」

「へええ」

「操子さんとは、忘年会のときに一度会ったきりだな。名刺の交換をしてちょい堅苦しい挨拶して、――、それが最後だ。だから、酒も入っていたし、はっきり先方のご面相を覚えていたかと云えば、ちょい無理があったな、というのが正直なとこですだ」

「まあ、いい」哲は至極寛大な声を発した。「いいから、苦しゅうないぞ。だけどな、兄貴は口から先に生まれて来たようなものなんだし、もう少し事物の描写には精確さを追究すべくふだんから斯かる態度を基調として過ごして貰わないと困るよ」

「済まん」常は神妙な物腰で低声を発した。「おれさ、最近ちょい自信を失いかけている、と云うか、自分でもそら恐ろしくなって来ていることがあるんだけどさ、哲っちゃん、若しかしておれの弁口は地球の地上に栄えているこの人類文明を無化してしまうところまで廻ってしまうんじゃないかねえ」

「それは大いにあり得るよ」と哲。「大いにあり得る。兄貴はもう少し、慎重に物事を遂行する必要がある。外的にもそうだし、ものを考えてから発話する内的なものもそうだ」

「うう、そう簡単そうに言ってくれるなよ、哲っちゃん…。おれだって今こうしてあるところの存在に行き着く……、逢着するまで散々な目に遭っているんだぜ、あれこれ逡巡しては〝ペケ〟のついたものを取り敢えず廃棄して、代わりにより新しい、融通の利きそうなのを見繕ってきては復た試験機にかけ……、と云う按排でさ。ホント、涙がちょちょ切れるほど涙ぐましい……、あれおれ何言ってんだろね」

「苦労したのは分かった。ただ、問題は、その苦労した痕跡がいずれも綺麗に払拭されて、どこでどう苦労したのか、と云うその肝腎な点がまるで見えて来ないところなんだが」

非道ひどいやあ、哲っちゃん」常は珍しく泣き言を口にした。「おれだって、好きでこんな形に出生したのではないぞえ」

「ぼくだって、そうだ」

 ふたりは暫く――、そう恐らく十秒間ほど互いの顔をまもっていたが、軈ておお笑いになった。常は弟の――、そうこのいけ好かないほどにいつも冷静でいられると云う弟、哲の特質を舌の上でゆっくりと転がして翫味がんみする。それは思うほどにそう厭な体験ではない。だいたい、これまでの人生で、常と常は事ある毎に比較ばかりされて来た。ふたりは成績の面でもどっこいどっこいだったが、いつでも〝鼻の差〟で哲が勝ち、そうするとたいつものような思念が湧いて来る。曰く、天空がいつでも計算ばかりして見栄えをよくするからおれは貧乏くじばかり引くじゃないか。哲は時どきそうもぼやきたくなるのだが、その代わりに今のこのポジションと云うのは実に快適で楽チンなのもまた、否めないところであった。

「さあて、夕食夕食、っと」


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