2×2

深町桂介

第1話A.――如月――

 青山操子は、妹の忍のたっての願いをきき容れて、マグカップに温めた甘酒三〇〇mlほどを携えて寒い廊下を歩きほの暗い寝室へのぼって来た。操子は自分のためにはコニャックのボトルがあったが、これは寝室の中の姉妹の秘密になっているちょっとしたバー・コーナーのなかにしまわれていた。  姉の帰着を感づいた忍はカウチ・ソファから身体を起こし立ち上がって操子を迎えようとしたが、操子は蒲柳の身の上の妹を手真似で座るよう促し、カウチの前のテーブルの上に湯気を立てている温かく濁った液体の入ったカップを置いた。 「姉さん、どうもありがとうございます」 「いいのよ、いちいちそんな他人行儀な、変に律儀な挨拶なんかしてくれなくって」操子は事もなげに言うのだが、実のところこれもふたりの間のお決まりごとの〝プロトコル〟 であった。姉妹とは云い條、このふたりは身の丈から容姿までがうり二つの一卵性双生児なのである。  操子はすぐ、「今夜は初めはどこがお望みかしら? 胸? それとも下? 又は背中かし ら?」と言葉を継ぎ、控え目で真面目な性質の忍がカップになみなみと注がれた白く芳香を放つ液体の表面に映り込むほどに顔を赧くしていることなど操子も百も承知の話なのだった。  操子は、 「忍さん、お手を拝借」と言うと温かな容れ物のぬくもりが移った妹の忍の左手をとり、半ばカップから引きはがすかのように両の手のひらで揉みしだくと、小暗い室のなかで照明を求めてスマートフォンの光源を選びその白い光のほとばしりの中に妹の手を収め、マッサージでもするかのようにとっくりと時間をかけて手指でなぞっていった。そして、 「忍さん、これは長い感情線ですな。生命線もしっかりしている。では運命線は…、と、こうっと忍さん、あなた浮気の相が出ていますぜ……、あ怒った?」  と易者のように忍の左手をもてあそび、勝手な妄言を吐いては忍のご機嫌をうかがい、そのうちに姉妹のあいだには緊密でほどけにくい空気が醸成され、操子は気分障碍の妹がほほを紅らめているのを認めると漸っとその手を自由にしてやり、代わって両手を伸ばし ていきなりカウチ・ソファの上の太ももに触れ、スカートにくるまれた豊かな尻までを丁寧に時間をかけてなでさすってやり、その上で改めて今はもう甘酒を時おり啜るのでやっとと云った妹の風情を確かめてから右手をスカートの中につっ込んだ。 「今夜は、あれは要る? ――張形は?」 忍はかぶりを振った。 「いいえ要らないわ、お姉さんの手で充分です」 「そうかい。ではちょっと立って。あんよを貸して」  操子はそう言って、腰が抜けたとでも云うのか下半身に力の入らない忍をどうにか立たせると一メートル半ほど離れたベッドへつれて行き、忍に口づけをすると同時に徐々に体重を妹の方にかけるようにして、最終的には忍をベッドの上で組み敷く形を作ってしまった。そうなると忍はもう辛抱堪らなくなって、逆に操子に襲いかかるかと云った勢いで姉のセーターを裾からたくし上げ、ブラウスのボタンを外して中途半端な按排で姉を肌着姿にすると、神経質そうにくすくす笑いを立てて操子の背中に両のかいなを回し、自分のほうへ引き寄せて姉の口吻を求めた。  妹のやり口にはもう慣れっこになっている姉の操子は、顔でこそ苦しそうなにこにこ笑いを泛べていたが、段々と体勢を維持してゆくのがむつかしくなり、同時に頬に含んだ空気と一緒にぷうっ、と吹き出してしまい、そうなるともうそれ以上こらえておくのができなくなってくつくつ笑いを立ててしまった。

 忍もくすくす笑いながら自分の上に倒れかかる操子の身体を受け止め、ブラウスのボタンの外れたところから両手をさし込んでくすぐったり或いはブラジャーのワイヤーを引っ張ってみたりと悪戯した。 「お姉さん、こうしちゃうんだから。こら、今度はこうしちゃうぞ」  忍はこうして逆襲の狼煙を上げるのであった。 そうなるとふたりがふたりとももういけなくなって、後戻りのできぬところまで追い込まれてしまい、鏡に映したようにそっくりな姉妹はベッドの上で服をもどかしげに脱ぎ棄てると両腕を拡げて互いに相手へ向かってゆき、組んず解れつしてお互いの肉體をむさぼ り合うのだった。

 むろんそれは、生理学上では何の意味ももたぬ不毛な行いであったが、ここで特筆せねばならぬのは、ふたりともこの行為が単なる肉體の交わりに過ぎず、無意味なものであるという科学的・客観的事実をよく理解していたということであり、更に言葉を加えるならば意味を有する行為のほうについてもやはりよく知悉していたということであって、この青山姉妹が現在のような、謂うなれば異形の形態におとし込まれたのはたしかに過去のこと、時間を数年間遡ったある春の夜のことだった。操子は、その晩は「春宵一刻値千金しゅんしょういっこくあたいせんきん」とでも称したいような美事な一夜だったことをよく覚えている。  ――小一時間ののち、姉妹の交歓の行為(それは、単なる〝性的行為〟と称するより、それは寧ろ〝聖なる儀式〟と呼ぶ方がより精確ではあった)が済むと、今度は妹の忍が席を立って、冷蔵庫から二人分の冷たいお茶をとって来た。

 二人して無言でお茶を飲み、忍が作業所からもち帰った、ざらめのまぶしてあるラスクをかじって一と息つくと忍の方が口を切った。 「あ、今日はね、また朝倉さんがサムいギャグを言ったり、中野さんと神部さんがロックの話で盛り上がってたり……、ねぇ姉さん、カーペンターズのカレンってドラムスもやってたの?」 「うん。何で?」 「神部さんが言ってたんだけど、いつだったか音楽雑誌主催の人気投票の〝ベスト・ドラム・プレイヤー〟の部門で、自分よりもカレン・カーペンターの方が上位に入ってたから、と云うそれだけの理由で、レッド・ツェッペリンのドラマーが怒って暴れ回ったんですって」 「あはは。そうなの」  ポピュラー音楽に関しては、操子の方が忍よりも幾らか詳しいから、操子もその辺の話なら通じている――、レッド・ツェッペリンのドラマーはジョン・ボーナムといい、〝ボンゾ〟というあだ名をとっていたことまで知っている。 「――あとは、大根工藝からのパン屋が来たっけ」  精神の病を患っている妹の忍は、普通に就職をして一般的な事業所での就労は困難なため、〝就労継続支援B型〟と呼ばれる作業所に通ってパソコンを使ったり、或いは恵贈された古書をインターネットの古書販売サービスに登録したりするような作業に従事して、月に大体七〇〇〇円から一〇〇〇〇円程度の金額を稼いでいる。これと精神障碍者年金を受給してどうにかこうにか身の回りのことは済ませ、偶には小旅行に気晴らしで出るなどしていた。操子がいちど気になって調べてみたところでは、忍の作業所では飽くまでも一般家庭や大学の付属図書館で不要になり除籍された書帙しょちつを無償で譲り受けて適当な値段をつけて販売する、というのが業務だったので、〝古物商許可〟などの資格はとくに要らない のだそうである。  二人はお茶を飲みながら、同居している母親には気取られぬよう気を遣っていろいろなことを話し合った。主な話題としては忍の体調のことや(三環系、四環系からルボックスやパキシルといったSSRIやSNRIの類に切り換えてから症状はかなり改善されたと云う)、青山家の経済のこと(三年前に他界した父親の政胤は二億円もの負債をこさえていたことが明らかになった)が多かった。  余りふたりの話柄にはならないものの、姉の青山操子もしっかり仕事はしていた――、格好良く〝在宅勤務のフリーランス翻訳者〟と云えば聞こえはいいが、要は翻訳の内職仕事である。

 青山家の操子と忍の姉妹は、初等部から愛山学院というミッション・スクールに通い、高等部まで一緒に過ごした。生徒どうし、或いは生徒と教師が顔を合わせると「ごきげんよう」と挨拶を交わすような暢気な学苑だった。その頃から青山家の美人姉妹、と云えば有名な存在で、一卵性双生児の二人ともそろって同じポニーテールや三つ編みにして来た日には親しい友人の目にも孰方が操子でどちらが忍なのかとんと見分けがつかなかったという。さて、高等部卒業後の操子は脳神経細胞の研究生活に進みたい、と言って北の道都札幌市の北海道大学理学部化学科に進んだ。ここで学部生の四年間を過ごし、卒業後はどこか大学院の博士前期課程へ進むつもりだったのだが、このタイミングで愈々家運が傾き、進学は諦めるよりほかなく、ではアルバイトでも探して口過ぎにしようか、と思ったとき、父の政胤の友人で翻訳会社を経営している郷という親切な男が、よかったらウチでアルバイトしてみないか、と言って下さり、その後〝のれん分け〟のような形で独立し、フリーランスの翻訳者となったのであった。いわゆる実務翻訳者とか産業翻訳者と呼ばれる業務であって、操子は理科系にあかるく医学の素養もあったのでメディカル(医薬)分野と化学の分野とを専門としており、郷の会社のみならず、〝一流の(と言っても翻訳業界はそもそもがニッチな業種なのでその規模は推して知るべしだが)〟翻訳会社ともコネクションができて仕事を廻してもらえるようになっていた。操子は英日、日英翻訳に加えて独日、日独翻訳もできたので非常に重宝がられ、ほかの翻訳者なら渋い顔をしそうな、少しでも荷厄介な案件が生じると操子の許へ〝丸投げ〟してくるようになった。むろん、対価としてはかなり色をつけた額の報酬を約してくれたので、操子はだぼはぜよろしくオミットしないで何であっても喰い付いて行った。難問・難題にもいとわず向かって行くそうした勤務態度のお蔭か、操子の語学力・翻訳力は今や最高域にまでブラッシュ・アップされて、翻訳会社では少しでも厄介な案件が入ると無條件で操子にまるまる投げて寄越す次第だった。

 操子は、若し健康体だったなら忍も自分と同じような道を歩めたろうに、とすくなからず不憫ふびんに思う――、忍も操子と同期で愛山学院を卒業し、一般入試で上智大学外国語学部ドイツ語学科に入学、どうにか無事卒業して一旦は一般企業に就職したのだが、いったいど こで病の源と接触をもったものか、あっという間に体調を崩してしまい、退職を余儀なくされたのである。本人はそれでも成る丈前向きに生きようとしていることが姉の操子にとっては一と際不憫でならなかった。  この姉妹がいまのような関係に迷い込んだのは取り敢えず受験とか進級試験というプレッシャーから解放された十七歳、高校二年生の春のことだった。それから大学受験を経て、妹の忍は東京の実家に残り、操子は札幌でひとり暮らしを始め、操子の方は平気の平左でひとり暮らしを謳歌し、おとこ遊びもそれなりにしたのだが、忍は姉を求める気持ちが非常に強かったようでそう云えば幾度か救急搬送される騒ぎも起こしていた(その一方で、姉同様異性との淫恣いんしな遊びも姉同様ちゃっかりやっていたようだが)。そんなこんなをかんがえ合わせると、操子には、妹の忍が気鬱クンという新たな〝ステディな彼氏〟とねんごろになってしまった背景には、じぶんが進学のために札幌へ行ってしまった事情も裏で大きく介在しているのではないか、とも思われてならず、いっそう強く妹に対する罪悪感を抱くのであった。けれども忍は、そんな姉の胸中を知ってか知らずか、姉の前ではけなげと云うか、病勢の悪い時でもごく無邪気にふるまうので、姉の立場ではやはり含み損の大きいこの関係を、すっかり精算して断ち切るようなことはおいそれとできかねるのであった。さし当たって姉たる自分(とは云い條、わずか十数分ばかしの差で前後して生まれ落ちてきた仲なのであるが)にできることはつかず離れず見守ってやれること程度であることはよく弁えていたので、今はその通りそれを履行することで取り敢えずこと足れりとしていた。

「お姉さん、お仕事のほうはどんな?」

 忍がそっと問うた。操子はブランデー・グラスに注いだコニャックを少し口に含み、ふっと笑ってから、 「参っちゃうわ。まァたヘンな文献を丸投げされちゃって……。〝十七世紀の骨折治療術〟ですって。テキストはドイツ語だけど、羅甸ラテン語まじり……」 「そう、それで……」 「見返りは悪くないわよ。単価が九〇〇〇円で引き受けたから。仕上がりはほぼ三〇枚程度、だから金額では三〇万弱にはなるわね。…にしてもまァ、あの文章の晦渋かいじゅうさといったら。もうやんなっちゃうわ」

 操子はちょっと笑った。つられて忍も笑った。 「この後もまだまだお仕事?」 「うん」操子はかぶりを振った。「今日はもうめ一杯仕事漬けだったからね。もう寝るわ」

「うん」エビリファイと一緒に呑んだユーロジンが効いてきたのか、忍の口先があいまいになって来た。「おやすみなさい」

 間もなく姉は妹の寝室を去った。

 翌日、忍は執拗く鳴り続ける電話のベルで目を醒ました。まだよくはっきりしない頭で、髪の毛をむしりながら部屋の戸を開けて廊下に出、階下に通じる階段のわきにある電話台にたどり着くと、留守番電話のモードにはなっていない。着信が途切れるぎりぎりのタイミングだったので、子機のディスプレイに目をやる余裕はなかった。が、どうにか着信は〝つかまえた〟。

「はい。――青山でございます」

 脳の内部とはうらはらな、成る丈てきぱしたビジネスライクな話し方になるよう気を付ける。

「あ、わたくし、トランスレーション・サービスの鈴之木と申しますが……」  トランスレーション・サービス。姉の操子が平生付き合いのある翻訳会社のひとつである。

「あ、大変お世話になっております」

「お世話になっております」電話口の男は少しばかり語調を変えて、「あのう、青山操子さまは…」

 姉は今日人間ドックだ。 「あのう、姉は本日外出しておりますけれども」

「あ、左様ですか。それでしたら携帯電話の方にでも架けてみます」

「ああ、はい。そうなさって下さい。番号の方は?」

「ありがとうございます。番号の方は存じておりますので。――それでは、失礼申し上げます」

「ごめんください」

 通話は終わった。忍は子機をホルダーに戻した――、その手は微かにふるえている。忍の性癖として、取引のある企業の社員などと接触すると緊張してしまうことが挙げられる。

 忍はこうした自分の癖に内心ひどく悩んでおり、こうした点を克服しなければ自分は本当の意味で〝成人〟になることはできないのだ、と思い込んでいた。

 しかしながら、今の架電では何か気懸かりなところがあった。そう、態々わざわざ考えてみるまでもない、〝スズノキ〟という相手の姓である。〝鈴木〟でもないし〝鈴野〟でもないから、恐らく漢字表記では〝鈴之木〟であろう。そして、後刻、姉の操子が帰宅した折に念の為確かめると、忍の思った通りだった。

 しかしそれも、どうでもいいと言えばどうでもよいことだった。

 操子が帰宅したのは金曜日の午後六時過ぎのことで、会社の営業時間は終わっているので、鈴之木常さんのプライベートな連絡先に架けることにした。

 個別に教わったスマートフォンの番号にかけると、呼び出し音が切り替わり、 ――もの凄い爆発音が聴覚いっぱいに響いて来たため、思わず操子は反射的に通話を切ってしまった。

 ――しまった。こいつぁやっちまったぞ。どうしよう。

 いま弄っているのは「クレス-α」と命名して大事にしているアナログ・モジュラー・シンセサイザーで、VCAのモジュールで、Attack(アタック)のつまみを〇すなわち左いっぱいに合わせ、Release(リリース)をその逆に右いっぱいの数値に合わせて鍵盤をおもい切り強く、つまりVelocityとReleaseはほぼ最大限にして叩いたのだが、丁度パッチングした結果として爆発音を作り出したまではよかったのだけれど、如何せんタイミングがマズかった。ジョーはしぶしぶシンセサイザーのマスター・ボリュームを下げながら電話機の子機を今さらながらとり上げて着信履歴を確かめた。番号は美事にどんぴしゃ、メモリに登録されており、「アオヤマミサコ」と薄緑色のバックに判然ハッキリ、黒々と浮かび上がっている。やーれやれ、青山さんでしたか。常はなだめるように、荒ぶる神を慰撫するように黝いプラスティック製の子機をそっと撫でてやってからホルダーに戻した。どうしようか、こちらから架けた方がいいかな? 暫く考えたのち、常は否、と断を下した。 余りよい策ではないが、知らぬ顔の半兵衛をきめ込んでおこう。青山操子は盛んに取引のある翻訳者で――、会社としては長くつき合いたいタイプの仕事をする訳者で、無用の脇見運転はご法度だった。

 ――ようし、それならば、ニャリン。

 常は気持ちが一点に集中しているときの癖で、口を半開きにして舌先をその外に出し、時おり上唇を舐めながら、問題となっていたらしいパッチ・ケーブルをモジュールから抜去してやり、別のパッチ・パネルに向かって舌なめずりした。

 その時だった。  玄関先でかすかなもの音がしたのだ。  ネコの耳はごまかせても、この鈴之木常さまの耳だけは遊び相手にはならへんのやぁ!  常はそうつぶやくと、部屋のドアを開けてそっと暗い廊下に足を踏み出し、跫音は成る丈殺して静かに玄関先に向かった――、思った通り、磨りガラスには黒い影が身を屈めるようにしてうごめいているのが見える。常は玄関灯を明るい輝度で照らすと、先手を打っ てドアを解錠した。

「だあッ!」

 と戯けた声を出しつつ外に躍り出ると、鍵を開けかけていたテツがびっくりしたような顔で常を眺めていた。

「お帰り、哲っちゃん」 「た、…ただ今」 「晩餐は?」 「――ま、まだ」 「そうか。よかった。ぼくもまだなんだ」  哲は靴を脱ぎながら、 「何か食べるものあったっけ?」 「慥か、キャンベルのチャンキー・ビーフの缶が二つみっつあったかと」 「――で、きみは何をやってたの?」 「うん、ウチとこはフレックス・タイム制だろ? 今日は早めに上がったので、クレスのご機嫌伺い」 「またシンセサイザーか」哲はぼそぼそと言う。「偶には調理してくれよ」 「んん」常は少し考えるふりをして、「ひとには得手不得手があるからねえ。ま、その内」 「まったく」哲は惘れたように、「これが一卵性双生児の兄貴の言うことだなんて信じられない」 「まあまあ。ぼくがこうして待っているから、キミだって安心して外で働けるんだろうに」  哲は諦めたように、 「メシにしよう。……その、チャンキー・ビーフでも何でもいいや。ちょいと酒もほしい」 「ビールか、ノンアルコールのレモン・サワーがあったろ」 「いや、ウィスキーやブランディもあった筈だ」 「へいへい」

 ふたりは間もなく共に食卓に着いた。常は饒舌に、 「今日はどこに行って来たの?」 「新宿」 「新宿って言ってもいろいろあるだろうに。――西新宿?」 「そ」 「レコ店?」 「もちろん」 「何か収穫はあった?」 「ああ。クラフトワーク、渋谷Bunkamuraオーチャード・ホール公演のブート盤」ブート盤とかブートレグと云えば非合法流通商品、つまり海賊盤のことを指す。「あとはバークレイ・ジェームズ・ハーヴェスト、ライヴ盤のオリジナル盤、それとジェネシス、サード・アルバム……、『ナーサリー・クライム』の英国プレス、オリジナル盤。そんなとこ」

 常は機嫌よく即席のビーフ・シチューを匙にとり、 「今日はぼく、とんでもないミスをしちゃってさあ」 「うん」 「クレス-αに吠えさせたら、同時に電話がかかって来ちゃって」 「――出たのかい?」 「もち」 「バカだな。――電話はどこから?」 「いや、会社の仕事で付き合いのある、アオヤマミサコって女性から」 「バカだな。先方は何て?」 「いや、なんも。轟音にびっくらこいたらしくて、ガチャ切りしてた」 「バカだな」

 食事が済むと、哲は黙然とふたり分の食器を片づけ、風呂に入る仕度をした。常は双子の弟を背後からよび止め、哲の股間にそっと右手を重ね、 「今夜はこっち、どうだねベイビー?」  哲は、 「――いや、明日もあるし、今日は止しとこう」  と答えて常は手を外した。 「明日のご予定は?」 「ああ。明日は早い。インタヴューが一本あって、あとは講義が一齣。明日早いから、今夜は風呂入ってさっさと寝るよ」 「つれないのねン」

 翌朝、なに事にもマイペースな常が目を醒ましたとき、なに事にも几帳面な弟の哲の姿は既にして家の中にはなかった。

 哲はJR横須賀線のグリーン車に落ち着いて、インタヴューに必要な資料のチェックに余念がないというところ。哲の生真面目さは、上智大学外国語学部ドイツ語学科(関係者のあいだでは、大概約めて外独として知られている)に一般入試を経て現役生で合格した 頃から大きく変わっていない。いっぽう常のほうも高校時代にはそれなりに優秀で、大学は神奈川大学外国語学部英語英文学科に給費生として合格したが、その後はのんびり構えすぎていたのかも知れない。ふたりの間で一つだけ大きく変わっていないことはと云えば、高校に――、ふたりとも揃って相溟高等学校の出身だった――、上がる少し前からこの両者の間に念契があるということ程度である。ふたりの間には、これまでのところ、〝第三の男〟がはいったことはなく、又ふたりとも家の外に同性(或いは異性)を求めに出たことはなかった。ふたりの関係はごく安定していると言ってよかった。しかし、ふたりは別段ふかく愛し合っている、と云う訳でもなかった。常も哲も嫋々としたところはまるでなかったし、メンタリティはかなりドライな方だった。が、外の人間がお節介を焼くことは偶にあった――、一卵性双生児のふたりとも揃って美男子の範疇に入る容姿を誇っていたし、そう云う男子にいつまでも女っ気がないのを認めると、ひとはつい余計な手出しがしたくなるものらしい。ふたりは相溟高を卒業した後は進路が別々になったこともあり、これまでのところ、幸いにも妙なウワサは立てられずに済んでいた。常はともかくとして、哲は余り人を近づけず孤独に時間を送ることが多かったので、あれはちょいとヘンなのだ、と月旦げったんをする者はいたけれどもその程度であって、幸甚にも常や哲の堅固そうに見えてその実はとても脆い〝孤高の生活〟に対し致命的なダメージを与えるような鉄棒引かなぼうひきのような存在は確認されなかった。

 ふたりの父親は神経学の研究者であって、最後は東京薬科大学で教授として定年を迎え、名誉教授号を授与されていた人物で(ふたりの息子の生き方からどことなく〝リベラルな〟雰囲気が伝わるのもこの父親がいたためだと言えるかも知れない)、ふたりが二十歳の年に亡くなり、協議の末、老いた母親はサービス付き高齢者住宅で暮らしている。――、父親はどうやら気づいていないようだったが、母親は夫の葬儀のなん週間か後にふたりを家のダイニングに呼び、申し渡しをした。曰く、自分はこれまでのところ、ふたりのことは成る丈、痛所つうしょには触れないようにして接してきた、それでも、ふたりがどういう〝存在〟であるのか(そう、慥かに母親は存在と言った)、じぶんの夫君ふくんとはどこがどう、どの程度異なるのかは一応把握しているつもりだ、こういう風になったのはふたりのとがではない、し育て方に過誤があったのなら、孰方どちらかと云えばじぶんたちの方に過ちがあったのだろう、いやその前に、ふたりがこのようにして人となったのは別段ふたりの所為せいではないし又じぶんたちの罪科でもないのかも知れぬ、何となれば生き方を選んで生まれて来ることはどだい不可能事であって、それは親の方も同じこと、ただじぶんの話をするならば兎に角ふたりの世話をするので精一杯でそれ以上のことは見てあげられなかったのだ、この点が決定的な過ちだったとすればそう言えるかも知れない(と言ってふたりの母母親はんだ)、今さらながら母親としてのじぶんの願いは一つだけだ、どうか非違ひいをはたらかず、兇状持ちにだけはなってくれるな、じぶんにウソを吐かずまっすぐに生きて行って欲しい、それだけ貫いて行ってくれるならそれ以上の望みはない、と話はそこまでで終わった。ふたりは神妙に聞いてその後二階にあるふたり用の〝居間〟で(母親は余り足が丈夫ではなかったので、二階には来られなく、その二階には東側に常の寝室があり、西の端に哲の部屋があって、その中間にふたりの緩衝地帯のようにその部屋があった)幾らか言葉を交わしたが、哲が、 「どのみち妊娠するようなハメにはならないんだし、ぼくとしてはこのままで構わないと思う」  と言い、常は、 「今日日きょうび、外でパートナーを見つけようとするとビョーキがコワいからね。ま、ちょっとしたエクササイズ程度に考えりゃいいんじゃないのん?」

 とのことで、ふたりの孰方もこの行いを〝非違ひい乖戻かいれい〟だとか〝人倫にもとる行為〟だとかする意見は出ずに、そのままずるずると関係が続いたのだった。

 ――グリーン車の二階席、哲はさし込んだ冬の陽光を浴びながら暫くうつらうつらしていた……、その中で夢をみていた。大学の恩師だった教授の高橋亮に講義中名指しで呼ばれ、接続法の例文を即席で十通り拵えるようにと下命される、というものだった。気づくと列車は品川を出るところだった。終着駅の東京でどうにか降りて電車を乗り換え、インタヴューの席が設けられる御茶ノ水に降り立ち、どんよりと曇った寒空に思わずマフラーを直した。白い息を吐きながら交差点を渡ろうとしたとき、左腕を摑まれた。なんだろ、こんなところで。ふと見る哲の視界に、胸元を黒く三つ巴に染め抜いた白装束が入り、哲は思わず内応臍を噛んだ。慥かに見憶えがあった……、それにあまり芳しくないうわさのことも。通称で「おK《けー》すの会」とか呼ばれている新宗教の團體である。どうしてそんなヘンな名で呼ばれているものなのやら、この方面には昏い哲にとっては、どのみちその辺でかにないけれども、何でも、この会の教祖は(あんでもかんでも)「OKッす! それ、OKッす!」と大声で連呼させるからとのことだったがそれ以上慥たしかには知らない。が、どのみち哲にとっては新宗教の團體なぞお呼びではなかった。カトリックやプロテスタントのような歴史と伝統に裏打ちされたものならば兎も角、たかだかここ数十年程度の歴史を誇りかに示し、開山の契機も「教祖を呼ぶ天の声があったため」などという寝言を云々するだけ、果てはお布施や寄進の結果として何十億円も懐(ぽっぽ)に貯め込んでいたりする、そんなその程度の教えにどうして簡単に帰依できるのか、時間があればゆっくり教えてもらいたいところだ(生憎そんな余裕はないのだが)。

 腕を摑んで来た男の信者に、哲はややひるんでしまい、 「や、止めて下さいよ」

 と言うよりほかなかった。男の信者は、 「ちょ、ちょっと、ちょっとだけいいですか、お時間?」

 と叫んだが、哲はつれなし顔をして、 「悪いけど急ぐんですよ」  と言い放ち、相手がつと身を引いたところを好機とし、うまく身を翻して寒空の下に出た。男の信者はその背中を幾らか名残惜しそうに見送っていたが、やがて肩をすくめると、次の〝獲物〟を狙いに動き出すのであった。

 インタヴューは定刻に始まり、間に合えてよかった、と哲は内心冷や冷やものである。今回の会見の相手はリチャード・ギィという英国紳士なのだが、自身を含めて時間にうるさいことで名代なのである。インタヴューが一時間そこそこで済むと、また電車に乗り、ここでは週に三齣、英語の講義を持っている――、二つは高校生および既卒者向け、もう ひとつは社会人が対象である。昼餐は新大久保駅前の中華料理店でランチメニューのセッ トをとって何も考えず腹に収めた。受験英語の指導では、雰囲気が常にそっくりな学生が 一人いるのだが、そのことはまだ話していない。ふたりはそんな話柄でも厭な気のする間 柄ではない。〝似ている〟のはむろんルーズな常の性格についてであって、容姿のことではない。

 いっぽう、常は午前十時から午後三時がコア・タイムなので、弟の哲に較べるとだいぶ暢気な出勤ぶりである。ネットワーク・ウォークマンで聴いているのは弟の哲から教わったジェスロ・タル――、一九七八年のライヴ盤、曲は〝ジェラルドの汚れなき世界〟に続いて〝天井桟敷の吟遊詩人〟だ。常も列車ではグリーン車の二階席を好む方で、駅前のエクセルシオール・カフェかスターバックスで買った飲み物とビスケットか何か軽食をもち込んで、景色を見ながら食べるのが好きだった。哲の影響で最近はプログレッシヴ・ロックを聴くことが増えているのだが、ブリティッシュ・ブルーズも好きだ。一九七〇年頃のこの両ジャンルはつかみ所がなくて(或いは無数にあるとでも言うべきか)、例えばプログレッシヴ・ロック・バンドのテンペストで歌っているポール・ウィリアムスはもとはジューシー・ルーシーというブルーズ・バンドの出身だったりする(割と引き締まったハードな音だった)。又、一九七八年に〝悲しきサルタン〟のスマッシュ・ヒットをひっさげてデビューしたダイアー・ストレイツだが、ドラムスのピック・ウィザースはその約十年ほど前にスプリングというメロトロンを三台も使ったプログレッシヴ・ロック・バンドで叩いたことがある。それから、ユーライア・ヒープの我が国では最も有名だと思しきアルバム「対自核」でドラムスを担当しているイアン・クラークは、その一、二年前にはクレシダというプログレッシヴ・ロック・バンドのメンバーだったことがあってレコードを二枚吹き込んでいる。常はその辺りの事情を調べていくこともまた好きだったのだ。

 今会社では、医療機器を取り扱うメーカーからまとまった数の案件が来ているところで、 メーカーだから朝早くのうちに納品を求めてくるものが多いため、しぜん孫請けの翻訳者 に求める納期も早めになっていて、続々と上がってくる。常はそれを見ながら、まるで魚 の卸売市場みたいだな、と不謹慎なことを考えていたのだが、ふとメールの差出人欄に「青 山操子」と出ているものにぶつかり、ああ青山さんにはこないだおかしな音を聞かせてし まって申し訳なかったな、と反省するのだった。

「鈴之木さん、わたし今日は早めに上がりますので」

 PCに向かう常の背中に向かって、同僚の渡辺愼也が声をかけてきた。

「うぃーっす、お疲れさん。…これからデート?」

 こういう豁達で気の置けない、かといってそうべたべたと纏わり付くのでもない性質も、 常が会社で好かれる理由の一つになっている。そう、こうして恒産があり、もの事を隠し 立てにしない男がホモである訳ないのだ。

 今日の晩餐は何にしますかね、と考えながら常は続々と上がってくる翻訳原稿に目を通 しながら考えていた。――と、そこへスマートフォンが鳴った。いちいちディスプレイを 見ずとも着信音(イエスの〝ラウンドアバウト〟だ)で直ぐわかる。〝通話〟ボタンを押し、 「何じゃい?」

 目で原稿を追いながら応じる。と、哲は、 「ねえ兄貴、今夜晩メシなににする?」

 と来たので、取り敢えず常はのけ反る。 「さっすが哲っちゃん、もう魂が呼び合っちゃってるね」

 電話口で頻りと感慨にふける兄に弟は戸惑う。

「……どうかした?」 「んー、いやいや何でもないよこっちのハナシ。あはははは。は」 「……で」 「あ、そうね。――作り置きのトマト・ソースがある。あと、解凍さえすればハンバーグ・ステーキの種がまだあったろ」 「今日は兄貴、何時頃になる?」

 常は頭の後ろで手を組んだ。 「ちょい遅くなると思うなァ」 「――じゃ、ぼく今夜家に帰ったら、さきトマト・ソースあっためてるから」


「ほうらあっ、やっぱりそうだ!」忍は上智大学の革綴じの卒業アルバムを開いて言った。 「お姉さん!?」

「なあに忍、どうかした?」

 前掛けで手を拭きながらやって来た操子に、

「この人よ。知らない?」  その顔を見せられた操子は固まった。 「――――――――知ってる」

「でしょう? だと思ったんだ」

「うん。この会社の忘年会に行った時、挨拶したことがあるわ」

「本当ォっ!? 鈴之木哲くん?」

「ん。――でも、何だか……」

「なあに?」

「うん……」

 操子にはうまく言い表すことができない。が、〝とてもよく似た肖像画〟をみせられた 時の気分によく似ている。

「どうかした?」  忍が問うた。

「ううん、別に何でも……」

 操子の返辞は尻尾が宙に浮いたままだ。

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