第3話 進路
「さっぶ……」
外に出た僕は、腹の底から冷えるような寒さに、唇を震わせた。玄関の戸を閉め、いつもの待ち合わせ場所である小さな赤い橋に向かう。十二月も半ばを過ぎ、季節はすっかり冬だ。
「よっ」
橋のたもとに佇む、マフラーを巻いた制服姿の少女に、僕は声をかけた。白い息を吐きながら、今日も無愛想な顔の宮村が、朝の挨拶を口にした。
「…おはよ」
「おはよ。じゃ、学校いくか」
僕の言葉に、宮村はこくりと頷いた。すぐに僕たちは並んで歩き出す。
―僕がずっと燻らせていた後悔を、ちゃんと言葉にして、宮村に伝えた帰り道。
あの日以降、僕たちは登下校を共にするようになった。朝はこうして橋で待ち合わせて、放課後は下校ラッシュの時間帯をずらして、少し遅れて二人で帰っている。
それもこれも、僕からの提案だった。この一年、頭の片隅に追いやり続け、それでも時折フラッシュバックした苦い記憶を振り払えて、僕は随分陽気になってしまったのだ。気付いた時には、『これからも一緒に帰らない?』と宮村を誘っていた。
「ねえ結城」
「ん?」
隣を歩く宮村が、僕を見上げた。
「ほっぺにジャム、付いてるよ」
「え!?」
僕は慌てて、手の甲で頬を拭った。見ると、たしかに粘り気のある紫色の物体が、こすった手に付着していた。朝食のトーストに、ブルーベリージャムを塗ったことを思い出す。
「…なんでもっと早く言わないんだよ!」
「いや、いつ気付くのかなーって思って泳がせてたけど、結城、ほんとに気付かないから」
そう言って宮村はクスッと笑った。顔に熱が昇るのを感じた僕は、ぷいっと前を向いた。東山中の大きな校舎が見える。まあ、学校に着く前に教えてくれただけ、良かったと思うことにしよう。
昇降口で靴を履き替え、僕たちは階段を上がった。朝八時前の学校の廊下は、冷たい静寂で満ちている。一緒に登校することが決まった際、宮村の方から、『なるべく人に見られないよう、早めに行こ』と要望を受けた。僕も航たちに目撃されるのは避けたかったので、素直に了承した。帰る時も、宮村からの提案で、みんなが下校した後に待ち合わせている。
「じゃあね」
「うん、また後で」
小さく手を振って教室に入る宮村に、僕は笑顔で応えた。クラスの違う僕たちが、次に会うのは放課後になる。まだ一日は始まったばかりなのに、僕は早くも、夕焼けに染まる宮村の顔を思い浮かべた。
*
放課後。誰もいない教室には、僕がシャーペンを走らせる音だけが、かすかに響いていた。手元に開いた数学のワークには、三角形を何個か組み合わせた複雑な図形が姿を見せていた。この線とその線が平行でこっちの角が錯角だから二つの図形は相似である……って、なんのこっちゃ。
ぱたん、とワークを閉じた僕は、黒板の隣に掛かった時計を見やる。針は17時を示していた。それは、僕たちの約束の時間だった。
やった…!ようやく宮村と話せる!
自然に緩む頬を抑えつつ、筆箱たちを鞄に突っ込んで、僕はスキップで教室を後にした。
「ごめん、遅くなった」
昇降口で突っ立っていると、背後から声がした。振り返ると、宮村が立っていた。
「いや全然大丈夫だから!こうして宮村が来るのを待つ時間、わりと好きだから!」
「あ、そう…。てか、なんでそんなに食い気味なの?」
困惑した様子の宮村に問われ、僕は言葉を濁してしまう。この気持ちの
「帰ろ」
宮村が言った。この時期、太陽は早くに沈む。外は既に薄暗かった。僕は「うん」と頷くと、小さな歩幅の宮村と並んで、昇降口を出た。
帰り道。両脇に並ぶ家々からは、暖かな光が漏れていた。加えて、どこかの家の夕飯の匂いが、鼻先を掠めた。
ぐぎゅるるるる、と音がした。隣を見ると、街灯の光を受けた宮村の顔が、真っ赤に染まっていた。
「お腹空いたの?」
「……まあ、うん」
マフラーで口元を隠す宮村。それを見た僕は心が和むのと同時に、なんとかして宮村の空腹を解消してやれないかと考えを巡らす。
「コンビニはさっき通り過ぎちゃったしな……う~ん……宮村、いつも夕飯は何時くらい?」
「20時半とか?」
「え!遅くない!?」
驚愕をそのまま口にした僕に、宮村は曖昧な表情で答えた。
「お母さん、仕事で帰り遅いから。それ待ってたら、どうしても」
「ああ……」
軽率だったな、と僕は自責した。自分の家のタイムスケジュールを物差しに、宮村の家庭を測ってしまった。前に父さんから、『自分の当たり前は他人の当たり前じゃない』と言われたことを思い出す。
「宮村」
「なに?」
すっかり夜の帳が降りた住宅街。ぼやけた街灯の下、僕は彼女の目を見ていた。
「…よかったら、うちでご飯食べてく?」
*
「おかえり秋久ー!」
家に帰ると、玄関を上がってすぐの所にあるダイニングから、張りのある声がした。靴を脱ごうとした宮村が「美味しそうな匂い……」と小さく鼻を動かした。たしかに肉を油で揚げたような、食欲をそそる香りが漂っていた。
「ただいまぁー」
ダイニングに入ると、制服にエプロンという調理実習みたいな恰好の女性が、僕たちを振り返った。
「今日はお母さんたち遅くなるっぽいから私が夕飯作ってるねー……って!?」
驚愕に瞳を見開いた女性が、長い栗色の髪を揺らして、僕たちの方に駆けてくる。
「秋久…あんたこの子…彼女…?」
僕と宮村を交互に見やる女性に、僕は溜め息交じりで答えた。
「ちがうよ、はる
僕の紹介に合わせて、「はじめまして。お邪魔してます」と頭を下げる宮村。
「あ、あはは~!お姉ちゃん少し事情が飲み込めないのは置いといて……私は秋久の姉の、
ばっ!と、はる姉が宮村の手を取った。アメリカ人顔負けのフレンドリーっぷりに、宮村は少し気圧されていた。
「あ、あの…いきなりお邪魔して、ご飯とか、その……」
左右に視線を飛ばして、切れ切れに言う宮村。その言葉の隙間を埋めるように、「ぐうううう」と腹の虫が鳴る。
「ぜーんぜんっ!気にしない気にしない!むしろ唐揚げ作り過ぎちゃってどうしようって思ってたとこだから!ささ、雪乃ちゃん座って!」
ダイニングテーブルに宮村を座らせると、はる姉はテキパキと唐揚げをキッチンペーパーに移し始めた。僕は「待ってて」と宮村に目配せして、食器の準備を始めた。
ものの五分で、食卓に暖かな料理が並んだ。「いただきます!」と手を合わせて、僕たちは早速はる姉特製の唐揚げに箸を伸ばした。
「!…美味しいです…」
唐揚げを一つ口に含んだ宮村が、キラキラと目を輝かせた。「でしょぉー?」と、はる姉が自慢気に微笑んだ。宮村を連れてきてよかったと、僕は心の底から思った。
あっという間に皿の上は空になった。満足そうに頬を緩める宮村に、はる姉が話かけた。
「雪乃ちゃん、この時期大変じゃない?受験期真っ只中で」
宮村は小さく肩を震わせた。はる姉が「あーごめん。こんな話、わざわざしたくないよね」と笑って質問を取り消そうとすると―
「べ、勉強はしてるので。そこは特に不安はないです」
「おぉー?それは頼もしい発言だねぇ。秋久も少しは雪乃ちゃんを見習ったら?」
「ぼっ、僕は別にサボってない!」
訝しげに笑うはる姉から、僕は視線を外す。その時、宮村が口を開いた。
「あの…晴花さんの制服って、東高のですよね?」
はる姉が身に纏うブレザーを、宮村はやけに神妙な顔で見つめていた。
「そうだよ。東高の2年。だから、私が受験したのは一昨年」
「この人、生徒会長やってるんだよ。似合わねーよなぁ」
僕が補足すると、はる姉のゲンコツが降ってきた。いってぇ……だからこういう暴力的なところが、生徒会長らしさに欠けるんだよなぁ。
「東高、か」
ぽつり、宮村が呟いた。東高は県内トップの進学校で、航みたいな頭の良いヤツじゃないと、挑戦することすら厳しい。僕みたいな中の上くらいの成績のヤツは、たいてい東高よりワンランク下の、西高を受験する。
そういえば、宮村はどこの高校を受けるのだろうか。やっぱり、僕と同じ西高?
でも、今の口振りからなら、東に特攻する線も考えられる。
「なあ。宮村ってどこ受けんの…」
「ごちそうさまでした。私、そろそろ」
僕の言葉を遮るように、宮村が席を立った。すぐに「また来てね、雪乃ちゃん!」と、はる姉もテーブルを離れた。
「待って!家まで送るよ!」
玄関に向かった宮村を、僕は追いかけた。宮村は「別に平気」と断ったが、同じ女子のはる姉からも夜道の危険性を説かれ、渋々僕の同行を認めた。
家を出ると、凍えるような寒さが身体を襲った。はぁーと手の平に息を吹きかけてから、僕は隣を歩く宮村を見た。
宮村は、目を伏せて歩いていた。細長い睫毛が、道路に向かって伸びている。
さっきまで賑やかに唐揚げを頬張っていたのが嘘みたいに、僕たちの間には冷たい静寂が流れていた。
「…はる姉、うるさくなかった?」
沈黙に耐えかねた僕は、言葉を発した。
「いや、良い人だった」
そっけない返事だった。
「…ほ、ほんと寒いなぁー。僕もコート欲しいなぁ」
「そうだね」
「………」
僕は意を決して、足を止めた。
「…なに?」
突然立ち止まった僕に、宮村が仏頂面を向ける。
「…宮村さ、高校、どこ受けんの?」
まっすぐ彼女の瞳を見つめたまま、僕は尋ねた。
「…関係ないでしょ」
宮村は、ばつの悪そうな顔をして、僕から目を逸らした。彼女のその態度が、僕の怒りに触れた。
「か、関係ないって何だよ!それぐらい、教えてくれてもいいじゃん!」
このまま宮村のことを何も知らないで、微妙な距離感を続けるのは嫌だった。僕はもっと、宮村のことを知りたかった。
だから、本気で叫んだ。
「……私は」
宮村は観念したように、小さな口を開いた。今にも消え入りそうな声に、僕は耳を傾けた。
「私は、東京の高校を受ける。中学を卒業したら、引っ越すから」
「え………」
夜の暗闇に、絞り出したような宮村の声が響いた。それは、温かった僕の心に落ちて、冷たく溶ける雪のようだった。
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