第40話
月のない夜だった。
キルクトーヤは追跡を躱すために夜空の高いところを飛行した。落ちたらひとたまりもないだろう。しかし、落ちる気がしなかった。彼は迷わず、まっすぐに飛ぶことができた。
腕の中で、幼いジークは小刻みに震えている。吐いた息が白く染まる。季節は冬のようだった。それだというのに、ジークは薄いシャツを一枚着ているだけだった。
キルクトーヤはジークをきつく抱きしめた。
「ジーク」
名前を呼ぶ。腕の中のその子はいつでもキルクトーヤを助けてくれた勇敢な英雄とは違い、か細い。
少年の背中をやさしく叩く。
「大丈夫。怖くないよ」
キルクトーヤはそう言ったが、腕の中の子は震え続け、時折すすり泣く声をもらした。
キルクトーヤは空を見上げた。星がきれいな夜だった。高いところにいることもあって、手を伸ばせば届きそうに見えた。
「聞いて」
キルクトーヤはやさしい声で星の神の瞳の話をした。
――この五つの星をつないだ星座は神の瞳と言われている。夜に怯える必要はない。夜の間、我々は神の瞳に見守られている。
ジークから教えてもらったその話。自分を救ってくれた話でもある。
キルクトーヤは少しでもジークの恐怖が和らげばいいと思った。願わくば、この夜の出来事をきっかけに夜に怯える日々が彼に訪れないように。
キルクトーヤは言った。
「この話、知っているだろう?」
ジークは小さく小さく言った。
「……知らない。初めて聞いた」
その声は小さいが、返事がきけたことにキルクトーヤはほっと胸を撫でおろす。と同時に、「星の神の瞳の話」をキルクトーヤから聞いたと言ったジークの言葉を思い出した。
「そっか……」
キルクトーヤは息を吐く。
――つながっていく。
「なら覚えておいて。僕の星の神様の話。……僕の悪夢はこの神様のおかげで終わったんだ」
そう言って、ジークを抱きしめる腕に力を込めた。
――十年後の僕に伝えてくれ。
*
ネービンジャー孤児院の入り口に降り立つ。夜半。孤児院の灯りは消え、あたりは静まり返っている。
キルクトーヤは抱えていたジークを地面に降ろす。ジークはその場に力なく座り込んだ。
「ジーク」
キルクトーヤは彼の前に膝をついて、足の拘束をとってやる。それから彼の手を握った。彼が次にキルクトーヤに会えるのは十年後だ。その間、彼の人生が明るいものであるように祈る。
「これからつらいこともあると思うけど、これだけは覚えておいて」
ジークの手に唇を寄せる。
「愛してる」
一度口に出すと、気持ちが溢れて止められなくなる。
「大人になったら僕と結婚して」
思わず漏れた自分の本音に苦笑する。
幼いジークはもぞもぞと手足を動かしている。彼はくぐもった声で言う。
「あの、頭の袋を、外して。あなたは誰?」
彼の頭を撫でる。そのまま頭を覆っている麻袋を取ろうとして、やめた。何も変えてはいけないのだ。
キルクトーヤは立ち上がる。
「僕はもう行くよ」
「待って……! 行かないで!」
「十年後に会おう。待っているから」
キルクトーヤの意識はそこで途絶えた。
*
ヴァールハイト国グレン暦八二一年一月
目を覚ましたとき、キルクトーヤはベッドの上で眠っていた。身じろぎすると、すぐ傍に座っていたジークが覗き込んできた。
「ここは?」
「孤児院のベッドだよ」
キルクトーヤは身を起こす。ジークはコップに水をいれて差し出す。それを受け取って一気に飲み干す。
「気分はどう?」
「悪くないです」
ジークは何か言いたげな顔をしている。キルクトーヤは彼が聞きたいことがなにであるか正確に理解できている。
キルクトーヤは言った。
「……十年前に行って来ました」
「……八歳の私はかわいかったかい?」
キルクトーヤは「ええ」と言って頷く。そして笑った。
「思わず、結婚を申し込んでしまうくらいに」
その言葉を言い終わった瞬間、ジークがキルクトーヤの唇を奪った。
「あ……」
やわらかく、熱いそれが重ねられて、キルクトーヤは頭がくらくらした。愛して、愛される奇跡。それが自分に舞い降りたことを噛み締める。
唇が離れたとき、目と目が合う。どちらからともなく笑い出す。
ジークは言った。
「助けてくれてありがとう」
「違います……助けられたのは僕です」
「それに」とキルクトーヤは続ける。
「杖を、あなたが僕に杖を返してくれなかったら、何もできませんでした」
キルクトーヤの杖は時を渡り、ジークの手によってキルクトーヤのもとに返された。それがなくては、この奇跡は起きなかった。
ジークは片目をつむって言う。
「十年前の結婚の申し込みに、いま返事をしても?」
「うん」
英雄はキルクトーヤの手を取ってそこにキスを落とした。
「もちろん。よろこんで」
その姿を見て、キルクトーヤは咳ばらいをした。そして彼もいたずらっぽく言う。
「あの日の面会室での結婚の申し込みに、いま返事をしてもいい?」
「ああ」
「結婚しよう、ジーク」
言い終わるや否や、ジークはキルクトーヤを押し倒した。そのまま彼はキルクトーヤの上に馬乗りになる。
ジークの金色の三つ編みが落ちる。キルクトーヤはその髪をほんとうに美しいと思った。
「キルクトーヤ……」
吐息とともに名を呼ばれ、腰が熱くなる。彼はゆっくりとキルクトーヤの首筋に唇を寄せる。
「ま、待って……」
さすがに、キルクトーヤは制止の声をあげる。しかし、ジークは構わずシャツのボタンに手をかけた。
「十年待ったんだ」
彼は言う。その目は熱を持ち、肌は燃えるように熱い。
「もう待てない」
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