第39話

ヴァールハイト国グレン暦???年??月


 次に目を開けると暗い場所にいた。そこがどこであるか理解するよりさきに体が硬直した。

 ど、ど、ど、と耳元で鼓動が鳴る。汗がにじみ出す。目だけをぐるぐると動かして、ようやく自分が見覚えのある場所にいることに気が付く。


「ここは……」


 掠れた声が出る。喉がからからだった。目に映るのは赤い絨毯に、アカンサスが描かれた緑の壁紙だ。家具は大きな天蓋付きのベッドがひとつ。あとは衝立と、その向こうに便器が置いてある。灯りはろうそくが一本だけ。


「ドゥンケルハイト家の、地下室……」

 違うのは、中央に石造りの台が置かれていることだけだ。キルクトーヤはその台の上に降り立っていた。

「う、うぅ……」

 足元から声がして、視線を動かす。

「え……⁉」

 慌てて飛びのき、床に降りる。台の上には頭に麻袋をかぶせられ、さらに両手両足を縛られた子どもが横たわっていた。麻袋の隙間から、すすり泣く声と金色の髪がこぼれる。


 ――金色の髪。


「……ジーク?」

 信じられない気持ちでつぶやく。そのキルクトーヤの後ろで、かたりと物音がした。キルクトーヤは勢いよく振り返る。

 暗闇の中に、ひとりの男が立っていた。男は「驚いた」と言いながら、目を見開いてキルクトーヤを見つめている。

 男は両手を広げる。右手に持った銀の杖がろうそくの光を妖しく反射する。

「儀式は成功だ!」

 男は歓喜に震えている。一歩こちらに歩を進める。キルクトーヤの心臓が大きく跳ねた。


 キルクトーヤはその男の名を知っている。

「ナハト」

 その名を音にすると、キルクトーヤの全身が粟立った。



    * 



 ナハトは高らかに、英雄のように拳をつきあげて言った。

「ついに私は私の天使を呼び出したぞ……!」

 彼の大きな声は地下室によく響いた。びりびりと壁が鳴る。

 ナハトの目は獰猛な獣のようにぎらぎらと光り、キルクトーヤを捉えている。

「天使……」

 キルクトーヤはナハトから出たその言葉を繰り返した。ナハトから何度も聞いたその言葉。


 ――私の天使を呼び出した?


 キルクトーヤは改めて足元を見る。石造りの台を中心に、円形の模様が描かれている。古の文字と記号を並べたそれは――。


「魔術式……?」

 キルクトーヤは薄暗い中それに目を凝らす。それらしい文字と記号が並んでいるが、術式としては成立していない。まったくのでたらめといっていい。


 しかしナハトは何度も拳を突き上げた。

「成功だ! 成功だ!」

 ナハトは卑下た笑みを浮かべる。

「リンハオの魔術書を買ったのだ。高かっただけのことはある。願いを叶える天使の召喚術。金色の髪の子どもを生贄に捧げる、禁断の術。やっと成功したぞ……!」

 思わずキルクトーヤは声をあげる。

「召喚術だって? 子どもを生贄に?」

 馬鹿げている。大魔術師リンハオがそんなでたらめなことを書物に書くわけがない。偽物だ。


 キルクトーヤは首を振った。しかしナハトは真剣だ。彼はその顔に卑下た笑みを張り付け、キルクトーヤに命令した。

「さあ、天使よ! 私に新しい足を与えるのだ!」

「足……」

 その願いに、キルクトーヤは目を見開く。ナハトの足は彼が子どもの頃に事故に巻き込まれたことで不自由になったのだと聞いたことがあった。

 キルクトーヤの脳裏に、彼が売買したという子どものリストの存在がよぎった。


 声が出た。強気な声だった。

「そのために、子どもたちを何人も?」

「何が問題なんだ?」

 ナハトは意味がわからないといった様子で肩をすくめる。

「その辺で野垂れ死ぬ予定の野良猫が私の役に立つのなら、喜んで死ぬべきだろう?」


 杖を握る手に、力が入った。恐怖は消え、目の前が赤く染まる。

「お前が」とキルクトーヤは言って、ナハトを睨みつける。

「ほんとうの屑でよかったよ」


 キルクトーヤは杖を振り上げた。

 キルクトーヤは素早く詠唱をする。ヒュドラを刈り取ったときに操った火の魔術は弧を描きながら進みナハトを襲う。

 しかし、その火はナハトに届く前に霧散する。彼の胸から一枚の札が破れて落ちる。

「護符……!」

 それは結界の術式が書かれた護符だった。ナハトの周囲に強固な結界が展開される。


 同時に、騒ぎを聞きつけた使用人たちがばたばたと足音を立てて地下室に続く階段を駆け下りて来た。


 キルクトーヤは杖を握りしめた。ナハトの結界を破壊するには時間がかかり、時間をかけるとこちらが不利になる。

 彼は自分に言い聞かせるように言う。

「僕が人殺しをすることを、誰も望んでいない」

 わかっている。精霊シュネーがキルクトーヤを過去に送り込んだのは、過去を変えるためではない。

「試練を、突破する」

 ずっとキルクトーヤを支配していたナハトへの恐怖は消え去っていた。むしろ、憐れみさえあった。


 キルクトーヤは幼いジークを抱えて駆けだす。制止しようとする使用人たちの間を杖を振ってすり抜けて階段を駆け上がる。


 ナハトが絶叫する。

「行かないでくれ! 私の天使!」

 キルクトーヤは窓を破る。そして、杖を振るう。あれほど苦手だった飛行魔術が、嘘のようにきれいに展開された。彼はジークを抱えて飛翔した。

「お前は裁きを受けるんだ。……然るべき場所で」

 小さくなっていくドゥンケルハイト家の屋敷を見下ろして、キルクトーヤはつぶやいた。

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