後編


 お姉様を目で追っていたカイオス様だけど、追いかける様子はない。


「いいのですか、王子殿下! お姉様を追いかけなくて……」

「ええ。未練は元々ありませんので」

「……は……?」


 未練が、ない?

 理解のできない言葉に、私は眉を寄せた。


「カイオス様はいつもお姉様を思い出して、つらそうなお顔をしていらっしゃったではないですか!」

「当然です。僕のせいで無理やり婚姻を結ばされ、あの家でずっと虐げられていたんですから。スティアを思い出さぬ日はありませんでしたよ。必ず救い出して幸せにすると、昔から決めていた。それが僕の望みでした」


 揺るぎのない瞳。知っていたけど、カイオス様はとても真面目な方なのだと再確認させられる。


「リーヴェ。あなたにも申し訳ないことをしました。貴族の世界に足を踏み入れさせることになり、僕の婚約者にさせられ自由を奪ってしまっていた。今からでも好きに生きてもらえればと思っています」


 そして、優し過ぎる。

 私が強制的に養女にさせられて、カイオス様の婚約者になったことまで、ずっと責任を感じていたのかと。

 婚約を破棄することによって、私を自由にさせられると……そう、思って。


 でも、私は……っ


「お嬢様」


 振り向くと、メリアが胸の前で拳を作ってこくんと強く頷いていた。

 これは……勇気を出せということ?

 カイオス様はお優しいだけで、私に興味はないというのに?


「む、無理よ、メリア……」

「今言わねば、一生後悔なさいますわ」


 メリアの目力に押されて、私は視線をカイオス様へと向けた。

 一生後悔する。それは嫌だ。

 私は弾かれたようにその名を口にする。


「カイオス様……っ!」


 王子殿下と言われなかったカイオス様は、ほんの少し驚きを見せた後、優しく微笑んだ。


「なんでしょう」

「私をもう一度、リーヴェと呼んでいただけませんか!?」

「……リーヴェ?」


 首を傾げながらカイオス様は呼んでくれたけど……そういう意味では、ないの。


「私は……カイオス様の婚約者になった時、リーヴェと呼んでくださって嬉しかった……そして、呼ばれなくなった時は悲しかったんです!」


 嘘偽りのない、私の気持ちを。

 困らせるだけかもしれないけれど、どうか知っていてほしい。


「私は所詮、お姉様の身代わりだから……愛されることはないってわかってたのに、私は……カイオス様を愛してしまっていました……っ」

「……」


 カイオス様が目を見開いたまま固まってしまった。

 今さらこんなこと言われても困るに決まっている。

 もう私たちは婚約者でもなんでもない。ただの他人なのだから。

 それでも、私の気持ちを最後まで。


「この四年間、私はとても幸せでした…… 初めて人を愛する喜びを教えてくださったカイオス様に、感謝いたします……!」


 私は涙をこらえようと唇を噛む。

 そんな私をメリアは後ろから抱きしめてくれた。


「よくお伝えなさいました、お嬢様……!」

「メリア……う、うぅう……っ」


 メリアの温かさに触れて、私は我慢できずに涙を滑り落とす。

 床にいくつもの水玉模様が描かれた。


「リーヴェは……僕を恨んでいると思っていた」


 じっと静かに聞いてくれていたカイオス様の言葉に、私は視線を上げる。

 そしてこくんと頷いて見せる。


「そう……ですわね……いきなり養女に出されることになったのも、令嬢としての振る舞いを身につけさせられたのも、恋愛を禁じられて勝手に婚約させられたのも……全部カイオス様のせいだと思っていましたから」

「合っています。それは全部、僕のせいですから」


 そうだった。私は最初、なんて迷惑な人なんだって、そう思っていたのだ。

 でも婚約して、交流が始まると……人に気遣いができる、底抜けに優しいお人好しだとわかった。


 私に対してもお姉様に対しても、ずっとずっと引け目を感じていたんだ。カイオス様は……。


 ならば。

 それならばきっと、私がもう一度婚約者になってとわがままを言えば、カイオス様は応えてくださるだろう。

 お姉様に対して責任を取ろうとしていたのと同じように。

 愛していると告白した私の気持ちを、蔑ろにはしない。それどころか、きっと尊重してくれる。自分の人生を犠牲にしてでも。カイオス様は、そういうお方だから。


 じゃあ、カイオス様の幸せはどこにあるのだろう。

 王子として生まれて、好きになった人とは引き離され、周りに決められた私と婚約させられて。罪責感だけで結婚できてしまうような、優しい人。


 きっとカイオス様は、責任を取ると言ってくれる。だからこそ、私はそれを断らなきゃいけない。

 カイオス様にこそ、幸せになってもらいたいのだから。


「リーヴェ。勝手を言います。もう一度、僕の婚約者になってもらえませんか」


 ほら、やっぱり。

 カイオス様は私に責任を感じている。

 私が勝手に愛してしまっただけだというのに。

 思わず荒んだ笑みを漏らすと、カイオス様はほんの少しだけ端正なお顔の眉間を寄せていた。


「いけませんか。リーヴェが僕のことを愛してくれているというのなら」

「愛しております。けれど、責任をとってほしいとは思っていません」

「お嬢様……!」


 メリアが私の手をぎゅっと握った。『結婚できるチャンスなのに、どうして』と顔に書いてある。

 私はそんなメリアを見て、にこりと笑みを見せた。


「いいのよ、メリア。カイオス様が私に自由を与えてくださったように、私もカイオス様に自由なっていただきたいの。スティアお姉様への罪悪感も私への罪悪感もすべて払拭して、ようやくカイオス様は本当にお好きな方と向き合えるんだわ」


 ここで邪魔をしてはいけない。

 カイオス様にだって、幸せになる権利はある。

 もしここで私が元に戻っては、意味がなくなってしまうから。


「気持ちを伝えられてすっきりいたしましたわ。どうかカイオス様、素敵な恋をなさって幸せなってくださいまし……」


 最後までお姉様のように凛としていたいと思っていたのに。情けなくも、声が震えてしまった。

 カイオス様といつか結ばれるであろう誰かへの嫉妬が止まらない。

 彼の隣に立つのは私でないことが、やたらと寂しくて……息ができないほど、苦しい。


「リーヴェ」

「はい……」

「僕はもう、恋をしています。あなたに」

「……はい?」


 予想外の言葉を受けて、私は令嬢にあるまじき調子外れの声を出してしまった。

 口を開けたままぽかんと見上げると、カイオス様は困ったように眉尻を下げて少し微笑んでいる。


「僕なりにあなたを大切にしていたつもりです。気づかなかったでしょうか」

「いえ、それは……もちろん気づいておりましたけれども」


 今度は嬉しそうに微笑まれている。

 カイオス様は婚約してからずっと、私を大切にしてくれていた。誰よりも私がよくわかっている。だけどそれは、私への罪悪感からだったのでは?

 ちょっと頭の整理が追いつかない。

 カイオス様が恋をされておられた。誰に。私に。

 ……なんの冗談なのか。

 私は混乱した頭のまま、口を開いた。


「そんなに無理して責任を取る必要はありませんわ。カイオス様の思うまま、自由にしていただければ、それで」

「ありがとう。自由にさせてもらうよ。もう一度リーヴェに婚約者になってもらいたい」


 それでは話が戻ってしまっているのですが……!?


「お待ちくださいまし! カイオス様はあの時、望んだのは私ではないとおっしゃっていたではありませんか!」

「スティアを救うのが僕の長年の望みでした。それを否定はしません」

「なら……っ」

「だけどスティアはもう幸せだと言う。僕の望みはもう、叶っていたんです」


 ほっとしたような、大きな荷物をようやく下ろせたような、晴れ晴れとしたそのお顔。

 私との婚約も破棄して自由になれた今、再び荷物を背負う意味は……ない。

 なのに、もう一度私との婚約を望んでいるということは、カイオス様は本当に私のことを……?


「だから、ようやく素直になれる。僕が今、心から愛している人は……リーヴェなのだと」


 カイオス様の甘く優しいお顔を見ていると、勝手に手が震える。

 隣でにっこりと微笑んだメリアが、そっと立ち去ってくれた。

 二人きりになった私たちは、どこか緊張していて。


「ほ、本当に本当なのですか? 一体、いつから……」

「刺繍のハンカチをプレゼントしてくれた時には、恋に落ちていました。だからこそ、望まない結婚を強いられるあなたとは別れるべきだと……僕はスティアを幸せにしなければいけないのだからと、自分の心を偽っていたのですが……」

「私がカイオス様を好きになるのは、想定外でしたのね?」

「嬉しい、想定外です……っ」


 いつも穏やかで凪いだ湖面のようなカイオス様が、喜びを溢れさせている。

 本当だ。本当に、カイオス様は私のことを……こんなにも。


「カイオス様……いいのでしょうか……」

「なにがです?」

「もう一度、私が婚約者になっても……!」


 見上げた瞬間、ぽろっと溢れ落ちる涙。

 カイオス様は刺繍いりのハンカチを取り出すと、私の涙を優しく拭いて──


「今度はちゃんと結婚までいきましょう。生涯、大切にします」


 そう、約束してくれて。

 私たちは視線を重ねると、恋する瞳で微笑み合った。

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「僕が望んだのは、あなたではありません」と婚約破棄をされたのに、どうしてそんなに大切にするのでしょう。 長岡更紗 @tukimisounohana

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