カエルの王女

増田朋美

カエルの王女

その日もだいぶ涼しくなって、のんびりと過ごせるようにもなって、スポーツの秋とか芸術の秋とか、呼ばれる季節になってきた。その日、杉ちゃんが、いつもどおりに製鉄所に行ってみると、一人の女性が、応接室で、製鉄所を管理しているジョチさんこと曾我正輝と話をしていた。

「おはようさん。ジョチさん、この女の人だれだ?」

杉ちゃんが聞くと、

「はい、徳松由美さんとおっしゃる方で、お姉さんをこちらに利用させたいということで来られました。今日から利用したいということで、お姉さんの亜利沙さんは、今水穂さんと一緒におられます。」

とジョチさんは答えた。

「はあ、そうなんだね。それでお前さんは、お姉さんをどういうわけでここを利用させようと思ったの?」

杉ちゃんが聞くと、

「姉は、私から見た子供時代は、とても優秀で、成績も良くて、本当に理想的な人だったんですけど。」

と、由美さんは話し始めた。

「はあなるほどね。つまりお前さんにしてみれば理想のお姉さんだったんだが、思春期の進路を巡る問題でそれを乗り切ることができなくて、今暴力沙汰を起こすような存在になって、お前さんを含めご家族を困らせる事になっている。違うか?」

杉ちゃんは、でかい声で言った。ジョチさんは、杉ちゃんがあまりにも平気な顔でそう言ってしまうので、

「あんまり率直に言わないほうが良いのではありませんか?」

と、言ったのであるが、杉ちゃんは話を続けた。

「いやあ、それはだって、外しては行けない事実なんだろうし、それでお前さんが困ってるっていうのもまた事実だろ。そういうことなら、それははっきりさせちまった方が良いよ。そして、お前さんたちの力ではもう彼女をどうにもできないってことも、ちゃんと理解しろ。そして、お姉さんの心を癒やすというか、楽にしてくれる、専門家に引き渡すことが最善策であることも、ちゃんと心しておけ。まあ、良かったじゃないかよ。こっちであれば、少なくとも、天童先生のような人もいるし、竹村さんのような癒やしの音楽を作れる人もいる。だから、それでお前さんのできることはすべてやったんだ。それで良いと思ってさ、あとは野となれ山となれくらいの気持ちで、お前さんのすることをすればいいさ。」

「それだけで良いのでしょうか。私は、妹として、なんとかしなければと思ったんですけど。」

由美さんがそう言うと、

「ああそんなことはしなくて良い。家族なんてね、どうせ完璧な味方になれるわけじゃない。だから、大事なことは、今ある平穏な生活を捨てないことだ。そうするためにはな、患者さんを、できるだけ早く、専門家に引き渡して、潔くお前さんたちは身を引くことだ。それで良いんだよ。それで。」

杉ちゃんはケラケラと笑った。

「そうですね。結論からしてみればそういうことになってしまうのですが、でも、いくつかご家族として、亜利沙さんの事を聞いて置かなければならないこともありますので、矛盾するようですが、僕の質問にお応えください。彼女の主な症状というか、どんなことで、ご家族を悩ませているのか、教えてください。」

ジョチさんが、メモ用紙を出して、そう由美さんに聞いた。

「ええ、なんといいますか、感情のコントロールというのでしょうか、それが非常に難しいらしくて、いろんな事を感じすぎてしまうのですよね。悲しんだり、疲れたり、怒りだとか、そういうことが、薬を飲まないと抑えられないというか。よく、文献に薬を飲んでさえいれば、何も問題もないって書いてありますけど、そんなことないですよね。」

由美さんは、申し訳無さそうに聞いた。

「確かにそうですね。薬を飲めば何でも抑えられるかというとそうではありません。確かに症状は抑えられるのですが、悪性腫瘍を取り除いていないのと同じことです。そして精神疾患の場合は、その悪性腫瘍が、生きている人間であるということが、非常に難しい問題なのです。」

ジョチさんは、やはり難しいという顔で言った。ここに来る利用者たちは、大変な事情を抱えていることもある。単に勉強する場所がほしいという人もいるのだが、そういう人と、トラブルになったこともある。

「それではわかりました。今日は、17時までこちらでお預かりできますから、由美さんは、良くお休みください。そして、今日の17時に、必ず迎えに来てあげてください。」

ジョチさんは優しく言って、由美さんを自宅へ返した。とりあえず、姉の亜利沙さんは、車の運転免許を所持していないし、大きな収入があるわけでもないそうなので、バスで脱走するということもないだろうということで、杉ちゃんたちは、製鉄所の四畳半に行った。

「水穂さん、具合いかがですか?」

とジョチさんが四畳半のふすまをあけると、水穂さんは、ピアノを弾いていた。弾いている曲は、ショパンのマズルカの40番である。ショパンが晩年に書いたとされる、なんとなく悲しいマズルカ。それを亜利沙さんは近くで聞いていた。

「本当にお上手なんですね。」

と、亜利沙さんは、水穂さんに言った。

「いえ大したことありません。」

水穂さんは、静かに言った。

「そうでしょうか。だって、あたしが昔聞いていたピアニストにも引けを取らないわ。もうなくなっちゃっているけど、すごい上手にショパンを弾く人で、有名だったのよ。あたしも、ああいう演奏ができたらなって思ったわ。まあ、親の反対で、それはできなかったけどね。でも、ピアノを弾くというのは、あたしに取っては、大事なことなのよ。」

と亜利沙さんは言うのであった。ジョチさんは、少し首をかしげる。妹の由美さんの話では、音楽学校に言った経歴があるという。だったら音楽を学ぶということはできたはずである。

「ねえ、水穂さん、ついでに、49番も弾けます?」

亜利沙さんに言われて、水穂さんはにこやかに笑って、49番を弾いた。

「どうもお前さんはそういう絶望的なマズルカが好きなんだな。まあ、そういうことであるんだったら、葬送行進曲とか、そういうものが好きそうだけどなあ。」

と、杉ちゃんがいうと、

「ええ、でもあの曲は、あたしが自殺したときにかけてもらいたい。あたし、自殺して、一生を終えるつもりだから。もう、この世の中は、生きていけないのよ。気候変動、民族大移動。そして、もたらされた伝染病。もう、滅ぼされる要素は、全部揃ってるわ。」

亜利沙さんはそう答えた。

「なるほどね。確かに、今の世の中は、大変な世の中でもあります。それで、人生を終わらせるつもりですか?」

水穂さんがそう言うと、

「ええ。あたしはこれ以上生きないのが、最善策だと思っていますから。」

と、亜利沙さんは即答した。杉ちゃんもジョチさんもこれは弱った事になったという顔をした。自殺の事を吹聴されては、本当にそうなってしまう可能性もある。

「それでは、できるだけ早く専門家を呼びましょう。まず初めに、彼女の悲観的な部分を弱める必要がありますね。竹村さんに電話したほうがいいですね。」

ジョチさんがそう言って、スマートフォンを取ると、

「一体私に何をするつもりですか?」

と、亜利沙さんは言った。

「そうですね。竹村さんというクリスタルボウルの演奏者に来てもらって、あなたの感情を緩めてもらう必要があるんです。幸い、クリスタルボウルという楽器は、怒りの感情を和らげる作用があるそうですから、それでセッションをしてもらい、怒りの感情を少し柔らかくしましょう。」

ジョチさんがそう言うと、

「ちょっとまってください。私は、他の人達と、身分が違うんです。だから、身分の高い人のすることを、してもらうことなんてできません。」

亜利沙さんはそういった。杉ちゃんがなんでだと聞こうとするが、ジョチさんはそれを止めて、

「失礼ですけど、あなたは、どこか、病院以外の心を扱う機関にかかったことはなかったのですか?」

と聞いた。

「はい。ありません。」

亜利沙さんは、そう答える。

「それでは、病院で薬をもらうしか、治療方法に出会えなかったというわけですか?」

ジョチさんがまた聞くと、

「はい。だって私は、身分が低いですもの、そういう身分の高い人がやるような事を、なんで私が演らなくてはいけないんですか?それに、そういうところに行けば、職業とか年収とか、そういう事を必ず聞かれますよね。どうせ答えは一つに決まってますよ。働いていない人間は、死ななければだめだっていう。」

亜利沙さんは答えた。

「それを言ったのは誰ですか?」

水穂さんが聞くと、

「学校の先生です。私の担任だった。本当に毎日毎日死ね死ね死ねと言われて、もう学校は生き地獄だった。そんな世の中しか私は経験していません。だから、身分が低いんです。」

亜利沙さんは、あっさりと答えるのであった。

「もう、過去にとらわれるなと言っても無理なんだろうね。きっと学校の先生が今ここにいなくても、言われたということを、否定しては行けないよね。」

杉ちゃんがそう言うと、

「みんなそうやって無責任なこというんですね!私も何回もそのセリフは聞いたけど、何も頭には入りませんでした。忘れろ、過去に拘るな、過去は捨てろ。みんなできないことばかりですよ。それで私は、もうできない人扱い。だから、もう死んだほうがいいんです。」

亜利沙さんは、怒鳴るように言った。

「わかりました。そういうことなら、できるだけ早く竹村さんに来てもらいましょう。人間のちからだけでは彼女を抑えられないのであれば、他のものでなんとかするしかありませんから。」

ジョチさんは、急いでスマートフォンを取って電話をかけ始めた。やめてと亜利沙さんは言うのであるが、水穂さんが、痩せて骨ばった手でそれを止めた。それと同時に、水穂さんの体が真正面に来た。力はないけど、げっそり痩せていて、男性ものの着物なのに、衣紋を抜いてきているように見える。その体を見た亜利沙さんは、それ以上水穂さんに暴力的な態度を取ることはできなかったようで、小さく、

「ごめんなさい。」

というしかなかった。でも、怒りの感情が何度も体を通して現れるらしく、四畳半の柱に何度も頭を打ち付けた。水穂さんは、止めようとしたが、それはできなかった。彼女は何回も頭を打ち付けた。それだけ怒りの感情が湧いてしまうのだろう。そして、誰にも相談できないで悩んでいたこともわかる。そういう事をしないようにするためにも、怒りを表現させる手段があるかというのは非常に大事だなと思った。

ジョチさんが電話を終えて四畳半に戻ってきた。それでも、亜利沙さんは、頭を柱に打ち付けようとする。

「もう、壁に頭をぶつけるのはやめましょうか?」

と水穂さんが優しく言うと、

「はい、私は、身分の低い人間なのでバツが必要だから、まだ演らなければなりません。」

亜利沙さんはそういうのだった。

「そうですか。わかりました。でも、身分の低いことでバツが必要なら、自分の体を打ちつける以外の方法を考えましょう。例えば薬飲んで落ち着いて貰えば、バツが必要ではないとわかるでしょう。」

ジョチさんがそう言うと亜利沙さんは素直にそうですねと応じた。そして、自分で近くにあったカバンを取りに行き、その中に入っている薬を持っていた水筒の水で飲み干した。

「大丈夫です。薬が衝動を和らげてくれますから。あとは、そうですね。薬以外のセッションを受けることが必要だと思いますね。それは身分に関係なく、受けていただいて大丈夫なんですよ。」

ジョチさんがそう言うが、亜利沙さんは、それは嫌だといった。なぜなのか理由を聞いてみると、職業や年収の事をしつこく聞かれるから嫌だということであった。

「仕事をしていない人間は、死ななければだめだと散々言われました。テレビでもそれは言われてるし、本やインターネットでも、それは証明されていますし、すべての人は、それをしなければだめなんです。だから、仕事をしていない人間は幸せになっては行けないんです。」

「全くねえ。変な教師もいるもんだなあ。仕事をしていない人間は死ななければだめなんて法律はどこにもないよ。僕みたいな風来坊もいるわけだしねえ。」

と、杉ちゃんがいうが、

「でも、上流階級の人は、それが許されるんですよね。上流階級のひとは、職業選択の自由もあるし、やりたいことをやる自由もある。だから、身分が高い人は、得策よ。」

と、亜利沙さんは言った。

「そうなんですね。わかりました。それはどこで学んだのでしょうか。」

ジョチさんが聞くと、

「はい、中学校に上がるときに学んだんです。中学生になると、勉強ができるできないで差別されて、志望校別に順位をつけられて、勉強ができない人は、掃除を捺せられたり、部活を無理やりやめさせられたり。だから、学校生活を楽しむことなんて、できやしないんです。学校って、何も楽しいところではない。差別する場所なんです。」

亜利沙さんは、そういうのであった。彼女のつまずきはそういうところからもあるんだなと思う。だけど、これが彼女のご家族や他の人に伝わっていたら、また変わってくるだろうか?より、難しいものになるに違いない。

「わかりました。そういうことなら、確かにあなたは、本当に大変だったんだと思います。それはあなたが悪いわけではない。ただ、そういう運命だったというか、そういうことだったんだと思います。」

水穂さんは、そう、彼女の前に座って言ったのであった。座ったのはもう、立っていると疲れてしまったのだろう。

「そうですよね。だから私は自殺してもいいと。」

亜利沙さんはそう言うが、

「そうですね。あなたの考えでは、自殺してはならないということもただのうるさい小言に過ぎないんでしょうね。だけど、妹の由美さんは、あなたをここにおいて置かれるとき、とてもあなたの事を、心配していましたよ。だから、一人でもそういう人がいるってことは幸せなことだと思いますけどね。」

と、ジョチさんは、腕組みをしていった。

「そうですか。でも妹も心の何処かで私のことを消えてほしいと思っていると思います。だから、もう消えてしまっても結構なんです。」

「まあそう思われても仕方ないでしょうが、でも、僕も似たようなところがあったんですよ。僕は、幼い頃、父がなくなりましてね。それで母がすぐ再婚してしまって、その相手との間に、弟ができてしまったので、まあ僕は事実上晒し者ですよ。それでも、まあこうして、50を過ぎたって生きているわけですからね。今命を絶ってしまっては、これからあることも、また変わってしまうと思うんですよね。」

反発する亜利沙さんに、ジョチさんは言った。

「そんな、綺麗事、私は好きじゃないわ。」

亜利沙さんはそう言うが、

「はい。同じ経験をした人はみんなそういいます。どんなに、励ましても自分はこうだと主張する。だけど、それしかないんですよね。僕も、ずいぶん寂しい思いをしたものですよ。弟が、父親に甘えてることはあったけど、僕には、もういないわけですからね。それはどんなに取り戻してと言ってもできないわけですから。だから、そうですね、あきらめるというか、そういうことも必要なこともあるのかもしれない。」

とジョチさんは言った。

「まあ確かに僕が、一人で寂しくクラビコードに向かっていたことは誰も知りません。だけど自分だけは知っている。世の中なんてそういうものでもあるんです。本当にね、50年生きてみると、自分で結局なんとかするしかなかったことのほうが多い。それは、仕方ないことです。」

「だから、もう嫌だとか、自殺したいとか、そういう事を思わないほうがいい。それより、流れに乗ってしまえ。何もするなとは言わないが、それより、時間がなんとかしてくれるのを待て。それで、いいんだよ。それで。」

杉ちゃんがでかい声でカラカラと笑った。

「でも私、やっぱり、こんな世の中、生きていけるという自信がありません。だって私はいい学校にも行けなかったし、職業にもつけなかった。それでは、もう生きていけないじゃないですか。それでは、もう死ぬしかないって思ってしまうんです。だって私はもう、日の当たる場所に出ることはありませんから。」

と、亜利沙さんは、小さな声でそう言うが、

「いいえ、人間は、あの人よりはましとか、そういう気持ちが無いと生きていけないんです。だから、底辺を支えてあげる人がいて、初めてトップというものは生きてくるんですよ。あなたも、そう思えばいい。もし、すごい偉い人に遭遇すれば、そういう人たちが偉くなれるのは、僕らのお陰なんだと考えればいいんですよ。みんな表に出る人は、すごいことやってるように見えるけど、それはできない人がいるからできるんだって事を、忘れてはいけません。だからお表様という言葉はないんです。全てお陰様なんですよ。」

水穂さんは、にこやかに言った。もうつかれたような顔をしていたが、水穂さんは、座ったまま、そう亜利沙さんをにこやかに見ていたのだった。

「水穂さんはどうしてそんなことがわかるんですか?」

不意に、彼女、徳松亜利沙さんが聞いた。

「僕は低い身分だったから。」

水穂さんは、にこやかに答えた。

「でも、きっとあなたのことですから、あなたのご家族もこの事をちゃんと知っていらっしゃると思いますよ。」

「そんなことありません。うちの人たちは何も教えてくれなかっ、、、。」

と、亜利沙さんはいうが、

「いえ、きっとそういうことは大事なことなので、ご家族は知っていらっしゃるんじゃないでしょうか。あなたのお陰で、ずいぶん、そういう事を学ばさせてもらうことができたでしょうから。」

と水穂さんはにこやかに笑った。もう倒れてしまいそうな感じだったので、ジョチさんが、もう横になった方が良いと言った。水穂さんは、ごめんなさいと言って、布団に横になった。

もう秋だなと思われる空模様だった。まだ暑いときもあるけれど、穏やかに、季節は過ぎていくのであった。家族ってなんだろうと考えるけど、その中には確かに悪いこともあれば、良いこともあるのだ。


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カエルの王女 増田朋美 @masubuchi4996

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