ベンチの男
尾長律季
第1話
仕事の帰り道。駅前の大通りを一人で歩く午後十時。電車に乗っている間に雨でも降ったらしく道路が濡れていた。雨が降った日でも居酒屋やスナックは賑わっているが、その店を通り過ぎれば、静かな夜である。二十分程度歩いたところに、二十四時間営業の店があるが、そこの明かりが嫌に眩しく感じるのは、ここ最近のストレスのせいだろうか。店の駐車場を横目に歩けば、人の情けない鳴き声が響き渡り、こちらの耳に入ってくる。ああ、もう鬱陶しい。心の中で舌打ちをし、やり場のない怒りを発散してみたが、感情はビクとも動かず、溜め息が出てしまう。酷使した目で明るい光を見てしまったから、目がさらに痛くなった。
「はあ」
溜め息をついて、目頭を指でつまみマッサージをしていると、急にタバコの匂いを感じた。手を目から離して立ち止まり、辺りを見渡すと、近くのベンチの脇に男が立ってタバコを吸っていた。あの人は、多分いつもこのベンチに座ってタバコを吸う人だ。すぐに気がついた。いつもは、ベンチを横目に通り過ぎるだけだから、顔は見たことなかったが、雰囲気と髪型だけはなんとなくだが知っていた。夜の街に溶け込んでいる、どよんとした黒いオーラを纏い、少し癖のある髪を肩につきそうなぐらいに伸ばしている男だ。いつもならベンチの近くで立ち止まったりはしないから、タバコの煙につられてその男を少しの間、といっても二秒程だが見て、男と目があってしまった。一瞬どきりとしたが、軽く会釈をして立ち去ろうとしたら向こうから声をかけてきた。
「……嬢ちゃん。タオル持ってるか」
「え?」
突然嬢ちゃんと言われたことに対しても、タオルという言葉が出てきたことに対しても驚いてしまい、聞こえていたのに聞き返してしまった。
「タオル」
「あっ、あー、持ってます!」
少し大きな声を出してしまって、自分の声が夜の街に響いて恥ずかしくなる。バッグから、少し震えた手でタオルというより、ハンカチを出し、男に手渡す。
「ん」
男は受け取ったハンカチを軽く上に上げ、雨で少し濡れたベンチの上をそれで拭いた。差し出した自分が悪いのだが、よりによってお気に入りのハンカチだったので、ベンチを拭かれて悲しい気持ちになった。あのハンカチどうしよう。まあ、汚れてはなさそうだけど、なんて考えていると、男はいつの間にかベンチに座り、さっきまで咥えていたタバコをまた吸いはじめた。私の顔とハンカチを見比べて、少し困ったような顔をしながら自分が座っている隣を手で叩いてくる。無意識のうちに後退りしたが、何度も座れと促してくるので渋々隣に座った。
「これ、使っちゃってよかったのか」
「渡したのは私だから」
「そうか。……明日もここ通る?」
「えっと」
急に顔をこちらに近づけてきたので、少しだけ距離を取ってみたが、男は気にしない様子で私の返事を待っている。
「通ります。多分」
「じゃあ、明日これ返す」
そう言って、濡れたハンカチをひらひらではなくペタペタさせながら、タバコを咥えながら帰って行った。
「うーん」
今まで出会ったことがないような人だからか、頭の中が?でいっぱいになった。知らない人と明日の約束をしてしまったのも初めてのことだ。唸りながら立ち上がり、私も帰ることにした。思っていたより歳が若そうだったので、余計に怪しく感じてしまったが、ハンカチを持っていってしまったので、仕方がない。明日もこの道を通らなければ。「大丈夫なのでハンカチ返してください」とでも言っておけばな、なんて思いながら、家までの道を早歩きして帰った。
ベンチの男 尾長律季 @ritsukinosubako
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ベンチの男の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます