プラネタリウムを贈る

糸森 なお

プラネタリウムを贈る

「プラネタリウムを盗んだんだ」


 電話ごしに聞く姉の声は、明らかにはしゃいでいた。


「意味が分からないんだけど」


「公園に古いプラネタリウムがあったじゃん。小学生の時、校外学習で行ったよね。あのプラネタリウムが、どうしても欲しかったんだ」


 広い公園の外れにひっそりと建っていた、ドーム型の古いプラネタリウムを思い出す。

 僕が校外学習で行ったのは小学三年生の時だ。十年くらい前になる。当時すでに、壁はひびわれ、いすに体をあずけるとギシギシと音を立てていた。

 この前、実家に帰った時、母があのプラネタリウムは老朽化で閉館したと言っていた。


「今から私の部屋に見にきな。いい、これは命令だからね?」


 どうやら姉は酔っているようだ。

 僕と、僕の五歳下の弟にとって、姉は強くて優しいリーダーだった。僕たちは基本的に、姉の言うことには従った。

 秘密トンネルを作ろうと言われれば、頑張って庭に穴を掘った。後で親に怒られた。

 怪盗ごっこをしようと言われれば、決められた役を忠実に演じた。姉が怪盗で僕がそれを追いかける刑事、弟は怪盗のファンの役だった。

 僕たちは仲の良い三人兄弟だった。

 

 僕はもう大学生だから、姉の命令を聞き流してもいい。

 でも今夜は姉に会いに行くのも悪くないと思った。

 一人暮らしの部屋を出て、くっきりと光る月を見ながら夜道をのんびり歩く。姉は近所に住んでいる。

 狭い路地に面した、白い壁の二階建ての家。正面にやはり白く塗られた金属製の外階段がついている。一階に大家が住み、姉は二階を借りている。

 きしむ外階段を上り、チャイムを鳴らす。中に入って、驚いた。

 電気の消えた畳じきの和室には、壁や天井にまぶしく星がちらばっていた。


「いらっしゃい」


 暗闇に、姉の長いふわふわした髪のシルエットが朦朧と浮かび上がっている。


「何これ」


「だからあのプラネタリウムを盗んだんだってば。怪盗みたいにね」


 こちらをからかうような口調だ。

 よく見れば、部屋の中心に黒くて小さな球体が置かれ、光線を放っていた。塵が光の中を舞っている。室内用のプラネタリウム投影機だ。


「違うでしょ。これ買ったの? 綺麗だね」


「私が星空解説してあげるねー」


 人の話を聞かない。姉はやはり酔っていた。それもかなり。

 膝に置いた大きくて厚い本をたどたどしく読み上げる。


「まっ暗なブラックホールを、どうやって宇宙で見つけるのでしょうか? ブラックホールの温度はとても高く、それが手がかりになるのです」


 姉が息を深く吸いこんだのが分かった。暗闇だと、かすかな音でもはっきりと聞こえる気がする。


「もしブラックホールに吸いこまれたら、どうなるのでしょう。重力で細く引きのばされ

、小さくばらばらになります。でも、それを見ている人からは、ブラックホールの境界付近で永遠に止まっているように見えます」


 無機質な文章に記憶が揺さぶられる。無邪気に笑いさざめく声が、耳の奥で聞こえた。


「なにそれー。いみわかんない」


 宇宙の図鑑は弟のお気に入りだった。

 気に入ったページを僕に読ませ、本人は笑って聞いている。内容は分かってなかったと思う。

 寝転んだ弟は僕の膝に頭を乗せ、目を細めて僕を見ている。


「おにいちゃん、どういうこと?」


 僕にも分からず答えられなかった。あの時、僕は十歳だった。


 今、姉が読んでいるのは、あの図鑑だった。


「プラネタリウム、ぼくもいきたいなあ。おねえちゃんもおにいちゃんも、いったから」


 弟は、小学校に入ってプラネタリウムに行くのをとても楽しみにしていた。でもプラネタリウムが何なのかは分かっておらず、言葉の響きを気に入っていた。

 休日、両親が、家族で公園のプラネタリウムに行こうと提案したことがあった。

 でも、僕と姉は嫌がった。もっと楽しいところに行きたい。どうせ弟も三年生になったら学校で行くんだからいいじゃん、と。


 行ってあげれば良かったのだ。


「どうしても欲しかったんだ」


 電話で姉はそう言った。


 今日は弟の誕生日だ。プラネタリウムに行く前に、死んでしまった弟。

 元気だったのに、突然、病気が見つかった。見つかってからは、あっという間だった。


 僕たちは仲の良い三人兄弟だった。


 僕は今夜、一人でいたくなかった。

 姉も多分、そうだったのだろう。


「……怪盗になって、盗んだプラネタリウムをあげたかった?」


「うん。あの子に見せたかった」


 闇に溶ける紫煙のように、少し震えた姉の声がたゆたって消えていく。

 仄暗い夜闇の中に、弟がいるような気がする。僕のひざに頭を乗せていて、手を伸ばせばやわらかい髪にさわれる。

 気のせいなのは分かっていた。


 今なら図鑑の言葉の意味が分かる。ブラックホールのそばで、いつまでも止まって見える。


 人工の夜空から目をそらし、そっと鼻をすすり上げた。部屋が静かなので音が響く。

 でも多分、姉も泣いている。プラネタリウムの星の中で。


 それなら、聞かれてもいいと思った。

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プラネタリウムを贈る 糸森 なお @itonao

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