九月二十日

 この日、「久々に酒でもどうだ」と、四十年来の友人から連絡が来た髭面の男は、少年のような期待感を胸に秘めながら、その友人の自宅へ向かうことにした。

「今からちょっと出かけるから、留守番頼むよ。僕の古い友人と飲みに行く」

 男は妻にそう言って、靴を履く。時計の針は既に九時を指していた。

「こんな夜に?」

「こんな夜だからだよ」

 友人宅へは、徒歩で行くには少し遠い場所にある。男は車で行こうか迷った結果、日頃の運動不足を解消するべく、やっぱり歩いて行くことにした。

 夜道を一歩一歩進むと、鈴虫の鳴き声と、ススキの揺れる音が織り重なって、音楽のように聞こえてくる。

 かつて人類は、四季の素晴らしさ、自然の大切さを痛感し、後悔した。あれから八十年、私たちはようやく自然という名の自由を取り戻したのだ。

 友人宅に着くと、厳かな洋風の門構えが、相変わらず男の目の前に立ち塞がった。インターホンを押すと、重い門が開き、友人の付き人が出迎えてくれた。

「こんばんは。どうぞお入りください」

 家の中に入り、男は久しぶりに友人と再会した。

「こんな夜更けにすまないね」

「いや、嬉しいよ。連絡ありがとう」

 二人はデッキにある椅子に座り、酒を酌み交わす。

「ここからだとよく見えるよ」

「あぁ、綺麗だ」

 今日の肴は、天空に超然と浮かぶ月であった。

 その昔、人類は居住範囲を地球外へと拡大しようと、地球から遠く離れた別の星に降り立ち、テラフォーミングを開始した。多大な犠牲を払い、途方もない歳月を経て、今から八十年前、人類は第二の故郷を築き上げるまでに至った。

 しかしそこには、かつての地球のような、自然が見せる美しい風景はなかった。移住に成功したその星は、人間の生活しやすい大気に覆われた比較的暮らしやすい星であった一方、見渡す限りの荒野と大海が広がる不毛の地でもあった。

「この酒美味いな。今回はどこで仕入れてきたんだ?」

「気に入ったか? 実はこれ、原料から製造まで全部、地球産なんだ」

 移住してきた人類は、研究者やビジネスマンが主な人口源となる小さな街を作り、高層農園タワーで栽培された野菜やワームを主原料とした人工肉などを食料にして生活していた。しかし、彼らは新天地での暮らしに退屈していた。というより、故郷である地球の豊かな自然や温もりが恋しくなってしまったのだ。

 程なくして、彼らにこの星にとっての第一子が生まれた。彼らはこの、地球で暮らしたことのない初めての人類を見て、抑えようのない焦燥に駆られた。子の母は言った。「この子にも、地球と同じような暮らしをさせてあげたい」と。月も森もないこの星で一生暮らすということは、どこか寂しいことのように思えたのである。

「地球産? これまた珍しいものを買ってきたな。流石はマニアと言ったところか」

「はははっ。ま、自他共に認める酒好きだからな。それに俺の親父はこの星で生まれた最初の人類だ。それもあってか、地球に憧れがあってな」

 そして、人類が地球外に移住を開始してから八十年後、ようやく彼らは、地球を完全に再現した星を作り出すことに成功したのである。

「地球への憧れ、か」

「人は故郷を忘れられないものさ。俺の祖母も、地球を知らない親父も、いつか今日みたいな夜が、この星に訪れることを夢見て死んだんだ」

「あの巨大人工衛星という名の月が、その思いの結晶か」

 西暦二一九一年九月二十日。この夜、二人は朝まで語り明かし、男は妻に、男の友人は付き人に、それぞれ叱られることとなった。月はその様子を見ないようにするかの如く、そっと没したのだった。

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