前のエピソード――波濤 3

　映写室に伸びる液体を辿るチルの背中を斜め後ろから見ていた私は、微かに聞こえて来た映写機みたいな音と――背後から聞こえてきた微かなクスクス声に足を止めた。

「久留米さんたち人形に血なんて流せませんよね……」

　それには応えず、私はその場で振り返った。すると、人形の間のドアが微かに開いていて――見覚えのある手帳がドアの手前に落ちていた。

　それはジュンが行方不明になる前、私がプレゼントした自作の手帳だ。それがここにある理由を求めて手を伸ばそうとした時、手帳は部屋の闇に吸い込まれた。

　闇の中へ消えた手帳を追いかけて、私は携帯電話のライトを点けて人形の間へ飛び込んだ。光が無いと何も認識出来ない闇の中に浮かび上がるのは、木偶人形たちの祭りの後だ。

　部屋中のガラスケースが開かれていて、中には藁人形とかゴム人形とか数体の人形しか残されていない。それに加えて、この部屋に消えたはずの手帳がどこにも見当たらない。

「返してよ……その手帳はあんたたちのものじゃない……！」

　久留米とかいう人形を見た時点で想像は出来た。さっさと出て来い、そう告げると、

　ヒャハハハハハハハ！　手帳を返せとさぁ。

　このメス犬の生皮を剥げば……人間になれるかなぁ？

　部屋の至る所から聞こえて来た声にライトを揺らすと、ガラスケースとか花瓶とかの間を小さな影が動き回り、足音は少しずつ近付いて来たから、護身用としてチルにも隠していた折りたたみナイフを腰から取り出し――その直後、左肩に何かが落ちて来た。

　ギャハハハハハハ！　ほらぁ！　その身体を寄越せよぉ！！

　肉が貫かれる嫌な音と一緒に右肩に激痛が走り――私は背中をドアに叩き付けると、握り締めたナイフを背中で固定した人形へ突き刺した。「ギャアァアアアアアーーーー！！！」と、叫ぶ全てを無視して人形の頭を掴むと、そのまま勢いよく床に叩き付けてやった。

　この野郎！！　躰にスペアなんて無いんだ――。

「くたばれ！！」

　ガガンボみたいな四肢をばたつかせるイカレた球体関節人形の頭から引き抜いた血だらけのナイフを、最後は渾身の力で口に突き刺してやった。言葉にならない悲鳴を吐き出しながら暴れていた人形はパスタみたいに四肢を散らばせた。

　噴き出した液体を浴びた顔を拭い、私はゆらりと立ち上がった。右肩からは血が流れるし、痙攣が止まらない。それでもナイフを引き抜くと、ジュンの手帳が飛んで来た。それを抱きしめた私は物陰からの視線を無視して廊下に出た。

　騒がしい気がした廊下にチルの姿は無く、代わりにあったのは破片と火薬のような臭いと弾痕だ。一瞬だけギョッとしたけど、チルは大丈夫だ。

　あんな見た目だけど厳しい躾の賜物か、喧嘩は強い。合気道に空手に柔道に剣道とか……特に剣道は出征していた祖父から徹底的に教え込まれたらしい。それにサバイバルのセンスもあるから大丈夫だ。地図も持ってる。大丈夫じゃないのは自分の右肩だ。

　携帯電話のライトを連れて来た道を戻り、刀掛けだけが置かれた床の間を持つ居間を抜け、また階段を下り、玄関前廊下に出ると、控えの間の横にある主治医の部屋に入った。

　人形を警戒したけど、照明が機能するこの部屋に人形の影は見当たらない。生活感がない部屋で薬品棚を漁るけど、包帯の代わりに出て来たのはカーキ色の古めかしい脚絆だ。新品のタオルも無いから、それと自分のハンカチを使って無理矢理止血した。

　かなりの血が出たと思ったけど、鏡に映る私の顔は死人じゃない。ただ……呼吸の方は速くて浅いし、冷や汗もまだ出ている。ショック死しなかったのはアドレナリンのおかげ……いや、ジュンのおかげかもしれない。この屋敷のどこかにいて、私のことを待ってくれているのなら、片腕を棄ててもこの目が光を失っても捜し出すつもりだ。

　三年前……勤めていた出版社の仕事で人形峠へ行くと言って……帰って来ることはなかった。あの日から私の人生はもう動かなかった。生きようとする気力もなくて、薬の誘惑と死の誘惑が隣人になっていた。

　真耶、お前……いつまでそうしてるつもりだ？

　真耶ちゃん……それはあなたにとってよくないと思う。

　機巧人形劇団に裏方として関わっていたけど、それにも気力が出なくなって年下から呆れられることばかりになっても気にならなくなった。その態度と生活のことをアキからもアヤからもしつこく指摘されたけど、本音は余計なお世話だった――というより、アキに至っては私の破滅願望を咎められるような状態じゃなかったくせに、だ。

　行方不明になった恋人に焦がれるのと、人の身じゃ辿り着けないバカげた願いに焦がれるのじゃ前者の方がまともに決まってる。

　鏡に映る自分の顔を確かめてから、この何も無い部屋から出ようとし――。

　何かが鳴った。それはベルのような音で、振り返った私の視界が捉えたのは、壁に掛けられた木造の箱だ。人の顔みたいに二つのベルと皿みたいなものが付いたそれは、今じゃ昔の漫画か昭和の彼方を舞台にしたアニメ映画とかでしか見かけないデルビル電話だ。

　相手が誰かはわからないけど、私は受話器を取り――。

『西条真耶……もう一度、淳に逢いたくないか……？』