疑懼 3

「おはようございます、相澤さん」

 隣の襖がそろそろと開き、長襦袢姿の満君が部屋に入って来た。

「やぁ、おはよう」

 俺も布団から上半身を起こし、枕元に置いていた腕時計を手に取った。それが示す時刻は七時。寝てから二時間しか経っていないときたもんだ。頭が痛むのも無理はないな……。

「満君、足の方は平気かな?」

 きちんとした手当てを受けた彼の足首を見ながら、俺は昨夜の幸運を思い出す。

 捻挫した満君を支えながら崖に沿って山を下っていたはずなのに、同じ場所をぐるぐると回っていることに真耶さんが気付いた。その現実は佳奈ちゃんと自分たちの生存に絶望を齎し、危うく心が折れそうになってしまったが、それを止めるかのような兆しがあった。

 白い霧の中で、どこからか、美しく、それでいて哀しげな唄声が聞こえてきた。

 いよいよ自分の頭の中が壊れ始めたと思ったが、それは満君にも真耶さんにも聞こえていたことが判明し、妄想じゃないことに安堵しつつ唄声に導かれてここに辿り着いた。

 人形峠に民家があるなんて聞いたことはなかったが、警戒している余裕はないし、佳奈ちゃんが保護されている可能性もあったから頼るしかなかった。

「こんな夜更けに……何のご用でしょうか」

 眼帯執事の古林さんは俺たちに拒否を示したが、奏さんという鶴の一声で彼の対応は一変した。十文字さんによる治療、久留米さんによる温かいご飯、桜小路さんの珈琲や紅茶や部屋の奉仕、電話は無くても満君と真耶さんを保護してもらうには充分だった。

 二人の安全を確保したこと、捜索拠点を得られたから、佳奈ちゃんの捜索を再開しようとしたが、もはや凶器と化した白い悪魔の所為で断念せざるをえなかった。しかも、心配と罪悪感からろくに眠れなかった。

「ええ、しっかり手当てしてもらいましたから、大丈夫です」

 包帯が巻かれた足首をさすりながら、満君は微笑んだ。

「それより、家の人が朝食を持って来てくれました。いただきませんか?」

「そうだね、いただこうかな。でもその前に……」

 前夜の無茶が祟って凍傷の手前にまで陥っていた両手を気遣いながら、宛てがわれた和室から出る。

 俺たちに用意されたのは、玄関から北東の位置にある和風の客室棟だ。そこは一階の前当主の間と、二階の現当主の間の向かいにあるドアを抜けた先にあり、それぞれの階に座敷が三部屋ずつある。古林さん曰く、元々は使用人たちの自室だったらしい。

 雨戸で覆われた沈黙の縁側を進み、前当主の間がある廊下へ出る。座敷に洗面所やトイレは無いから、寒くても洞窟のような廊下を経由しないといけない。二台の洗濯機と大きな洗面台が鎮座する洗面所でジャバジャバと朝の洗顔を終え、借りたタオルで冷たい水を拭きながら廊下に出ると――。

「相澤さん……」

 突然、囁くような声に呼び止められた。振り返ると、厨房のドアから葵さんがこちらに手招きしている。玄関で会いはしたが、彼女へ名乗ってはいない。終始対応してくれた古林さんか他の人に聞いたのだろうか。不安を感じつつ、手招きされるまま厨房に入る。

 そこはホテルの厨房みたいに広く、ついさっきまで誰かが作業していたような気配がある。ステンレスのテーブルには果物だ魚だ肉だが積まれていて、大量の食器が収められた棚は片方の扉が開けっ放しにされている。その中に葵さんは立っていた。

「何か……?」

「相澤さん……彼らを連れて……出来るだけ早くこの家から逃げてください……」

 緊迫した様子でそう呟いた彼女は、それ以上何も言わずに厨房から出て行ってしまった。

「あっ……ちょっと――」

 逃げろと言われても、厨房の窓から見える外は白い悪魔の独擅場どくせんじょうだ。仮に逃げ出したところで無事に麓へ辿り着けるかどうか……それは十分に思い知らされた。

 それにしても何だろう……前にも誰かに言われたような気がするー―そう思った時、頭の中で、ズウゥゥン、と何か重たいものが動いた。地響きみたいな感覚に襲われ、俺は思わず頭を押さえながら廊下へ出た時――。

「相澤様! そこは厨房ですよ!」

 玄関廊下に通じるドアを開けた古林さんに見つかってしまった。

「お食事は間宮様のお部屋に運んであります」

「すいません、すぐに戻ります」

 急いでその場から離れ、縁側廊下に逃げ込むと背中でドアを閉めた。

 いつの間にか頭の重みはなくなっていたが、奇妙な警告の所為か古林さんの視線が怪しく見えるようになってしまった。人間疑えば誰でも怪しく見えてくるということだろうか。

 全身で息を吐き出し、俺は一列に並ぶ三部屋の中で真ん中の襖を開けた。そこは満君の部屋になった仏間で、奥の階段側は真耶さん、前当主の間がある廊下側が俺の部屋だ。そこには古林さんが言っていたように三人分の食事が置かれており、満君が先に食べている。

「お先にいただいています」

「ああ、気にしないでいいよ」

 彼の隣に座り、目の前にある朱塗椀を持ち上げる。

「ほう……これはまた雅な」

 朱塗腕を乗せているのは、同じく朱塗の懸盤で間違いなく高級品だ。

「これだけのお金持ちが峠に住んでいるなんて知らなかったなぁ……」

「……リュシテン・螢という人が十年前に建てたそうですね」

 振り返った満君の先にあるのは大きな仏壇だ。地方の家でよく見る大きく豪華なもので、中にある小さな遺影は螢氏の奥さんであるリュシテン・月子つきこさんらしい。

「去年亡くなったそうです」

 それにしても、奥さんの遺影がある仏間に行きずりの連中を泊めるというのは凄い話だ。

 見つめられているような勘違いと馴染みのない雅な食事に四苦八苦しながら、ちびちびと箸を動かす。唯一の救いは、食器に反して豪快に盛りつけられたおかずたちだ。それと……バラエティに富んだ味付けだろうか。

「食器がこれなら……盛り付けも雅にしないとバランスが悪く見えてしまいますよね」

 食器と変わらない雅さで箸を動かす満君の台詞。彼はまだ十九歳らしいが、高貴の出なら食事作法も厳しかったんだろう。彼の雅さに感心しながら作法を盗んでいると、

「……おはようございます」

 音もなく襖が開かれ、その隙間から這い出すように真耶さんが仏間に現れた。

「おはようございます、真耶さん」

「やぁ、おはよう」

「洗面所……行ってきます」

 乱れたままの頭を掻きながら、真耶さんはぺたぺたと洗面所に向かった。

「……彼女はいつもあんな感じなのかい?」

「ええ。さすがに舞台では違いますが……いつもあんな感じですね」

 開け放たれたままの襖を一瞥し、満君は肩をすくめると使用人みたいな丁寧さで襖を閉めた。なるほど、満君は連れ回されて振り回されているってところかな?

「だけど、真耶さん……相澤さんと同じで眠れなかったみたいです」

「えっ? そうなのかい?」

「はい。元々夜型の人ですけど……今朝はずいぶんとふらふらしてしますし……」

「まあ……この状況だし、仲間が行方不明だからねぇ」

「それと、さっき久留米さんに訊いたんですが、下山出来そうな雪じゃないそうです」

「そのようだね……さっき厨房で見たよ」

「駄目ですよ? 今出て行けばあなたまで遭難してしまいます。非情な決断だとわかっていますが……自然の猛威に僕たちはあまりにも無力ですから……」

「わかっているよ……こっぴどく叱られたからね」

「十歳の女の子なら……どこかで寒さから逃れているかもしれませんよ」

「そうだといいが……」

 佳奈ちゃん……。

 自分の無力さを呪いながら、俺はかぶりふった。

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