第二章 2日目

第陸幕 空蝉

 お……に頼ま……きた……。


 誰?


 さあ……早く……逃げ……は……恐ろしい――。


 だれ?


 伏せて!


 逃がさ……わ……ようやく……現れ……から……!!


 や……もう……て……! もう殺さ……で!!


 逃げて――。


 逃げる……どこに……。

 誰かに、優しい声の誰かに囁かれた気がして、私は反射的に目を開けた。

 どこに逃げろと言うんだろう――そう思った瞬間、頭の中で何か重いものが倒れたような音が響いた。ズウゥゥン、という重い轟音で、たったそれだけで頭が酷く痛む。その所為で寝返りをうった時、ガツン、と壁に膝をぶつけてしまった。

 ここは自分の部屋じゃない。ここは時計の音も鳥のさえずりも吹雪の猛りさえも届かない密室――客室棟一階の個室だ。一瞬だけ、ここは何処なんだろうと思って惚けたけど、脳裏に飛び込んで来た事故、遭難、人形、唄声、奇妙な住人と屋敷、誰かの囁き――それを認識した瞬間、私は黒一色のセミダブルベッドから上半身を叩き起こした。この部屋には私しかいないのに、話し声なんか聞こえるはずがない。盗聴器か隠しカメラか、脳裏に使用人たちのイヤホンマイクもよぎり、私は部屋を見渡し――背の高い棚から両足をぶらりと下げている二体の小さな球体関節人形と目が合った。

 その球体関節人形は花嫁みたいなドレスを纏い、もう一体は黒の和服を纏っている。手に取って細部を見ると、峠の人形と同じように精巧で、肌も質感も生きているみたいだ。唇なんて今にも動き出しそうで、この人形たちがしゃべっても違和感はないかもしれない。そんな精巧で気味の悪い人形を元の場所に戻した私は、改めて部屋を見渡した。

 この客室はベッド以外に棚と机と動かないホールクロックだけのシンプルで、隅には小さな洗面台とストーブがあって、凍える夜を過ごすようなことはなかった。

 私はベッド横の机に置いていたポーチを掴み、洗面台に向かった。お湯は出ないけど、気にせずにそのまま朝の身だしなみを整える。すると、部屋の背後――医務室の方から誰かの足音と気配がし、地響きみたいな重い物を引きずるような音が聞こえてきた。

 十文字さんが何かしているのかも。そう思って耳をすませてみたけど、もう同じ音はしなかった。一階の部屋を選んだのは私と瑠偉と京堂さんで、医務室を含めるなら綾香さんだ。もしかすると上の誰かか京堂さんが綾香さんの様子を見に来たのかもしれない。深く考えることなく、私は鏡に向き直った。

 少しして身だしなみを整えた私は動かない時計の代わりに携帯電話を確認し、八時十五分という寝過ごした時間にかぶりをふった。夜更かしするタイプじゃないし、朝寝坊もするタイプじゃないのに、昨日はずいぶん疲れていたようだ。

 ギギィ、と唸るドアを開けて廊下を覗き込んだ私は、耳をすませてみた。だけど、京堂さんみたいにサロンの声が聞こえて来ることはなかった。誰の声を聞いていたんだろう。それが気になった私は先に医務室へ向かった。ドアをノックすると中から京堂さんの返事がしたから、私は中に入って昨日のこととさっきのことを訊いてみた。

「昨日?」

「はい。今って……サロンに誰かいますよね?」

「ああ、俺が見た時は車と拓真と瑠偉がいたぞ」

「みんなの声……ここまで聞こえてますか?」

「そういうことか。確かに……今は全然聞こえないな」

「それと……物音というか地響きがこの部屋からしてきたんですけど、何かしてました?」

「いや、地響きを起こすようなことはしてない。エレベーターは……俺にも聞こえるか」

 綾香さんもまだ眠っているみたいで、医務室そのものにも何かが加わった感じはしないし、配膳のエレベーターが動いたとしても地響きは変だ。

 首を傾げている京堂さんを置いて、私はサロンへ向かい――途中、踊り場に置かれていた展示ケースに腰掛けているゴスロリ風の球体関節人形を見、私は思わず立ち止まった。

 同じ顔の片方を手に取り、大きなスカートの裾に触れてみた。すると、そこだけがずぶ濡れになっていた。座っている場所は昨日と同じで、中も周囲も動かされた感じはしない。

 思い出すのは瑠偉と一緒に入ったお風呂だ。あの時、瑠偉は大淀さんが覗きに来た、と思ったみたいだけど、今まで大淀さんが覗きなんてしたことはなかったはず……。

 考えつく嫌な答えに私はその人形を見つめた。

「あなたが覗いてたの?」

 そう訊いたけど人形は何も答えないから、私はサロンに入り、

「おはようございます、桜さん」

 丁度テーブルから立ち上がった天龍さんと目が合った。

「天龍さん……八時十五分ぐらいに何か聞こえませんでしたか?」

「いえ? 何も……大淀さんは?」

 天龍さんは横で朝食を食べている大淀さんに訊いたけど、狐目をいつもより鋭く閉じたままかぶりをふった。すると、

「おはようです〜皆さん早いんスね〜」

 私の後ろから、ぼさぼさの頭を弄りながらパジャマ姿の愛里が現れた。寝ぼけているのか、曖昧な表情のまま席に座り込んだ。私もその背中に続いて瑠偉の隣に腰を下ろした。

「おはよう。八時にはもうこの料理を運んで来てくれたんだよ」

 テーブルに並ぶのは大皿のサラダや生ハム、ベーコンやポテト、豚汁とお櫃で輝くご飯だ。配膳用のエレベーターが動いていたのは確かみたいだ。

「瑠偉は……何か聞こえた?」

「ううん? ここで話してたけど、何も聞こえなかったよ?」

「そうなんだ……うん、勘違いだったのかも」

 あえて昨日のお風呂のことと人形のことは言わないことにした。

「あの……外のことは何か言われました?」

「ああ、僕らに珈琲を出してくれたメイドさんをおぼえてます? 桜小路龍香さくらこうじりゅうかさんというらしいんですけど、彼女から教えてもらいました。ラジオ情報らしいんですけど、こっちは一日中雪が止まらないみたいで……下山は無理そうですよ」

「そうだろうねぇ……部屋の窓からでもわかるほど吹雪いてるから」

「積雪も凄いですから……ここから出るのはもう不可能ですね」

「それじゃあ……綾香さんは――」

「とりあえず……急な容態の異変が起きなければ大丈夫だろう」

 私の声を遮り、京堂さんがサロンに入って来た。

「綾香さんを一人にして平気なんですか?」

「まさか」

 京堂さんはテーブルに並べられた食事を適当に選んで小皿に盛った。その意味に気付いた私は手伝うことを告げた。

「京堂さん、ハムばっかりじゃなくて、サラダも盛ったほうがいいですよ」

「堂さん、元気づけるなら肉っすよ」

「バランスを考えて、そうカロリーも気にしてあげないと駄目っスよ」

「ああ! お前ら!」

 完全にからかいの域に達した天龍さん、大淀さん、愛里による助言を京堂さんは叱った。そのやり取りが、あまりにも久しぶりの光景だと感じた私は声をあげて笑った。

「俺は絶対に寝込まないからな」

「その時はしっかりご奉仕しますよぉ?」

 おどける大淀さんを指差しながら京堂さんはサロンを後にし、私もそれに続く。

「そういえば……昨日みたいに久留米さんが食事を運んでくれなかったんですか?」

「いや、これは……俺の分なんだよ、おかわり分の……」

 私は盛られた食器を見、京堂さんを見て、思わず笑った。

「そうだったんですね。綾香さんの分だと思ってましたよ」

 そんなやり取りをしながら階段を下り、廊下を進んでいると、背後にある客室棟の両引き戸が音を立てて開いた。京堂さんと一緒に振り返ると、そこには十文字さんがいた。

「やぁやぁ、おはよう、機巧人形さんたち」

「おはようございます、十文字さん」

「皆様は上に?」

「はい、サロンに集まっています」

「そうか、じゃあ彼らから先に診ていこうか。君たちは医務室で診てみよう」

「俺たちもですか?」

「次の日の用心は大事だし、ヨーチンを塗って終わりじゃないからね」

 十文字さんはそう言うと、トランクを持って階段を上がって行った。私は漫画みたいな背中を目で追い――京堂さんがその背中を睨みつけていることに気付いた。私は思わず後退りしてしまい、その瞬間に京堂さんは表情を元に戻してしまった。

 先に歩き出した京堂さんの表情が知りたくて、私は早歩きでその背中を追いかけ――角を曲がった瞬間にその背中に埋もれてしまった。

「あの……京堂さん……?」

「静かに……」

 振り返った京堂さんに壁際へ寄せられ、前方、医務室を示された。

「何か……?」

「俺はドアを閉めた……綾香がトイレに立ったとしても、あいつなら必ずドアを閉める」

「あの……家の人が来たんじゃ……」

「声も物音も聞こえない……それに、さっき見ただろう?」

 さっき……酷く曖昧な時間帯だけど、さっきに相応しい光景を記憶の箪笥から探す。自室、サロン、吹雪、階段――。

「鍵……ですか?」

 さっきの光景で京堂さんの発言に相応しいのは――十文字さんが客室棟に入って来た光景だ。理由はわからないけど、渡り廊下側から施錠されていたみたいだった。

「思い違いならいいが……」

 私に食器を押しつけ、京堂さんは医務室を覗き込み――。

「綾香……?」

 医務室へ駆け込んだ京堂さんに私も続き――誰もいないベッドを見た。

「綾香……さん?」

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