水脈 3

「たった今、機巧山に入ったよ。メールの返信は?」

 激しくなる雪と白霧に眉を顰めながら真耶さんは言った。

「圏外になる前から返信はありません。普通なら峠抜けに二時間もかからないですよね?」

「どうかな。事故車を運んでるかもしれないし、この霧と雪じゃ動けないかもね」

 押し寄せる雪をワイパーが振り払うけど、進路を頼りなく照らすヘッドライトと街頭の力を足しても視界は悪いから、真耶さんは慎重な運転で峠を走る。

「そもそも二台の車が壊れるなんて偶然……宝くじが当たるレベルじゃないですか? あの会話からして綾香さんの車に全員が乗り込んでいたみたいですし……」

 僕はそう言って携帯電話を取り出した。山に入った途端に電波が圏外となり、置物と化した携帯電話だけど、そうなる前に劇団の事務員である小宮五月こみやさつきさんに状況を伝えておいたし、調べた機巧山と人形峠についての情報は画像として保存してある。

「真耶さん、さっきのコンビニで地元の人が言っていたこと……全部が本当でした。機巧山の神隠しについて初めて記述されたのが……一九一五年です。地元新聞の小さな記事みたいですが、今の人形峠で三人も行方不明になっています」

「一九一五年か……生きてないな」

「その年を皮切りに、翌年もその翌年も峠で行方不明者が出ています。いくらあの時代の峠越えとはいえ……頻繁過ぎませんか? しかも遺体が発見されていないんですよ。野生動物の仕業だとしても怪しくないですか? 人攫いか山賊みたいなのが住み着いて……通行人を襲っている感じがしません? 地元の人は山を怖がってるし……一九四三年の山狩りでも行方不明者は見つからず、一九四五年には日本陸軍の兵士、五年前には若い男性、三年前には心霊系の雑誌『譚怪たんかいの海』の編集者である染谷淳そめたにじゅんという男性が行方不明、最近では大学生の男と心霊番組の取材に来たテレビクルーと女性……遺体は見つかっていない、です」

「…………」

「真耶さん? 聞いてます?」

「聞いてるよ。聞いてるから黙ってるんだけど……」

 真耶さんはそう言うけど、僕から見たら聞いているようには見えなかった。何しろ眉を顰めているし、視線はまっすぐから微塵も動かなかった。何か彼女の逆鱗に触れるようなことを口にしただろうか。家に行く間柄ではあるけれど、僕は西条真耶という人の全てを知っているわけじゃない。当たり障りのない会話で関係を続けている、というわけでもないけど、冗談に見えない真剣な不機嫌は初めて見たから面食らった。

「まぁ、駐在所に行けば……何かわかると思うよ」

 駐在所は峠の頂辺りにあるから、と真耶さんは少しだけ車の速度を上げた。その速度に直撃する雪の勢いは強くなる一方なのに、微かに照らされる道路には何故か雪が積もっていない。それに加え、事故を思わせるガードレールが一つも見つからない。擦れ違う車も無く、いよいよ何が起きたのかわからなくなってきた時――。

「っ! 真耶さん!!」

 車は急停車し、ハンドルとタイヤの悲鳴が車内に轟いた。それこそシートベルトが無ければ僕も真耶さんもフロントガラスに叩き付けられていたんじゃないかと思う。

「真耶さん……あれは……」

 そんな九死に一生を招いた原因は、ヘッドライトが捉えている倒れた――人間だ。ボロ切れのような和服を纏う女性は左腕の肘から下が無く、三肢はあらぬ方向を向き、周囲には赤茶色の何かが散らばっていて、道路にも雪にも赤黒い血が大量に付着している。

 間違いなく轢き逃げだ。クソッタレが轢いて逃げたんだ。

 文字通り自分の身体が凍る。知らん顔したい恐怖心はあるけど、まだ生きているかもしれない。顔色一つ変えていない真耶さんを残し、懐中電灯を持って女性に近付いた。ここまで酷いと死臭とか血の臭いがすると思ったけれど、寒さのおかげか臭いはしない。そんな無臭に感謝しながらにじり寄り、胃から込み上げてくるものを無理矢理戻して屈み――。

「これは……人形……?」

 追従するヘッドライトが無惨な全身を浮かび上がらせ――その瞬間、僕はその場にへたり込んだ。早鐘の心臓が、空気を求める肺と共に暴れ出す。誰かがこの人形を撥ねて逃げたんだ。震える脚を叩いて立ち上がった僕は、その躰に懐中電灯を当てた。

 千切れた肘から流れ出る血みたいな液体は無臭で、生々しい断面には素材すらわからないものが詰め込まれ、ワイヤーのようなものがはみ出し、苦手な人は卒倒してもおかしくないだろう。用途も名称もわからないものばかりで、どういった機巧技術が使われているんだろう。躰の作りは球体関節人形みたいだ。

「まだあるんだ……機巧人形」

 車から降りて来た真耶さんは、散乱する欠片の一つを乱暴に蹴った。

「誰が道路の真ん中に……」

「歩いて此処まで来たんじゃないの」

「そんな馬鹿なこと――」

 この人形がどこから来たのか、それを求めて周囲を見渡し――認めたくない痕跡を見つけてしまった。想定していた中で何よりも最悪な光景を。

「真耶さん! あれ……!」

 幽霊みたいな白霧の中、ガードレールの一部が山の中に向かって伸ばされていた。

 ああ……まさか。

 僕は歪なガードレールに掴まり、山の中へ身を乗り出した。懐中電灯を伸ばして白霧の隙間を照らしたけど、何も見えないし何も浮かんでくれない。すると、無言で横に並んだ真耶さんが発炎筒を崖下へ放った。

 炎上するような音と赤い閃光が白霧を切り裂き、その明かりは奇跡的にも雪の上に突き刺さり、松明のような形で道標になってくれた。

「これで少しは見渡せ――」

「こら! 危ないじゃないか!!」

 発炎筒が猛る中、煙と一緒に大声が上がって来た。その不意な大声にギョッとした直後、発炎筒を囲む白霧の中から、夜行性の昆虫みたいに光を揺らす人影が飛び出して来た。

「そこの……二人か?! 発炎筒を落とすなんて危ないだろうが!」

 バチバチと唸る閃光の中に現れたのは防寒着姿の警察官だ。

「すいません! 非常事態でして……!」

「非常事態? そうだ、十歳くらいの女の子を見なかったか!?」

 崖下から堂々と届く声に対し、僕は真耶さんを見てからかぶりをふった。だけど、警察が来ているということは何かがあったんだ。僅かな希望を抱きながら、僕は大声で尋ねた。

「あの……! この付近で事故が起きた報告はありませんか?!」

 発炎筒の閃光が弱まり、懐中電灯の光が僕たちを捜す。

「事故? 報告はないけど……ここに事故車ならある! あっちには黒焦げの車さ」

「……本当ですか?!」

 警察の人が指差す方向を見ようとガードレールから身を乗り出す。

「そこからは見えないよ。とにかく君たちは帰りなさい。事故車のことは調べておくから」

「その事故車に誰もいないんですか?」

「誰もいない。荷物も無くなっているから……この付近を歩いているのかもしれないな」

 警察の人に車種とナンバーを確認してもらうと、その車は綾香さんの車だと判明した。黒焦げの方は車種もナンバーもわからないほどに風化していて、爆発したような有様だと教えられた。加えて周囲に他の車は無く、足跡も雪で完全に掻き消されてしまったようだ。

「真耶さん……みんなはどこに行ったと思いますか……?」

「さぁね……。事故か……でも死体が無いならどこかにいると思うよ」

「どこかに……それなら遭難している可能性は――」

 最悪の事態が起きている。予想が確信に変わった今、のんびりなんて……そう思った直後、背後から僕らを照らしていたヘッドライトが動き――車が突っ込んで来た。

「真耶さん!!」

 避けようとしなかった真耶さんへ飛び込み――靴のつま先を削るように真横を抜けた車は崖下へ落ちて行った。直後、警察の人の怒号と車の悲鳴が辺りに響き渡った。

「掴んだまま……放さないで……!!」

 悲鳴は車だけじゃない。ガードレールを掴むのは片手だけ、もう片方は華奢とはいえ女性一人を抱き抱えている状況は脱臼してもおかしくない。

「放すよ……チル」

「えっ……!? 放したら――」

「放しても大丈夫だ! 女性から!」

 震える肩越しに下を見ると、警察の人が横転した車の中から取り出したクッションを足先へ放り投げてくれているけど、明らかに足りない――そう思った瞬間に手が滑り――気付いた時にはもう自分の身体がクッションと雪の地面に叩き付けられていた。

 轟音と一緒に「うっ……!!」と、僕の悲鳴が響き、頬から出た血の味が広がった。だけど、それを吐き出す前に真耶さんに退いてもらわなければいけなかった。

「大丈夫か! 痛みは? この状況で我慢は危険過ぎるから」

 警察の人に痛む箇所を伝える。高所からの転落だけど、クッションのおかげか、明確な悲鳴は腰と左足首だけだ。涙が滲むほど痛いけど、幸いにも歩けないわけじゃない。

「打撲と捻挫かな……骨折じゃなければいいけど……」

 警察の人は振り返り、たった今僕たちを轢き殺そうとした真耶さんの車――だったものに近付いた。今は小さな煙をあげて雪の中でひしゃげているが、運転手の姿は無い。

「サイドブレーキは……ちゃんとしてるのに何で動いたんだ……?」

「それよりも……真耶さん! 何で避けないんですか! あのままじゃあなたは――」

「ごめん……何が起きたのかわからなくて……」

 真耶さんは目を伏せると背を向けた。僕としてはその理由に驚かされた。人間らしきものを見て、一切顔色を変えなかった人が、パニックで反応が遅れたというのだから……。

「君、彼女を責める前に応急手当てだ。足を出して」

 警察の人はテキパキと応急処置を施してくれた。真耶さんの車にあった段ボール、僕の手拭い、落ちていた木を副木として使い、二人に連行される形で歩けるようにはなった。

「これで……良し! とりあえず応急手当てだから、すぐに病院だ」

「ありがとうございます……えっと……」

「ああ、本官は人形峠の駐在所に勤務する相澤猛巡査です」

 その相澤さんに感謝を伝え、僕は此処まで来た理由を手短に説明した。すると、相澤さんも佳奈という女の子を捜して山に入ったと教えてくれた。

「それにしても参ったな……負傷者まで出るなんて」

「あの車……動いただけじゃないんですよ。向きを変えて僕らに突っ込んで来たんです」

「まさか……。とりあえず、峠を下ろう。この崖に沿って進めば大丈夫のはずだから」

 相澤さんの案に従い、僕は真耶さんに支えてもらいながら雪の中を進む。

「もしかしたら……他の連中もこうやって落ちたのかもね」

 そうだとしたら、同じように下山しようとしたのかもしれない。だけど吹雪が酷くなったから、穴蔵か何かで止むのを待っているのかもしれない。

 どうか……無事で……。

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